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昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

日本の鉄道運行はなぜ正確なのか? 思いがけない皇室との関わり

2016-01-19 01:00:03 | 日本の素晴らしさ
私達には当たり前の事でも、日本に来た外国人がビックリする事は沢山にあるらしい。
先日にあるサイトで見かけた”中国人が日本に来てビックリした事”は・・・・・「日本の自転車(特に車輪)は何故ピカピカにきれいなのか」であったらしい。私達は特別にきれいだとは思わない、しかし中国の自転車は確かに汚いらしい。

さて、今日は日本の鉄道だ。
決まった時間に来て、決まった時間に目的地に到着する。
これが凄いというのだが、これが当たり前の日本人は?だ。
しかも時間通りだけでなく停車位置も正確だ。乗り口の案内表示にて待っていれば、そこに列車の出入口がピタッと止まる。
これは・・・・・実は皇室の「お召し列車」にそもそも端を発していると友人に教えられた。
< 時間に正確な日本の鉄道を見て驚きを隠せない外国人>


以下、私の友人の記事の転載です。

日本の鉄道運行はなぜ正確なのか?
世界に冠たる日本の鉄道運行ダイヤの正確さは日本の誇りです。
日本に来た外国人の多くが異口同音に感嘆と驚嘆の声を上げ、「日本人の民族性の表れ」と賛美し、「(そこまでする)日本人って怖ろしい」とさえ感じさせる脅威的で誠実な運行管理です。

JR東日本の統計によると、一列車あたりの遅れは新幹線が平均0.3分、在来線が平均1.0分という。
新幹線の95パーセントと、在来線の85パーセントは時刻表通りにきちんと発車している事になります。

例えば、一日になんと217本の列車を発着させる、東京駅の東北・上越新幹線ホームでは、これだけ過密スケジュールになると、盆・暮の混雑時には後続電車待ちの乗客をホームに収容する事すらできません。
そこで考えられたのが、電車毎に指定席・自由席の配列を変える事によって、ホームに並ぶ乗客の位置を分散させる手法だとか。

乗降客の量、手荷物の数、そこから予測されるホーム上の占有スペース等々を、数値が厳密にシュミレーションされる事によって、アクロバット的な東京駅の発着数は実現出来ているらしい。

一般に発売されている列車時刻表では分刻みですが、鉄道マンが持つ「運行表」は5秒刻みだそうです。
世界的にみたら、「分刻み」っていうだけも「驚異的」なのです。
外国人にとって、日本で列車が10分遅れただけでお詫びのアナウンスが流され、「遅延証明書」が出るなんていう事が信じられないそうです。

世界では列車が30分、一時間遅れるなどは日常茶飯事なのに、日本では、鉄道マンは5秒刻みで運行しているのは、「なぜそこまでする?」でしょうか。
その理由が、「御用列車」の存在なのです。
外国人が口を揃えて「日本以外ではありえない」と評価するその鉄道ダイヤの「正確さ」と「緻密さ」は、すべて、 皇室の「お召し列車」のお蔭だったそうです。
つまり、日本に皇室があったから、そういうダイヤの正確さが求められ確立したのです。

陛下がお乗りになるお召し列車の運行は、余程の熟練した人でないとダイヤが組めないそうで、「お召し列車の運行」には絶対に守らなければならない「三大原則」があるそうです。
それが、
①お召列車と並行して走ってはいけない。
②お召列車を追い越してはいけない。
③お召列車の上を走ってはいけない。

この三つを徹底して守りながら、かつ、通常の列車の運行も止めてはいけないのです。
そんな 離れ業 を実行するためには、緻密な計算されたダイヤが必要になるという事なのです。
つまり、日本の技術の底上げに、皇室の存在が貢献していた。

日本に「皇室があるからこんなダイヤが作れるのなら、どうして他所の王国では作れなかったの?」と思いませんか。
経済力や民度の差でしょうか。
それも少しは要因になっているでしょうが、違うのです。

実は、日本と、他の王様や皇帝がいた国との間には、決定的な違いがある。
他の王国や帝国にも、こんな「三大原則」があったとしても、他の王国ではおそらく、「お召列車」を優先するためなら、他の列車は躊躇なく止めるでしょう。
全部を止めないにしても、幾らかは努力があったとしても、「その列車止めろ!」で済ますでしょう。
「お召列車」も「一般国民の列車」も(平等に)絶対に支障が出ないようにダイヤを組む、などは出来ないでしょう。

恐らく、「できない」以前に、「やる必要を感じない」というのが正解だと思います。
「必要を感じない」から「やらない」だから「出来なかった」のであって、対して日本は、「必要を感じた」から「やろうとした」だから「出来た」のだと思います。

『お召列車の原則をきっちりと守りつつ、庶民の列車の運行も乱さない』
それは、日本に「皇室」があるからで、「王様」ではなく「天皇」だからです。
ヨーロッパや中国の「王様」や「皇帝」っていうのは、自分は国民を支配していて、国民は自分のものであって、国民は自分のためにあるものだと思っている。
だから、自分のために国民が我慢し、不自由しても「当たり前」だと思っているのが、他の国での「君」と「民」の関係です。

しかし、日本の「天皇」は、古今東西において世界で唯一、その関係を 「君民共治」 と言い、これが1300年前に書かれた「古事記」や「日本書紀」に記された「日本の建国の理念」に「天皇は民のためにある」という考えを、古代から今日に至るまで踏襲しているのが今の天皇・皇室です。

現代でも「明治憲法(大日本帝国憲法)」に明記され、「日本国憲法」に引き継がれ、守られた「日本の国体」なのです。
つまり、「君」は「民」のために存在し、「君」と「民」は平等まではいかないまでも、けっして「敵対」したり、「支配」したりはしないのです。

世界で唯一、この日本だけが、「君は民のために存在している」という事を
本気で思っている国なのです。
だから、陛下の乗る「お召列車」の原則を守りながら、かつ、国民の列車にも支障が出ないようにという配慮が生まれるのでしょう。
その配慮があるから、あんな厳密な驚異的なダイヤを作りだしたのではないでしょうか?

日本技術の底上げは、こうした「和」の精神を基調とした「君民共治の皇室(天皇)の存在があるからなのです。
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マッカーサーを心服させた昭和天皇

2016-01-18 02:37:29 | 日本の素晴らしさ
昭和天皇が強烈なご印象を残されたのは、戦後すぐのマッカーサーとの対面の場面です。

終戦時において、陛下に対する占領軍としての処置の仕方は、四つありました。
一、東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
二、共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三、中国へ亡命させて中国で殺す。
四、闇から闇へ、一服を盛る事によって陛下を葬り去る事。

昭和20年9月27日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りです。
ついに天皇を捕まえるべき時が来たと、マッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。

マッカーサーは、陛下は当然命乞いに来られたものと思い、傲慢不遜にもマドロスパイプを口に咥えて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『 日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任は、この私にあります。私の命において全てが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑は勿論の事、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります 』

弱ったのは通訳でした、その通り訳して良いのか。
陛下は続けました、『 しかしながら、罪なき国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿においてまさに深憂に耐えぬものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように 』

このような態度を見せられたのは、歴代敗戦国の中でも天皇ただ一人であったのです。
これを聞いたマッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」と。

マッカーサーは、今度は一臣下の如く、直立不動で陛下の前に立ち、こう言いました。
「天皇とはこのようなものでありましたか! 私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来まする事があれば、何なりとお申しつけ下さい。」 

陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、答えました。
「命をかけて閣下のお袖に縋っておりまするこの私に何の望みがありましょうか、重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
その後、マッカーサーは、玄関まで伴い、車の扉を開け、陛下を見送ったのです。

その後、慌てて 階段を駆け上がって、本国と連絡業務の指示をしたそうです。そして8千万人分の食糧を日本に送るよう訴えました。
何故、日本人は8千万人としての手続きと言ったのでしょうか。
1億の全国民から全ての戦死者を差し引いて、実は6千6百万人しか国民が居りませんでした。
それをあえて、マッカーサーは、「8千万人分」として食糧を、本国から取り寄せ救ってくれました。

実は米国大統領からは、「日本に1千万の餓死者を出すべし」と、マッカーサーに命令が来ていたのです。
つまりマッカーサーは、天皇陛下のご人徳にふれ、本国の方針を知りながら、否、知っていたからこそ、内緒で食糧放出を8千万人の計算で、陛下のために提供してくれました。
それが後で、本国にばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由は それであったというのが、事の真相です。

世界の常識として、負けた国のトップは例外なく「自分は悪くない」と、「他の奴等が起こした事で、私は反対したのだ」とかなんとか言って、自分の助命を嘆願するのが世の常だった。
当然、マッカーサーも、昭和天皇は「命乞い」に来るものと思っていた。
だから、天皇を迎える時も、自分は出迎えもせず、司令官室で座ったまま、しかも軍服も略装でふんぞり返って、「果たして天皇がどんな言い訳をするのか」を楽しみに待ち構えていた。

ところが、天皇は予想もしない言動に出た。
開口一番に「この戦争の全ての責任は自分にある。自分の命はどうなっても構わないから、国民を飢えさせないで欲しい」
この昭和天皇の言葉は、公式には発表されていませんが、いくつかの「形」でそれは証言されています。

マッカーサーは、この時の出来事を日記に残し、後に回顧録として残しています。
また、時のマッカーサーの副官で、専任の通訳をしていたパワーズという人物が、この会見直後にマッカーサーから聞いた話をメモに書き残しています。

そこには、はっきり、「全責任は私にあるので責任は私が取る」事と、
「国民や、東條や重光を罰せずに、私を罰せよ」という事が書いてあったと言います。

また、当時の陛下の侍従長をしていた人物も、天皇の御発言を書き残した備忘録で、「敗戦に至った責任が取りざたされているが、全責任は私にある」
「文武百官はわたしが任命したものであるから、彼らには責任はない」
「この身はどうなってもいいから、貴方にお任せする」
「この上は、国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と。

そのとき付き添った日本人通訳も、「国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に餓死者が出るから、ぜひ、米国に食料援助をお願いしたい」
「ここに皇室財産の一部である有価証券を持参したので、その一部に充てて貰いたい」と言って、大きな風呂敷包みを差し出したそうです。

こういう「天皇の素晴らしい逸話」があると、左翼はすぐに「それは捏造だ」「戦後の都合のいい作り話だ」と言うけれど、これだけ複数の人間が、「それぞれの言葉」で書いたものが残っているという事実は動かしようもない事です。

天皇を恨む国民や、国家を恨む国民感情や、軍司令部を恨む表現が、多くの方々の著書や主張に差し込まれていますが、勿論そういう感情をもった人が皆無とは言いません。

昭和天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行すべきとする、日本共産党、日本社会党や解放運動家から意見主張が出されたが、この意見は天皇制に対する批判と、昭和天皇個人の戦争責任追及とを混同してしまう事があった。

マッカーサーは日本国民の心情を知り、本国で「天皇制廃止論」があったのを反対し、「存続させるべき」と主張し、東京裁判に訴追をしない事とした。


アメリカの通訳であった米人も次のように語っています。

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皇室の素晴らしさ 昭和天皇のエピソード

2016-01-17 01:16:06 | 日本の素晴らしさ
昭和天皇が崩御されて、もう28年となりました。
今日はその昭和天皇の素晴らしいお人なりをご紹介いたします。
素晴らしいエピソードで、昭和天皇のお人柄と、それに接する日本人の心情がよく描かれていると思います。
   

先祖代々伝えられそして培ってきた文化と心を、我々の世代で失くしてはならない、大切な物があります。
昭和天皇を偲びつつ、調寛雅氏の「天皇さまが泣いてござった」から一部転記して紹介させて頂きます。

昭和天皇は終戦直後の混乱の中で、「全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与える事が自分の責任と思う」とのお考えのもと、昭和21年から約8年半、総日数165日をかけて、沖縄以外の全都道府県、お立ち寄り箇所1411カ所、3万3千キロを回られたのです。

占領軍の間では
「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男という事を日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、という事をね」などという声も出て、このご巡幸を許可しました。

イタリアのエマヌエレ国王は国民から追放されており、日本の皇室の運命も風前の灯火のように考えられていたとしても不思議はありません。

しかし、その結果は、占領軍の予想に反したものでした。
佐賀県基山町に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。

この寺の住職、調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。
そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。

この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。
因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と、反対する人で対立が起きました。

歓迎するのにも命がけの雰囲気で、反対派から何をされるか分からない。
5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろんな想いの群集から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。それは、地響きのようでした。

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。
「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」
声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」老婆は泣き伏してしまった。
じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

それから陛下は門前から洗心寮に入られます。
子ども達は、夫々の部屋でお待ちしていました。陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。
「どこから」「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」「ああ、そう」

「おいくつ」「七つです」「五つです」
「立派にね。元気にね」一人一人にお声をかけられます。
そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。
陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。
侍従長以下は「何事があったのか」と足を留めます。

しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。
「お父さん。お母さん」と、お尋ねになる。
女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのです。
女の子が「はい。これは父と母の位牌です」と、返事します。
「どこで」「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」

「お淋しい」
「いいえ。淋しい事はありません。私は仏の子供です。
仏の子供は亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、きっともう一度会う事が出来るのです。

お父さんに会いたいと思う時、お母さんに会いたいと思う時、私は御仏さまの前に座ります。
そして、そっとお父さんの名前を呼びます。
そっと、お母さんの名前を呼びます。
するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。
私は淋しい事はありません。
私は仏の子どもです。」と答えました。

陛下と女の子は、じっと見つめ合います。
さらに陛下は部屋の中に入られ、右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、撫でられたのです。
陛下は「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。
多くの人たちは、言葉無く佇みます。
新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。

孤児院から出られる時、子供達が陛下の袖を持ち、「また来てね、お父さん」と言います。
陛下は、流れる涙を隠そうともせず「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。
そして後に、一首の歌が届けられました。

「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」

調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉を皆に響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。
今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きが辺り一帯に響き渡るそうです。

洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。
陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。
その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。

シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達でありました。
すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。
恐れていた事が起こる気配です。

周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、その者達とお話になられます。
陛下はその者達に深々と頭を下げられます。
「長い間、遠い外国で色々苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思う時、私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があった事に対し、深く苦しみを共にするものであります。」

「皆さんは、外国において色々と築き上げたものを全部失ってしまった事であるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進む事を、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」非常に長いお言葉を述べられます。
陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。
陛下は、彼らの企みをご存知ない。

陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。
「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。引き揚げてきた時は、着の身着のままでした。
外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。

ああ、戦争さえなかったら、こんな事にはならなかったと、思った事も何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。
しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。
天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃる事が、今、わかりました。
今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」と言いました。

その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき泣き伏しました。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。 俺が間違っておった。俺が誤っておった。」と号泣するのです。
その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。
泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。

じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。
陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。

三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され
ようやく陛下は歩を進められたのです。

陛下が涙を流された時、人々は知りました。
陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。
陛下は、危険を顧みず全国を御巡幸され続けます。そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。
戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。
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天皇陛下と皇室の想い出

2016-01-16 04:25:10 | 日本の素晴らしさ
昨日に天皇陛下の事について触れさせていただいた。
今日は私自身と皇室のことについて想い出を記してみたい。

初めて皇室の方のお姿に触れる機会を得たのは高校生の時でありました。
当時通っていた東京の高校が浅草の沿線で、放課後はしょっちゅう浅草を散策していました。帰路は浅草駅から東武線で帰るのですが、ある日駅が大変な人だかりで賑わっております。
日光でご静養されていた皇太子殿下ご夫妻(今上天皇皇后両陛下)が東武線にてお帰りになり、浅草駅からお車に乗るところでした。二階からエスカレーターに乗られて降りられてくるお姿を拝見したのがその時でした。
その時が昭和30年の後半ですから、ご成婚後まだ6~7年の時だと思います。
オーラがおありになる、率直な印象はそれでありました。

時期を同じくして、父親が新年のご参賀に皇居に行くからと家族で出掛ける機会がありました。
初めて二重橋を渡り、既に広場には多くの人々がいます。
さて、昭和天皇をお始めに皇族の皆様がお出ましになりました。どこからとなく「天皇陛下万歳!」の声が湧き上がり、私も又それに声をあわせました。日の丸も盛んに振られておりました。
感動する場面であったと記憶しております。
以下は今年の一般参賀のご様子です。

【皇尊弥栄】平成28年 皇居一般参賀【皇紀2676年1月2日】


それからだいぶ経って舞台は北海道札幌でした。
国道の沿線で車に乗って仕事中、私も含めて総ての車が警察によって国道から脇道に誘導されました。
一台の車もなくなった国道を天皇陛下がお乗りの車が、多くの先導者に誘導されながら走り去ってゆきました。陛下のお姿を認める事もかないませんでした。
札幌の隣町、野幌の百年記念塔に行幸の時の一コマでした。

秋田に来る数年前、当時いた富山市であるパーティーがありました。
そこにご臨席いただいたのが高円宮ご夫妻で、なんと円テーブルで同卓でありました。
先般のオリンピック誘致の演説でご立派にお役目を果たされた久子様は大変に社交的で、お酒も随分といただいていた記憶があります。
憲仁親王殿下はその後に若くしてお亡くなりになりました。

私が子供の頃、近隣の家や親戚の家には天皇陛下のお写真(御真影)が飾られているのが珍しくはありませんでした。
我が家には陛下のお写真はありませんでしたが、二重橋のお濠に白鳥が三羽連なっている写真が飾られておりました。取り留めもない話で・・・・・
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皇室の素晴らしさ

2016-01-15 03:13:06 | 日本の素晴らしさ
大相撲初場所の初日(十日)に天皇皇后両陛下が大相撲を観戦された。両陛下が観戦される相撲は「天覧相撲」と呼ばれれている。平成に入ってから19回目の天覧相撲だそうです。
*昭和天皇が、ただ一回プロ野球の巨人阪神戦をご覧になっった事があり、これは「展覧試合」と呼ばれている。

この初日に両陛下がご入場されロイヤルボックスにお座りになるまでの、ご様子をテレビで拝見していたのだが、皇室がいかに国民に愛されているのかが実感された。
既に両陛下のご入場が館内にアナウンスされると、観客は起立をしてお迎えする。大きな拍手と共にだ。
両陛下はゆったりとしたご様子で所定の位置まで移動され、それからお座りになる前に、お手を振って四方にお顔も向けられる。
観客も万雷の拍手だ。
<天覧相撲 ロイヤルボックスご着席、お帰りのご様子(平成28年初場所 初日)>







天覧相撲と言っても特別に通常と変わる事はないのだが、ただ一つ幕内力士の土俵入りのやり方が異なる。(上が通常、下は天覧相撲)今場所の画像ではありません。




全ての取り組みが終了。土俵上では最後の弓取り式が行われる。
弓取り式は土俵上の神事である。
両陛下は弓取り式をも、真剣な眼差しでご覧になられていた。

弓取り式が終わり両陛下がご退場される旨、館内にアナウンスされると、観客は一斉に立ち上がって両陛下のご退場を惜しみ、拍手や歓声で見送られる。この時、館内に独特の連帯した空気、一体感が醸成される。

私はTVでその光景を眺めていた訳だが、日本人の皇室を崇拝する姿に胸にこみ上げるものがあり、自然と目頭が熱くなる。

年が改まって韓国・中国の批判記事が続いた。
ここ暫くは、皇室に内容を絞って書き進めてみたい。
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本11

2015-10-01 03:17:22 | 日本の素晴らしさ
しかし”性の放縦”に関する観察も又事欠かない。
ヴェルナー「日本にはそもそも欧米的な意味における無邪気さなどない。
絵画、彫刻で示される猥褻な品物が、玩具としてどこの店にも堂々と飾られている。
これらの品物は父は娘に、母は息子に、そして兄は妹に買ってゆく。十歳の子どもでもすでに、ヨーロッパでは老貴婦人がほとんど知らないような性愛のすべての秘密となじみになっている」

ヴィシェスラフツォフ「本屋の三文小説の挿絵には、品位というものにまったく無頓着なものがあり、しかもそういう絵本を子どもが手にしていた。子どもらはそれが何の絵であるか熟知しているらしかった」

トロイ遺跡のシュリーマン「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見ておおいに楽しんでいる」

再びヴィシェスラフツォフ「菓子職人が客の見ている前で柔らかくて甘いこね粉を丸め、われわれのところでは解剖学教室以外では見ることのできない例の形を作ってみせる」
ヒューブナー「砂絵で様々なものを描いた絵師が最後にエロティックな主題を描くのであった。それを見て婦人や少女は欣喜雀躍した」
サトウ「千住の手前の遊郭のある町では”まらの形をした子どもの駄菓子”が沢山売られていた」

当時の日本には性に対する”禁忌意識”が乏しかったのは確かなようだ。性に対するのどかな開放感といってもよい。
しかし、一方で徳川期の日本人は性を笑いの対象ととらえていた、との見方も強い。好意的に解釈すれば、それは人間性についてのリアリズムに基ずくある種の寛容と解釈する人もいる。

一方、遊郭(公娼宿)については私は見識を改めた。私の拙い知識は寒村から売られた娘が、性を商売に自由も束縛され一生惨めな境遇を送り、場合によって疲労からくる労咳で命を落とす薄幸の場所であった(映画の見過ぎか・・・・)。

まず遊郭は”法律・お上が認めている”場所であって”みだらな隠れ家とも卑猥な出会いの場所”ともみなされておらず、身分の高い人がそこで友人をもてなすほどだ。

年季を了えた遊女は”恥かしめの目で見られることなく、ごく普通の結婚をする”のはよくある事だ。
以上は長崎の遊郭についてオランダ商館の医師ツュンベリの報告である。
パンペリー「遊郭で働く女はいつも下層階級出身で、貧困のため売られるのだが・・・・・・彼女たちは自分たちの身の上に何の責任もないので、同じ西欧の女性がもつどん底に引きずり込まれた汚辱がない。
これとは逆に、彼女たちは幼少時に年季を限って売られ、宿の主人は彼女たちに家庭教育の万般を教えるよう義務付けられているため、彼女たちはしばしば自分たちの出身階級に嫁入りする」

カッテンディーケ「彼女たちは祭礼中寺詣りを認められていることで分かるように”社会の除け者”扱いは受けていない。年季を勤め上げれば家庭にも入れる。彼女らはヨーロッパ概念での売春婦ではない」

ポンペ「彼女は25歳になると尊敬すべき婦人としてもとの社会に復帰する。彼女らが恵まれた結婚をすることが珍しくない」
「遊女屋は公認、公開されたものであるから、遊女は社会の軽蔑の対象にならない」
彼女らは貧しい親を救うために子どもの頃売られるので「子どもは両親の家を喜んで出てゆく。美味しい物が食べられるし美しい着物が着られ、楽しい生活ができる寮制の学校にでも入るような気持ちで遊女屋に行く」
「この親子は自分たちを運命の犠牲者として考えているのである。両親は遊女屋に自分の子を訪問し、逆に娘たちは外出日に両親のいる住まいに行くのを最上の楽しみにしている。娘が病気にかかると、母親はすぐに看護に来て彼女を慰める」

幕末~明治に来た外国人が見た日本は、ここで一度終了いたします。
私にとっても、これらの書物にふれて意外な一面を知った事や当時の風俗にビックリしたと言うのが実感です。
ただ、最後が性と放縦で終わりましたが全編を通してむしろ「日本を評価して褒め称えている」ことを忘れないでください。

この内容についての多くは渡辺京二著「逝きし世の面影(平凡社)」、佐野真由子著「オールコックの江戸(中公新書)」、石井和子訳「シュリーマン旅行記(講談社学術文庫)」、イザベラ・バード「日本奥地紀行(平凡社ライブラリー)」,「ペリー提督日本遠征記(角川ソフィア文庫)」等を参考にしております。
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本10

2015-09-30 02:05:21 | 日本の素晴らしさ
さて、前回の混浴や裸を恥ずかしがらない事でほほえましい記述を紹介しよう。

クロウ「あちこち自分の家の前に、熱い湯につかったあとですがすがしくさっぱりした父親が、小さい子どもをあやしながら立っていて、幸せと満足を絵にしたようである。
多くの男や女や子どもたちが木の桶で風呂を浴びている。桶は家の後ろや前、そして村の通りにさえあり、大きな桶の中には、時には一家族が、自分たちが滑稽に見えることなど忘れて、幸せそうに入っている」

ティリー「礼節という言葉の正しい定義は何だろう、私が初めて日本の風呂に入った時そう自問した。
風呂場にはあらゆる年令の男、そして婦人、少女、子どもが何十人となく、まるでお茶でも飲んでいるように平然と、立ったまま身体を洗っていた。そして実を言うと、入ってきたヨーロッパ人も同様に一向に気にされないのだ。

スタール夫人は、ヘラクレスやヴィーナスの彫像を見ていて、同行の若い士官から、慎みが大そう欠けていると思わないかと問われ”慎みがないというのは、見る方の眼の問題なのね”と答えたと言う。
という次第で、日本の裸の礼節に何も怪しからぬ点はないと、私は考えることにきめた」

画家ラファージが日光の茶店で休んだ時、女の馬子たちは腰まで衣服を脱ぎ、男の眼もはばからずに胸や脇の下を拭ったり、こすったりした。しかし、彼がそれを写生しているのに気づくと、急いで上衣を肌にまとったという。
男もそうであった。平民の男は暑い時期、ほとんどマロ(フンドシ)一丁であった、フンドシとアテは向こうから外れる、外交官夫人等はそれこそ行く先々で”ショッキング”と眼を覆ったそうである。

リンダウはこの問題で正面きって日本人を弁護した。
「風俗の退廃と羞恥心の欠如との間には大きな違いがある。子どもは恥を知らない。だからといって恥知らずではない。
羞恥心とはルソーが言っているように”社会制度”なのである。・・・・・各々の人種はその道徳教育において、そしてその習慣において、自分たちの礼儀に適っている、あるいはそうでないと思われる事で、規準を作ってきているのである。

率直に言って、自分の祖国において、自分がその中で育てられた社会的約束を何一つ侵していない個人を、恥知らず者呼ばわりするべきでなかろう。
この上なく繊細で厳格な日本人でも、人の通る玄関先で娘さんが行水しているのを見ても、不快には思わない。風呂に入るために銭湯に集まるどんな年令の男女も、恥ずかしい行為をしているとはいまだに思った事がないのである」
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本9

2015-09-27 04:28:42 | 日本の素晴らしさ
さて、今日のテーマは「裸体と性」である。実はこのテーマの内容は私にとっても驚愕であった。
まず、ペリーに同行したウィリアムズは
「私が見聞した異教徒諸国の中では、この国は一番みだらかと思われた。体験したところから判断すると、慎みを知らないと言っても過言ではない。
婦人たちは胸を隠そうとしないし、歩くたびに太腿まで覗かせる。男は男で、前をほんの半端なボロで隠しただけで出歩き、その着装具合を別に気にもとめていない。裸体の姿は男女共に街頭に見られ、世間体などお構いなしに、等しく混浴の銭湯に通っている。みだらな身ぶりとか、春画とか、猥談などは、庶民の下劣な行為や想念の表現としてここでは日常茶飯事であり、胸を悪くさせるほど度を越している」

「この民族の暗愚で退廃した心を啓示された真理の光が照らし得るよう、神に望み、かつ祈る」
なんとも過激な表現でないだろうか・・・・・・・しかし、ある面これが事実のようなのだ。

まず混浴だがこの時代当たり前だったようだ。
ドイツ人画家ハイネ「浴場それ自体が共同利用で、そこでは老若男女、子どもを問わず混じりあって、ゴソゴソうごめき合っているのである」
「日本のように男女両性が、これほど卑猥な方法で一緒に生活する国は、世界中どこにもない」

この混浴風景は彼ら外国人の評判だったらしい。
スミス主教も「老いも若きも男も女も、慎みとか、道徳的に許されぬ事だというはっきりとした分別を備えている様子をまるで示さず、恥もなく一緒に混じりあって入浴している。日本人は世界で最もみだらな人種のひとつだということだ」

ハリスはこうした批判的な言い方は避けて「私は何事にも間違いのない国民が、どうしてこのように品の悪い事をするのか、判断に苦しんでいる」と言っている。

さて、混浴だけでなく女性が裸をさらすのに何の抵抗もない事実が沢山報告されている。
例えば”行水”だ。たらいに水をはって汗を流すこの行水が「家の玄関先の路上」か、室内であっても道路から見える場所で「ご婦人が堂々と」しているのだ。
ホームズ船長「長崎の町を散策中、あだっぽい娘が全裸の状態で家から飛び出して、家の前の行水桶に飛び込んだ。彼女はあやうく船長と衝突するところだったが、顔も赤らめずビックリしている彼を桶の中から見てクスクス笑っていた」

ブラック「こんな行水風景は居留地のすぐ近所でしょっちゅう見たし、本山から山手に通じる道、周りの村でも何度も見た。四方八方へ遠出する人にとって、いわゆる『見境のない行水』はごく普通に見られたので、じきに何とも思わなくなった」

実は行水だけでなかった・・・・銭湯の前を外国人が通ると(まだ外人が珍しい時代)これを見ようと風呂から全員が飛び出てきて、その際全員が、若い女性すらスッポンポンであったという記録がある。
ホジソン(長崎領事館勤務が江戸に来た時)「男女の入浴者が入り乱れて、二十軒ばかりの公衆の小屋から、我々が通り過ぎるのを見物するため飛び出してきた。皆がみな何一つ隠さず、生まれたままの姿であった。こんなに度肝を抜かれた事はなかった・・・・男女の入浴者が全員、裸であるのに平気で、意識も顧慮もせず、新奇な光景をゆっくりみて、好奇心を満足させようとした」

イザベラ・バードが秋田県の横手で「私が二本の足で歩いていると、人びとは私を見ようとして風呂から飛び出してきた。男も女もひとしく、一糸もからだにまとっていなかった」

モースが日光で温泉の温度を計る作業をしていたら「オハヨー」と声のする方向を見ると、前日出あった思慮深い二人連れの娘が入浴中でドギマギしてしまった。とか・・・・・・・
やはり日光で人力車に乗っている時、一件の家のほとんど往来というべき所で、一人の婦人が行水桶に入っていた。彼女は身体を洗う事をやめず、平気で我々一行を眺めやった。人力車夫は顔を向けもしなかった。

さて、これらの事実をどう考えたらよいのだろうか。モースはこう言っている。
「我々に比して優雅な丁重さは十倍も持ち、態度は静かで気質は愛らしいこの日本人でありながら、裸体が無作法であると全然考えない。全く考えないのだから、我々外国人でさえも、日本人が裸体を恥じぬと同じく、恥ずかしく思わず、そして我々にとっては乱暴だと思われる事でも、日本人にはそうでないとの結論に達する。たった一つ無作法なのは、外国人が彼らの裸体を見ようとする行為で、彼らはこれを憤り、そして面を向ける」

さてこれからは私自身がこれらの書物を通して得た考えだ。
混浴が彼らの問題になった時代、日本の習慣・常識はそれとは乖離していた。この時代、日本には裸体が恥ずべき物との認識はない。現代の尺度で考えるとそれは異常だが当時はそうであった。
例えば逆な事がある。私がパリ旅行をした時、真昼間に恋人同士が衆人環視の路上でKISSをしている、それもフレンチではない。
KISSは私の感覚では性行為の前戯に近い、それを衆人環視の前で恥ずかしげもなく行うこの人種は異常である。これこそ慎みを知らないということだ。最近は日本人もこの悪習をまね、電車内でKISSする輩もいるやに聞くが、張り倒してやりたい。
実はこの事はアンベールも記録していて、パリ万博に参加した一日本人が「我々なら夜でも人前では許されないようなことが、白昼、公然とパリの真ん中で行われるのを見せていただいた」と語った言葉を載せている。

当時の日本人の尺度では単に健康や清潔の為とか、せねばならぬ仕事の為に便利というのでたまたま身体を露出するのは、まったく礼儀にそむかないし、許される事だった。
だが、どんなちょっぴりであろうと見せ付けるためだけに身体を露出するのは、全くもって不謹慎なのだ。
前者の例としては、開放された浴室や裸の労働者、ジメジメした季節に着物をまくり上げる事、夏に子どもがまったく衣服を着けないこと、本当に暑い季節は大人だってちょっぴりしか衣服を着けない事がそれに当たる。私の子ども時代、ご婦人が電車内で授乳するのは普通の事であった、この授乳を扇情的な目で見る方が異常なんだと私は思う。
後者の例としては、衣服をまとっているものの身体の線をいかにも強調した扇情的服装、ブラジルの海岸を御覧なさい、股間を紐一本の水着、尻は丸出しだ。西欧だって考えてみなさい、おっぱいの半分以上を露出した扇情的衣服が堂々まかり通っている。
慎みをしらないとあんた方には言われたくない・・・・・・
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本8

2015-09-26 04:25:53 | 日本の素晴らしさ
さて、こうした日本賛美の声を挙げた以外に”日本に批判的”な声も勿論ない訳ではない。それを紹介しないと公平を欠くであろう。
例えば、日本には泥棒や乞食がいない様な賛美の声があった、しかし、そんな事はないのである。仏頂面した庶民はいなかったのか、それもそうではないだろう。

カッテンドーケ「農民は重税を忍ばされている。だから彼らの生活は誠に惨めである。もしそうでないとすれば、日本の農民のごとく勤勉で節倹な百姓が、しかも豊穣な恵まれた国土で働きながら、なぜ貧乏しているのか、その理由が発見できないであろう」

オールコック「(兵庫近くの海岸に上陸して)我々の目にしたわずかばかりの漁村ほど貧しく哀れな様子をしているものはまずなかろう」

イザベラ・バード「(旅行中の新潟県境の山村で)休息できるほど清潔な家はなかった。白くも頭や疥癬やただれた目の子どもたちが溢れていた。女たちは木綿のズボンしか身につけていなかった。一人の女が酔ってフラフラ歩いていた」*この時、随行した通訳(日本人)は、あなたにこんなものを見られて恥ずかしいと言った事も記録されている。

ミッドフォード(英国公使館の書記官)「私はどうしても日本人が好きになれません。中国人のほうが付き合うにはずっと気持ちのいい国民です」

ボンペ(長崎で病院を開業)「どこの国でも、日本のように天然痘の痕跡のある人の多い国はない」「午後9時すぎになると、長崎の街頭で見かけるおよそ半分が酔っ払っている」

スミス主教「日本人の最大の悪徳は性的放縦と飲酒だ」
この他に、外国人が日本人から投石を受けたとの記述もいくつかある。中には怪我をした例もあるようだ。しかし、これも個別にはその以前に外国人が狼藉を働いたとかの理由があるらしい。
スミスは宣教師ウィリアムズの住む寺に寄宿したが、そこでウィリアムズが30ドルに相当する財布を盗まれたのを見た。日本人の協力のお陰で犯人は見つかり、金も戻ったが・・・・・・
等々が記録に残っている。

最初に述べたように日本が「妖精が棲む・天国・極楽」と表現されようと、日本に犯罪が無いわけでも、悪人がいないわけでもない。もちろん、貧困も不潔さも皆無ではなかったであろう。
大切なのはその【はびこり具合】であって、それを勘案するとやはり日本はよい国に軍配が上がるのだと思う。

なお、文中にある”性的放縦”は次回に個別に採り上げてみます。
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本7

2015-09-19 03:42:43 | 日本の素晴らしさ
どうであろうか、ここまで数例紹介してきたが意外ではなかったですか? しかし、これが当時の日本を訪れた異邦人の評価です。
念のため申し上げると、短い滞在でほんの一面しか見れなかったのではと言う疑問も湧くかもしれません。ごく一部にそうした例がない訳ではないが、数年に亘る滞在が多いし例のイザベラ・バードの東北~北海道旅行は3ヶ月に亘っています。

もう少し”日本賛美”を別な面で網羅してみよう。まず、工芸品・職人の技も絶賛されている。
イザベラ・バード「桶屋と籠屋は職人仕事の完璧な手際を示し・・・・・用材の慎重な選択と細部の仕上げと趣味への配慮によって、一個の芸術品になっている」

アンベール「江戸の職人は真の芸術家である」

アリス・ベーコン「日本の職人は本能的に美意識を強く持っているので、彼らの手から作り出される物はみんな美しい」

モース「一件簡素な日本家屋の部分部分に”指物師の工夫と芸術心”が働いている。大工は仕事が優秀であるばかりでなく”創意工夫にたけた能力”を持っている。アメリカの大工より技術的に上だ」

ムラヴィヨフ艦隊の一員テイリー、宿舎の三田の寺で大工の働きぶりを実際に見て
「20人ほどの大工が半裸で庭で忙しく働いていた。板を引き割り、それをまるで手品のように椅子やテーブルなどヨーロッパの備品に変えてゆく。彼らは疑いもなく世界で最も熟練した指物師であり大工だ。私はずっと彼らのすることを見つめ、彼らの手際を快く感じていた」

国民観察は色々な角度で・・・・・・・・
メアリー・フレーザー(英国公使の妻)「この国の下層の人々は、天が創造し給うたさまざまな下層の人間の中で、もっとも生き生きとして愉快な人々」

イライザ・シッドモア(度々来日の米人)「日本は汲めど尽きぬ何かを持った、意外性の国です。その新奇なものたるや、日本人の生活では、ほんの日常的なことなのです」

ディアス・コバルビデス「日本の女性の着こなしは粋だ。普通下に着けているものの方が派手で鮮やかであり、上のものはやや地味な色合いである」

モース「日本の家屋は一件無造作に見えるが、細部は様々な工夫と装飾に富んでいる。中でも素晴らしいのが”欄間”で、デザインも彫り上げる技術が素晴らしいが、それが名も無き地方の職人の手によってなるものである事は特筆すべきことだ」
「なぜそうした事実があるのか。日本の職人は”単に年季奉公をつとめあげた”のではなく、”仕事を覚えた”のだ。従って”自由な気持ちで働いている”のであり、”日本人は芸術的意匠とその見事な出来栄えを賞賛することができる人々”なのだ」

チェンバレン「この国の魅力は下層階級の市井の生活にある・・・・・日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術にある」

同じくモース「(ヨイトマケの作業を観察して)日本の労働者は働く時は唸ったり歌ったりする。これは、労働の辛さを、気持ちの良い音か拍子で軽める面白い国民性だ」
*私はこれに関して、例えば”酒屋唄”や”船頭唄”があるのも日本独特かなと思っている。

タライトナー中尉(オーストリア)有馬へ向かう途上、陶器・食料を運搬する山間地の住民に行き会って
「荷物を担いでいる人たちは裸に近い恰好だった。肩に竹の支柱をつけ、それに大変重い運搬籠を載せているので、その重みで支柱の竹筒が今にも割れそうだ。
彼らの身のこなしは走っているのか歩いているのか見分けのつかない態のものだ。汗が日焼けした首筋をしたたり落ちた。
しかし、かくも難儀な仕事をしているのにもかかわらず、この人たちは常に上機嫌で気持ちの良い挨拶をしてくれた。彼らは歩きながらも、締め付けられた胸の奥から仕事の唄を口ずさむ。喘ぎながらうたう唄は、左足が地面につく時、右足が大股に踏み出す力を奮い立たせる」

又々モース「モースは小樽で、おそるべき体力を持った老婆に出会った。彼女は天秤棒を担いで帆立貝の行商をしているのだったが、その荷はモースと彼の日本人の連れが持ち上げようとしても、どうしても上がらぬほど重かった。彼らが断念すると老婆は静かに天秤棒を担ぎ上げ、丁寧にサヨナラを言うとともに”絶対的な速度”で立ち去っていった」

「この小さなしなびた老婆は、すでにこの荷物を数マイル運搬してきたにもかかわらず、続けざまに商品の名を呼ぶ程、息が続くのであった。勿論この老婆は当時の小樽の行商の中で、特別の力持ちだったわけではなかったろう」
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本6

2015-09-18 02:05:55 | 日本の素晴らしさ
清潔さ、貧困に伴う不潔さの記述をもう少し紹介しよう。
たびたび出てくるイギリスの女性旅行家イザベラ・バード
「日本は貧民階級の衣類や家屋がどんなに汚くても、料理の仕方とその料理を供するやりかたは極端に清潔なのだ」

英国第九連隊のジェフソン・エルマースト
「夜帰営するのが遅くなった時、横浜の屋台で食事をしたが材料にも容器にも不安を抱く必要はまったくなかった。極端に清潔だというのは彼らの家屋だけの特徴ではなく、彼らの食べ物、料理のしかた、料理の出し方の特徴でもある」

度々出てくるハリス
「世界のいかなる地方においても、労働者の世界で下田におけるより良い生活をおくっているところはあるまい」

エンゲルスは母国イギリスのスラム街を次の様に表現している。
「街路の上では市場が開かれ、もちろんすべて品質が悪く、ほとんど食えない野菜や果物を入れた籠が通路をいっそう狭めている。
これらの籠や肉屋からは実に不快な臭気が発散している。・・・・・そこの不潔なことと荒廃した有様は、とうてい考えられないほどだ。
完全な窓ガラスなどほとんど見当たらぬし、壁は砕け、入り口の戸柱や窓枠は壊れてがたがたになり・・・・汚物と塵芥の山があたり一面にあり、ドアの前にはぶちまけられた汚い液体は寄り集まって水溜りとなり、鼻持ちならない悪臭を発散している


なるほど、こういうスラムのおそるべき汚さからすれば、貧民ですら衣服も住居も清潔な日本は、彼らにとって驚愕の事実であったらしい。
現代の私たちは例えば時代劇の田舎農家の室内を映像で見て、汚い・乱雑等のイメージを持つがそれと実態はだいぶ違うようだ。もっとも、この映画の室内だって製作側のイメージであって、時代考証をしたものではないが・・・・・・・
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本5

2015-09-17 03:37:51 | 日本の素晴らしさ
しかし、どう言われようと日本が地上の楽園である筈はない。
だが、人々に幸福・満足の感情が現れていて異邦人をビックリさせた。その根拠はどこにあるか・・・・それは民衆の豊かさ、それも衣食住の豊かさであるらしい。
幕藩体制下の民衆生活について、悲惨極まりないイメージを持つ私たちとのギャップは何であろうか。

着任したばかりのハリスは、下田近郊の柿崎を訪れこう言っている。
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりとしていて、態度は丁寧である。
世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、少しも見られない。彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。

ハリスはこの村は豊かだと言っているのではない、どちらかと言えば貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているのだ。
ハリスは世界中の国を見てきているだろう。彼が言うのは、下田周辺の住民は、社会階層としては富裕な層には属しておらず概して貧しい。
しかし、この貧民は貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態にある・・・・・と言う事らしい。

オールコックは1859年日本に着任したが神奈川近郊の農村で
「破損している小屋や農家をほとんど見受けない。前任地のシナではあらゆる物が朽ちつつあったのと好対照であった。住民の間には贅沢にふけるとか富を誇示する余裕はないが、飢餓や窮乏の徴候は見受けられない」

農地・山林への評価も高いようだ。オイレンブルク使節団のベルク
「平野は肥沃で耕され、山にはすばらしい手入れの行き届いた森林があり、杉が驚くほどの高さにまで伸びている。住民は健康で、裕福で、働き者で元気がよく、そして温和である。」
「日本の農業は完璧に近い(カッテンディーケ)」
「自分の農地を整然と保つ事にかけては、世界中で日本の農民にかなう者はいない(オールコック)」
「耕地に一本の雑草も見つけられなかった(スエーデンの医師ツュンベリ)」

ハリスは初めて江戸に入り、将軍と謁見する際も事をこう記録している。
「沿線の見物の民衆は皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」
「将軍の衣服は絹布であり、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されるような王者らしいものからはまったく遠い物だった。宝石も、精巧な金の装飾も、ダイヤモンドもなかった。殿中のどこにも鍍金の装飾はなく、木の柱は白木のままであった。どの部屋にも調度の品々は見当たらない」

この一連のハリスの記述は何だろう、彼は日本に悲惨な貧は存在せず、民衆は幸せで満足そうであると言っている。
しかし、それとともに彼が言いたいのは、日本人の生活は、上は将軍から下は庶民まで質素でシンプルだと言うことだ。


キリスト教圏の貧民区域には「不潔さと惨めさ」が色濃く出ているそうだが、彼らが日本を見た時に「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言っているのは、前にも述べた不潔さがない事も一因だろう。
そしてそれは、バードがあまりにもきれいに掃き清められた街路に、泥靴でその上を歩くのに気が引けたという習慣・・・・・・
即ち日本人の清潔の背後にあったのは、住民自身が鏡のように街路を掃き清めるという、前工業社会の生活習慣だったのだ。
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本4

2015-09-16 01:33:56 | 日本の素晴らしさ
十九世紀半ば、日本の地を始めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうとも
この国民はたしかに満足しており、幸福であるという印象だった。
オールコックは「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」といい、ペリーは「人々は幸福で満足そう」と言っている。
もっともっとこの種の記述がある。

1860年に来日したプロシャのオイレンブルク使節団
「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などいなくてもよいかもしれない」

水道設計で来日のイギリス人ヘンリー・S・パーマー(伊香保温泉の湯治客を見て)
「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌のよさがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう。彼らは何か目新しく素敵な眺めに出会うか、森や野原で物珍しいものを見つけてじっと感心して眺めている時以外は、絶えずしゃべり続け、笑いこけている」

オズボーン江戸上陸当日「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして出会わなかった」
オイレンブルク使節団のベルク
「彼らは話し合う時冗談と笑いが興を添える。日本人は生まれつきそういう気質があるのである」

イギリスの大学教授ディクソン
「上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。西洋の都会の群集によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆から赤子にいたるまで、彼ら群集はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中に悲哀など存在しないかと思われてくる」

東京外大でロシア語を教えたメーチニコフは来日当初「のべつまくなしに冗談をとばしては笑い転げる我が人足たち」に見とれずにおられなかったそうである。

まだまだこの種の記述はあるのだがきりがないので、最後にリンダウ (プロシア人商人として来日。後に駐日スイス領事) の長崎近郊農村での体験だ。
「私はいつも農夫たちの素晴らしい歓迎を受けた事を決して忘れないであろう。
火を求めて農家の玄関先に立ち寄ると、ただちに男の子、女の子があわてて火鉢を持ってきてくれるのであった。私が家の中に入るやいなや、父親は私に座るようにすすめ、母親は丁寧に挨拶してお茶を出してくれる。
・・・・・もっとも大胆な者は私の服の生地を手でさわり、ちっちゃな女の子がたまたま私の髪にさわって、笑いながら恥ずかしそうに逃げ出してゆくこともあった。幾つかの金属製のボタンを与えると「大変ありがとう」と、皆揃って何度も繰り返して礼を言う。そして躓いて、可愛い頭を下げて優しく微笑むのであったが、社会の下の階層の中でそんな態度に出会って、全く驚いた次第だ。

私が遠ざかって行くと、道のはずれまで見送ってくれて、殆ど見えなくなっても「さよなら、またみょうにち」と私に叫んでいる、あの友情の籠もった声が聞こえるのであった」
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本3

2015-09-15 03:30:26 | 日本の素晴らしさ
妖精が棲む・・・・とまで言われる我が国、日本。オズボーンと共に来たオリファントは、次の様に網羅して語っている。

「日本人の衣服や装飾の趣味の優雅さ、幕府の役人の洗練された紳士ぶり、気違いのようになって買い漁らずにおられない美しい品々、錠も鍵もない部屋に物を置いて一度も盗まれた事がないとか、女の口汚く罵る声を聞いたことがないのは不思議だとか、子どもが虐待されるのを見たことがないとか、その他数々の好意的観察を並べ立てている」
ヤング・ジャパンの著者ブラックは
「思うに、他の国々を訪問した後で日本に到着する旅行者たちが、一番気持ちのよい特徴の一つと思うに違いないことは、乞食がいないことだ」と書いている。

オズボーンも幕吏や富裕な町人は着飾っているし、女たちの着物の生地が上等である事を認めた上で、しかしその色彩への好みはしぶくて品がよいと言っている。そしてそれは、趣味の洗練とみなしている。
でこれは、ヨーロッパの夫人の基準とそう乖離がないらしい。

オリファントは「我々の部屋には錠も鍵もなく開放されていて、宿舎の近辺の人は誰でも出入りできる。そこに誰でも欲しくなるようなイギリスの珍奇な物をいつも並べておく。それでもいまだかって、まったくとるにたらないような品物でさえ、なくなったことがない」
他の一人はこう言っている。
「たえず財布の入ったポケットを押さえていたり、ベンチに置き忘れた洋傘をあきらめたりしないでいい国に住む幸せを味わい続けた」

また、日本の家の清潔さを「汚れた長靴で立ち入るのがはばかるほど」という人だけでなく、イザベラ・バードに至っては日光の町に立ち寄った時、街路が掃き清められて、あまりに清潔なので”泥靴でその上を歩くのが気が引けた”とまで言っている。

さて、細々と彼らの記述をあげてきたが取りまとめるとこう言う事らしい。
文明としては西欧文明のほうが当然ながら優位に立っている。
しかし、極東の島国に来た時にそれら西欧文明と全く基準の違う文明に接した。その文明の下では、環境・行動基準等々は西欧文明とは言わば対極にあり、しかし人々は幸せで満足しているらしい。
こうした小さい、かわいらしい、夢の様な文明がありうるということは彼らにとって啓示ですらあった。
なぜなら、当時彼らが到達していた文明は、まさにそのような特質とは正反対の重装備の錯綜した文明であったのだ。
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日本はどんなによい国か 幕末~明治に来た外国人が見た日本2

2015-09-14 04:56:57 | 日本の素晴らしさ
イギリスの日本研究家B・H・チェンバレンは欧米人にとって
「古い日本は妖精の棲む小さくて可愛らしい不思議の国であった」と書き残している。彼は1873~1911の間、日本にいて東京帝大の教師も勤めた。

同じイギリスの詩人エドウィン・アーノルドに至っては日本を
「地上で天国(パラダイス)あるいは極楽(ロータスランド)に最も近づいている国だ」と賞賛し、スピーチでは
”その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神の様にやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾る事もない。これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである”と述べている。

ここまで言われると面映いが、これは幕末~明治の日本について語ったものだ。スピーチは多少のお世辞が混じっているとしても、妖精が棲むとまで言われる程、魅力的であったらしい。
西洋人の東洋に対するあこがれ(オリエンタリズム)と見れなくもないが、次の様な著述もある。

同じイギリスの日英修好通商条約の締結使節団の一員オズボーンは「この町で(長崎)もっとも印象的なのは男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった」

彼は日本訪問を終えたあと、母親に当てた手紙に
「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感の持てる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」
少なくても最後の文章は私信だ。お世辞もオベンチャラも必要のない母親宛の手紙だ。
ここで語られているのは・・・・・封建時代であった江戸時代だ・・・・・・・・
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