「私が傷つくからそれを止めてくれないか」は個人の意見の表明としては有っても、度を越した勢い、例えば数の力でそれらを抑え込もうとすれば表現の弾圧になる。私はそんな方向を望んではいない。
「面白いと思うかつまらないと思うか」「美しいと思うか醜いと思うか」それも個人の感覚で必ず変わってくる。万人が納得する感想はない。私は私の拒否感を私の感覚として示すだけで、それらを抹殺しようとは思っていない。そこに自らを被害者として強調し差別を楯に語る姿勢も避けたい。
だから「表現としてどう感じるか」という点を論じたり、責めたりするつもりはない。でも、その表現に対して、発信者としての責任を受け止める覚悟が見えない姿勢には嫌悪感と、拒否感を示す。
単なる表現ならその発信者が責任を負えばいい。しかし地元に携わる活動となれば、巻き込まれるのは地元の人々の感情だけではない。生活にも波及するかもしれない。その時に、責任を負う覚悟の見えない人間を、私は信用に値しないと思うだけだ。
繰り返すけれども、私はあの計画に関しては遠い、郡山の住人だ。だから地元の人々が、あの地を故郷に持つ人々が納得し、理解しあって計画を推進するならそれは構わないだろうと思っている。あの主宰を信用に値しないと思うのは私の個人的な感覚だ。
福島の人間と言っても千差万別であるから、あの主宰に共感し協力したいと感じる人がいても何もおかしくはない。
ただ、「シナリオを描く」事に長けた相手は、そのキャスティングにも器用に動く事が出来る、とは思っているけれども。
幾らでも「自分好みの福島(フクシマ)」という舞台を造り、自分好みの「福島(フクシマ)の人々」を配置する事は可能なのだ。
そんな「自分好みの舞台とストーリー」を作りたいがために、己に都合のいい「福島(フクシマ)の人」「福島(フクシマ)の生活」「福島(フクシマ)の未来」「福島(フクシマ)の現実」を探しに来る人は後を絶たないし、その動きは来年も続くだろう。
上手に形作られたシナリオの、舞台の主役に抜擢されたと浮足立つ人々の中には、利用されているだけという人もいるかもしれない。そこに気付く日が来ればいいが。いや、気付かずに騙されたままの方が幸せと言う事もあるけれど。
「利用されているのではなく利用しているのだ」という言葉は、言った時点で空々しく、哀れに感じる事の方が、私には多いが。
私の知り合いのいわきの方(被災地ボランティア活動もしている)は「アートや演劇と聞くだけで警戒するようになった」と話してくれた。それだけ、その言葉を持って被災地に乗り込んでくる人々に対しての不信感を持つ出来事があったのだろう。それはアートや演劇にとって、不幸な事ではないか。
私の個人の意見としては、本当に質の良いアートや表現であれば、もう「福島」という冠を被らなくとも、人の心を掴むと思っているけれども。
@fukufukuomochi そうなのですね。アリオスは開催される舞台も郡山からは垂涎もので、文化的に進んでいるなと羨ましいことしきりだったんですが…。私は本来は表現活動を好む側の人間ですから、そんな誤解を抱かれたままになるって、勿体ない事とも思います。
優れた表現者も、覚悟を持って表現に携わる者も、いやその方が多いと思っている。被災地にかかわろうとする人だってそうだろう。だからこそ、誤解が深まるような言動・行動を取る人がいる事は、不幸でしかないと思う。
【お知らせ】2014年初売り福袋情報です。
恒例1月2日売り出しの高政福袋…7~8000円分入って3000円(税込)です。
今年は福島県郡山市のうすい百貨店での販売もあります。
宮城も福島も頑張りましょう!!
女川から愛を込めて!
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