昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

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皇室の素晴らしさ 昭和天皇のエピソード

2016-01-17 01:16:06 | 日本の素晴らしさ
昭和天皇が崩御されて、もう28年となりました。
今日はその昭和天皇の素晴らしいお人なりをご紹介いたします。
素晴らしいエピソードで、昭和天皇のお人柄と、それに接する日本人の心情がよく描かれていると思います。
   

先祖代々伝えられそして培ってきた文化と心を、我々の世代で失くしてはならない、大切な物があります。
昭和天皇を偲びつつ、調寛雅氏の「天皇さまが泣いてござった」から一部転記して紹介させて頂きます。

昭和天皇は終戦直後の混乱の中で、「全国を隈無く歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与える事が自分の責任と思う」とのお考えのもと、昭和21年から約8年半、総日数165日をかけて、沖縄以外の全都道府県、お立ち寄り箇所1411カ所、3万3千キロを回られたのです。

占領軍の間では
「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男という事を日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だ、という事をね」などという声も出て、このご巡幸を許可しました。

イタリアのエマヌエレ国王は国民から追放されており、日本の皇室の運命も風前の灯火のように考えられていたとしても不思議はありません。

しかし、その結果は、占領軍の予想に反したものでした。
佐賀県基山町に因通寺というお寺があります。
この寺には、戦争罹災児救護教養の、洗心寮が設置されていました。
洗心寮には、44名の引き揚げ孤児と、戦災孤児がいました。

この寺の住職、調寛雅(しらべかんが)氏と昭和天皇はあるご縁がありました。
そのご縁もあって、九州行幸には「行くなら、調の寺に行きたい」との昭和天皇のご意向から、因通寺のご訪問が決定しました。

この地域は、共産主義者がたくさんいる地域で、特に敗戦後ですので暴動が起きる可能性がかなりありました。
因通寺のある町では陛下の行幸を歓迎する人と、反対する人で対立が起きました。

歓迎するのにも命がけの雰囲気で、反対派から何をされるか分からない。
5月24日、いよいよ因通寺に昭和天皇の御料車が向かわれます。
いろんな想いの群集から、「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」の声が自然と上がります。それは、地響きのようでした。

因通寺の参道には、遺族や引き揚げ者も大勢つめかけていた。
昭和天皇は最前列に座っていた老婆に声をかけられた。
「どなたが戦死をされたのか」
「息子でございます。たった一人の息子でございました」
声を詰まらせながら返事をする老婆に「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうです。天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きをしてください」老婆は泣き伏してしまった。
じっと耳を傾けていた天皇は、流れる涙をそのままに、老婆を見つめられていた。

それから陛下は門前から洗心寮に入られます。
子ども達は、夫々の部屋でお待ちしていました。陛下はそれぞれの部屋を丁寧に足を止められます。
「どこから」「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」「ああ、そう」

「おいくつ」「七つです」「五つです」
「立派にね。元気にね」一人一人にお声をかけられます。
そして一番最後の部屋の「禅定の間」に進まれます。
陛下は、その時突然、ある一点を見詰めて佇まれます。
侍従長以下は「何事があったのか」と足を留めます。

しばらくして、陛下は一人の女の子へお顔を近づけられます。
「お父さん。お母さん」と、お尋ねになる。
女の子は、二つの位牌を胸に抱きしめていたのです。
女の子が「はい。これは父と母の位牌です」と、返事します。
「どこで」「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。母は、引き揚げの途中で、病気で亡くなりました。」

「お淋しい」
「いいえ。淋しい事はありません。私は仏の子供です。
仏の子供は亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土にまいったら、きっともう一度会う事が出来るのです。

お父さんに会いたいと思う時、お母さんに会いたいと思う時、私は御仏さまの前に座ります。
そして、そっとお父さんの名前を呼びます。
そっと、お母さんの名前を呼びます。
するとお父さんも、お母さんも、私のそばにやってきて、私をそっと抱いてくれるのです。
私は淋しい事はありません。
私は仏の子どもです。」と答えました。

陛下と女の子は、じっと見つめ合います。
さらに陛下は部屋の中に入られ、右の手に持っていた、帽子を左に持ち替えられ、右手を女の子の頭において、撫でられたのです。
陛下は「仏の子供はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申され大粒の涙をハラハラと流されました。
すると、女の子は「お父さん」と呼ぶのです。
多くの人たちは、言葉無く佇みます。
新聞記者までが、言葉を無くし一緒に涙を流したのです。

孤児院から出られる時、子供達が陛下の袖を持ち、「また来てね、お父さん」と言います。
陛下は、流れる涙を隠そうともせず「うん、うん」とうなずかれお別れになられます。
そして後に、一首の歌が届けられました。

「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」

調住職はこの昭和天皇陛下のお言葉を皆に響き聞かせようと、この御製を寺の梵鐘に鋳込ませました。
今でも因通寺に行くとこの梵鐘の響きが辺り一帯に響き渡るそうです。

洗心寮を出られたあと、長い坂の下でたくさんの人々が陛下を出迎えます。
陛下は遺族などと一人一人お話になり、進まれます。
その中に若い青年と思われる数十人が一団となり陛下をお待ちしていました。

シベリア抑留の時に徹底的に洗脳され、共産主義国家樹立の為に共産党に入党した者達でありました。
すごい形相でむしろ旗を立てて待ち構えていたのです。
恐れていた事が起こる気配です。

周りの者が陛下をお守りしなければと駆けつける前に陛下は、その者達とお話になられます。
陛下はその者達に深々と頭を下げられます。
「長い間、遠い外国で色々苦労して深く苦しんで大変であっただろうと思う時、私の胸は痛むだけではなくこのような戦争があった事に対し、深く苦しみを共にするものであります。」

「皆さんは、外国において色々と築き上げたものを全部失ってしまった事であるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として、新しい方向に進む事を、希望しています。皆さんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」非常に長いお言葉を述べられます。
陛下の、表情は自愛に溢れるものでした。
陛下は、彼らの企みをご存知ない。

陛下の前に、一人の引き揚げ者が、にじり寄ります。
「天皇陛下さま、ありがとうございました。今頂いたお言葉で、私の胸の中は、晴れました。引き揚げてきた時は、着の身着のままでした。
外地で、相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで丸裸。最低の生活に落ち込んだのです。

ああ、戦争さえなかったら、こんな事にはならなかったと、思った事も何度かありました。そして、天皇陛下さまを、恨みました。
しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかったのです。
天皇陛下さまも、苦しんでいらっしゃる事が、今、わかりました。
今日から、決して、世の中を呪いません。人を恨みません。
天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります。」と言いました。

その時、むしろ旗を持ってすごい形相の男が不意に地面に手をつき泣き伏しました。
「こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかった。 俺が間違っておった。俺が誤っておった。」と号泣するのです。
その男の懐には短剣が忍ばせていたのです。
泣きじゃくる男に、他の者達も号泣します。

じっと、皆を見詰めて動こうとされない陛下。
陛下の、まなざしは深い慈愛に溢れ、お優しい目で見つめられます。

三谷侍従長が、ようやく陛下のおそばに来て促され
ようやく陛下は歩を進められたのです。

陛下が涙を流された時、人々は知りました。
陛下も苦しまれ、悲しまれ、お一人ですべてお抱え込んでいらっしゃる事を。
陛下は、危険を顧みず全国を御巡幸され続けます。そのお姿に、国民は「一丸となって、共に頑張ろう」と思うのでした。
戦後のめざましい復興のエネルギーはここから生まれたのです。
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