日日いろんな色に触れた。
真っ白い体に薄いブルーの眼をしている猫が下宿のはす向かいの家の玄関脇にある万年青(おもと)の陰で香箱を作っている。暖色を差し挟まない、涼やかな絵面ができあがる。人を恐れる風でもないし、毛並みがきれいで汚れていないからどこかの飼い猫だろう。一時期真っ黒い体に金色の眼をしている大きな猫と一緒にいるのをよく見かけた。それからまた白い猫だけいることが多くなり、しばらく見かけないと思ったら真っ白い体に金色の眼をしている小さいかわいいのと並んで座るようになった。色が受け継がれる。当たり前のようで不思議なようで、どこか感動的ですらある。説明としての遺伝は無粋である。
大学の行き帰り毎日のように通りかかった平野神社は、桜花爛漫の春ともなればほのかにピンク寄りの白で膨れ上がる。北野の杜の緑は春先から初夏にかけて勢いを増し、雨に濡れると黒い幹との対比を強めるその冷たさを持たない透明感は周囲が明灰色にけむる中清清しくも楚楚とした佇いを醸し出す。紅葉の時期鹿苑寺の空を見上げると、黄土色に近いものから臙脂(えんじ)にいたるまで幾種類もの赤で絢爛と賑賑しく華やいだ合間にずっと高いところの淡い青を仰ぐことになる。同じ空なのに冬になると地軸の傾きと南中高度などというこれまた無粋な説明を持ち出すまでもなく早い時間から夕日のような色合いを帯びて黄色っぽく見えるが、冬の京都には晴天よりも似つかわしい曇天の鴨川の、鈍色(にびいろ)に沈む寂寞とした風景の中に点点と鮮やかな白を置く都鳥は嘴と脚に持つはっとするようなオレンジ色を垣間見せる。
そのほか移ろう季節に関わりなく多くのオバサマの髪は紫色だし、大半の焼き鳥チェーンの看板は赤くラーメン屋の看板は黄色い。のだが、京都というところには不思議と色彩のイメージがない。
彩を持たない印象は繁華なあたりとても同じこと、四条河原町、大手私鉄系列の今はもうない百貨店の前あたりで落ち合って、河原町通を北上するか四条通を東進するか。四条河原町から三条のあたりまで、用事と面子によって東は木屋町通から西は寺町通までの幅を持って北上していくと否が応でも色色な色が目に入る。四条通を東に向かうと気づかないうちに高瀬川を渡って木屋町通を越え、先斗町の入り口を過ぎるあたりまでは窮屈な感じがするが、途中に「すこん」と開けた鴨川をはさんでそこから祇園までの眺めはゆったりと間延びして、北上するときほど色が犇きあっている感はない。それでも突き当たりにある八坂さんの朱色まで、行き交う人の服装を含めていろんな色が点在する。どちらに向かうとしても最終的にはどこか居酒屋、か、時期と手持ちの条件が合えばどこかの川床、に落ち着いて、その後居合わせたメンバーによってショットに行く、か、誰かの下宿にもどって長っ尻をする、のが関の山であるが。その関の山の記憶が彩られていない。モノクロではなく、淡い単色の濃淡でありながらその色が判然としない。勿論、個個の人、もの、場所、状況については天然色なのだが、こと『京都』となるとこれという色がないのである。風景全体として大きな調和がとれていたということか、到底そうとも思われないが。
『地球屋』か『東華菜館』か、面子からすると『れんこんや』ではなかったとは思うが、新京極界隈のアーケード街をひやかした後、どこかで呑もうと何人か連れ立って河原町通を南に向かってぞろぞろと歩いていた。歩道にはずっと屋根がついている。
「あ、雨だ」
「えっ、うそっ!」
いや見上げなはんな。屋根の下やここ。
『雨』という言葉に反応して、屋根の下であろうとアーケードの下であろうと反射的に上を向いてしまう。一度や二度のことではない。記憶の中でその人は緑色のコートを着て屋根を見上げている。
夏の熱く乾燥して白っちゃけたアスファルトの上に雨が降り始めたときの、あの焦げたようなにおいを感じ取ると何らかのスイッチが入るらしい。夏の京都では「ひと雨降って涼しくなる」ことなど望むべくもなく、雨はその後の熱(いき)れの先触れでしかない。それでも黄昏前の、青味を失いつつある風景と結びつくそのにおいをかぐと何か懐かしいような、せきたてられるような気持ちに駆られた。
いつものように下宿で呑んでいた。夏の西日が差して西側の三畳間の窓の曇りガラスが黄色味の強いオレンジ色に光っている。電話を置いていたのは三畳間の方だったので、誰かに呼び出しの電話をかけたのかもしれない。どういうわけだか居合わせた三人が三人とも西日に照らされるそっちの部屋にいて、各各がビールを片手に窓の外を眺めている。一人は出窓に腰をかけて、逆光のシルエットになっている頭髪の輪郭が透明なオレンジ色でほんのりと浮き上がる。
「あぁ、雨のにおいがする」
ぱらぱらと音が聞こえてきて直に、出窓に腰をかけているのが言った。空は明るく、西日は眩しい。濡れるというほどのこともなくすぐに雨は止んで、あの焦げるようなにおいだけが残った。そこはそれだけの話。やがて何人か追加メンバーがやって来たのでいつもの四畳に移動して、いつもの呑み会になる。その後のことは知ったことではない。毎度のことで、何か追及すべきことがあったとも思われないので。ただその前に見た黄金に近い、眩しく透き通るオレンジ色は口惜しいことにどんな顔料を使ってみても、どんなインクを使ってみても紙の上に再現できないでいるまま、今ではあの雨のにおいと結びついている。
そんなひとつずつの細細したエピソードと結びついた色ばかりではなく、ぷっくりとかわいらしくはちきれんばかりになっている加茂茄子の、ハイライトの白から輪郭の漆黒まで深みを増していく藍色のグラデーション、湯引きした鱧の白い身に絡みつく梅肉の赤、行きつけの居酒屋の少し暗めの照明に照らされる壬生菜漬けの緑。運がよければ夕暮れ前の宮川町界隈で遭遇する舞妓さんの色とりどりの着物と白い顔に紅の差し色。『おいしい』色も『きれい』の色もちゃんと覚えている。
ひとつずつが鮮烈なので全体としてまとまりがつかないということか、未だに『京都』の色は定まらない。
真っ白い体に薄いブルーの眼をしている猫が下宿のはす向かいの家の玄関脇にある万年青(おもと)の陰で香箱を作っている。暖色を差し挟まない、涼やかな絵面ができあがる。人を恐れる風でもないし、毛並みがきれいで汚れていないからどこかの飼い猫だろう。一時期真っ黒い体に金色の眼をしている大きな猫と一緒にいるのをよく見かけた。それからまた白い猫だけいることが多くなり、しばらく見かけないと思ったら真っ白い体に金色の眼をしている小さいかわいいのと並んで座るようになった。色が受け継がれる。当たり前のようで不思議なようで、どこか感動的ですらある。説明としての遺伝は無粋である。
大学の行き帰り毎日のように通りかかった平野神社は、桜花爛漫の春ともなればほのかにピンク寄りの白で膨れ上がる。北野の杜の緑は春先から初夏にかけて勢いを増し、雨に濡れると黒い幹との対比を強めるその冷たさを持たない透明感は周囲が明灰色にけむる中清清しくも楚楚とした佇いを醸し出す。紅葉の時期鹿苑寺の空を見上げると、黄土色に近いものから臙脂(えんじ)にいたるまで幾種類もの赤で絢爛と賑賑しく華やいだ合間にずっと高いところの淡い青を仰ぐことになる。同じ空なのに冬になると地軸の傾きと南中高度などというこれまた無粋な説明を持ち出すまでもなく早い時間から夕日のような色合いを帯びて黄色っぽく見えるが、冬の京都には晴天よりも似つかわしい曇天の鴨川の、鈍色(にびいろ)に沈む寂寞とした風景の中に点点と鮮やかな白を置く都鳥は嘴と脚に持つはっとするようなオレンジ色を垣間見せる。
そのほか移ろう季節に関わりなく多くのオバサマの髪は紫色だし、大半の焼き鳥チェーンの看板は赤くラーメン屋の看板は黄色い。のだが、京都というところには不思議と色彩のイメージがない。
彩を持たない印象は繁華なあたりとても同じこと、四条河原町、大手私鉄系列の今はもうない百貨店の前あたりで落ち合って、河原町通を北上するか四条通を東進するか。四条河原町から三条のあたりまで、用事と面子によって東は木屋町通から西は寺町通までの幅を持って北上していくと否が応でも色色な色が目に入る。四条通を東に向かうと気づかないうちに高瀬川を渡って木屋町通を越え、先斗町の入り口を過ぎるあたりまでは窮屈な感じがするが、途中に「すこん」と開けた鴨川をはさんでそこから祇園までの眺めはゆったりと間延びして、北上するときほど色が犇きあっている感はない。それでも突き当たりにある八坂さんの朱色まで、行き交う人の服装を含めていろんな色が点在する。どちらに向かうとしても最終的にはどこか居酒屋、か、時期と手持ちの条件が合えばどこかの川床、に落ち着いて、その後居合わせたメンバーによってショットに行く、か、誰かの下宿にもどって長っ尻をする、のが関の山であるが。その関の山の記憶が彩られていない。モノクロではなく、淡い単色の濃淡でありながらその色が判然としない。勿論、個個の人、もの、場所、状況については天然色なのだが、こと『京都』となるとこれという色がないのである。風景全体として大きな調和がとれていたということか、到底そうとも思われないが。
『地球屋』か『東華菜館』か、面子からすると『れんこんや』ではなかったとは思うが、新京極界隈のアーケード街をひやかした後、どこかで呑もうと何人か連れ立って河原町通を南に向かってぞろぞろと歩いていた。歩道にはずっと屋根がついている。
「あ、雨だ」
「えっ、うそっ!」
いや見上げなはんな。屋根の下やここ。
『雨』という言葉に反応して、屋根の下であろうとアーケードの下であろうと反射的に上を向いてしまう。一度や二度のことではない。記憶の中でその人は緑色のコートを着て屋根を見上げている。
夏の熱く乾燥して白っちゃけたアスファルトの上に雨が降り始めたときの、あの焦げたようなにおいを感じ取ると何らかのスイッチが入るらしい。夏の京都では「ひと雨降って涼しくなる」ことなど望むべくもなく、雨はその後の熱(いき)れの先触れでしかない。それでも黄昏前の、青味を失いつつある風景と結びつくそのにおいをかぐと何か懐かしいような、せきたてられるような気持ちに駆られた。
いつものように下宿で呑んでいた。夏の西日が差して西側の三畳間の窓の曇りガラスが黄色味の強いオレンジ色に光っている。電話を置いていたのは三畳間の方だったので、誰かに呼び出しの電話をかけたのかもしれない。どういうわけだか居合わせた三人が三人とも西日に照らされるそっちの部屋にいて、各各がビールを片手に窓の外を眺めている。一人は出窓に腰をかけて、逆光のシルエットになっている頭髪の輪郭が透明なオレンジ色でほんのりと浮き上がる。
「あぁ、雨のにおいがする」
ぱらぱらと音が聞こえてきて直に、出窓に腰をかけているのが言った。空は明るく、西日は眩しい。濡れるというほどのこともなくすぐに雨は止んで、あの焦げるようなにおいだけが残った。そこはそれだけの話。やがて何人か追加メンバーがやって来たのでいつもの四畳に移動して、いつもの呑み会になる。その後のことは知ったことではない。毎度のことで、何か追及すべきことがあったとも思われないので。ただその前に見た黄金に近い、眩しく透き通るオレンジ色は口惜しいことにどんな顔料を使ってみても、どんなインクを使ってみても紙の上に再現できないでいるまま、今ではあの雨のにおいと結びついている。
そんなひとつずつの細細したエピソードと結びついた色ばかりではなく、ぷっくりとかわいらしくはちきれんばかりになっている加茂茄子の、ハイライトの白から輪郭の漆黒まで深みを増していく藍色のグラデーション、湯引きした鱧の白い身に絡みつく梅肉の赤、行きつけの居酒屋の少し暗めの照明に照らされる壬生菜漬けの緑。運がよければ夕暮れ前の宮川町界隈で遭遇する舞妓さんの色とりどりの着物と白い顔に紅の差し色。『おいしい』色も『きれい』の色もちゃんと覚えている。
ひとつずつが鮮烈なので全体としてまとまりがつかないということか、未だに『京都』の色は定まらない。