昭和天皇が強烈なご印象を残されたのは、戦後すぐのマッカーサーとの対面の場面です。
終戦時において、陛下に対する占領軍としての処置の仕方は、四つありました。
一、東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
二、共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三、中国へ亡命させて中国で殺す。
四、闇から闇へ、一服を盛る事によって陛下を葬り去る事。
昭和20年9月27日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りです。
ついに天皇を捕まえるべき時が来たと、マッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は当然命乞いに来られたものと思い、傲慢不遜にもマドロスパイプを口に咥えて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『 日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任は、この私にあります。私の命において全てが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑は勿論の事、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります 』
弱ったのは通訳でした、その通り訳して良いのか。
陛下は続けました、『 しかしながら、罪なき国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿においてまさに深憂に耐えぬものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように 』
このような態度を見せられたのは、歴代敗戦国の中でも天皇ただ一人であったのです。
これを聞いたマッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」と。
マッカーサーは、今度は一臣下の如く、直立不動で陛下の前に立ち、こう言いました。
「天皇とはこのようなものでありましたか! 私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来まする事があれば、何なりとお申しつけ下さい。」
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、答えました。
「命をかけて閣下のお袖に縋っておりまするこの私に何の望みがありましょうか、重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
その後、マッカーサーは、玄関まで伴い、車の扉を開け、陛下を見送ったのです。
その後、慌てて 階段を駆け上がって、本国と連絡業務の指示をしたそうです。そして8千万人分の食糧を日本に送るよう訴えました。
何故、日本人は8千万人としての手続きと言ったのでしょうか。
1億の全国民から全ての戦死者を差し引いて、実は6千6百万人しか国民が居りませんでした。
それをあえて、マッカーサーは、「8千万人分」として食糧を、本国から取り寄せ救ってくれました。
実は米国大統領からは、「日本に1千万の餓死者を出すべし」と、マッカーサーに命令が来ていたのです。
つまりマッカーサーは、天皇陛下のご人徳にふれ、本国の方針を知りながら、否、知っていたからこそ、内緒で食糧放出を8千万人の計算で、陛下のために提供してくれました。
それが後で、本国にばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由は それであったというのが、事の真相です。
世界の常識として、負けた国のトップは例外なく「自分は悪くない」と、「他の奴等が起こした事で、私は反対したのだ」とかなんとか言って、自分の助命を嘆願するのが世の常だった。
当然、マッカーサーも、昭和天皇は「命乞い」に来るものと思っていた。
だから、天皇を迎える時も、自分は出迎えもせず、司令官室で座ったまま、しかも軍服も略装でふんぞり返って、「果たして天皇がどんな言い訳をするのか」を楽しみに待ち構えていた。
ところが、天皇は予想もしない言動に出た。
開口一番に「この戦争の全ての責任は自分にある。自分の命はどうなっても構わないから、国民を飢えさせないで欲しい」
この昭和天皇の言葉は、公式には発表されていませんが、いくつかの「形」でそれは証言されています。
マッカーサーは、この時の出来事を日記に残し、後に回顧録として残しています。
また、時のマッカーサーの副官で、専任の通訳をしていたパワーズという人物が、この会見直後にマッカーサーから聞いた話をメモに書き残しています。
そこには、はっきり、「全責任は私にあるので責任は私が取る」事と、
「国民や、東條や重光を罰せずに、私を罰せよ」という事が書いてあったと言います。
また、当時の陛下の侍従長をしていた人物も、天皇の御発言を書き残した備忘録で、「敗戦に至った責任が取りざたされているが、全責任は私にある」
「文武百官はわたしが任命したものであるから、彼らには責任はない」
「この身はどうなってもいいから、貴方にお任せする」
「この上は、国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と。
そのとき付き添った日本人通訳も、「国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に餓死者が出るから、ぜひ、米国に食料援助をお願いしたい」
「ここに皇室財産の一部である有価証券を持参したので、その一部に充てて貰いたい」と言って、大きな風呂敷包みを差し出したそうです。
こういう「天皇の素晴らしい逸話」があると、左翼はすぐに「それは捏造だ」「戦後の都合のいい作り話だ」と言うけれど、これだけ複数の人間が、「それぞれの言葉」で書いたものが残っているという事実は動かしようもない事です。
天皇を恨む国民や、国家を恨む国民感情や、軍司令部を恨む表現が、多くの方々の著書や主張に差し込まれていますが、勿論そういう感情をもった人が皆無とは言いません。
昭和天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行すべきとする、日本共産党、日本社会党や解放運動家から意見主張が出されたが、この意見は天皇制に対する批判と、昭和天皇個人の戦争責任追及とを混同してしまう事があった。
マッカーサーは日本国民の心情を知り、本国で「天皇制廃止論」があったのを反対し、「存続させるべき」と主張し、東京裁判に訴追をしない事とした。
アメリカの通訳であった米人も次のように語っています。
終戦時において、陛下に対する占領軍としての処置の仕方は、四つありました。
一、東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。
二、共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。
三、中国へ亡命させて中国で殺す。
四、闇から闇へ、一服を盛る事によって陛下を葬り去る事。
昭和20年9月27日、陛下がただ一人の通訳を連れて、マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りです。
ついに天皇を捕まえるべき時が来たと、マッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
マッカーサーは、陛下は当然命乞いに来られたものと思い、傲慢不遜にもマドロスパイプを口に咥えて、ソファーから立とうともしなかった。
陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。
『 日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任は、この私にあります。私の命において全てが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
絞首刑は勿論の事、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります 』
弱ったのは通訳でした、その通り訳して良いのか。
陛下は続けました、『 しかしながら、罪なき国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿においてまさに深憂に耐えぬものがあります。
温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように 』
このような態度を見せられたのは、歴代敗戦国の中でも天皇ただ一人であったのです。
これを聞いたマッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。
そして部下に、「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーを差し上げるように」と。
マッカーサーは、今度は一臣下の如く、直立不動で陛下の前に立ち、こう言いました。
「天皇とはこのようなものでありましたか! 私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来まする事があれば、何なりとお申しつけ下さい。」
陛下は、再びスクッと立たれ、涙をポロポロと流し、答えました。
「命をかけて閣下のお袖に縋っておりまするこの私に何の望みがありましょうか、重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
その後、マッカーサーは、玄関まで伴い、車の扉を開け、陛下を見送ったのです。
その後、慌てて 階段を駆け上がって、本国と連絡業務の指示をしたそうです。そして8千万人分の食糧を日本に送るよう訴えました。
何故、日本人は8千万人としての手続きと言ったのでしょうか。
1億の全国民から全ての戦死者を差し引いて、実は6千6百万人しか国民が居りませんでした。
それをあえて、マッカーサーは、「8千万人分」として食糧を、本国から取り寄せ救ってくれました。
実は米国大統領からは、「日本に1千万の餓死者を出すべし」と、マッカーサーに命令が来ていたのです。
つまりマッカーサーは、天皇陛下のご人徳にふれ、本国の方針を知りながら、否、知っていたからこそ、内緒で食糧放出を8千万人の計算で、陛下のために提供してくれました。
それが後で、本国にばれてしまいます。
彼が解任された最大の理由は それであったというのが、事の真相です。
世界の常識として、負けた国のトップは例外なく「自分は悪くない」と、「他の奴等が起こした事で、私は反対したのだ」とかなんとか言って、自分の助命を嘆願するのが世の常だった。
当然、マッカーサーも、昭和天皇は「命乞い」に来るものと思っていた。
だから、天皇を迎える時も、自分は出迎えもせず、司令官室で座ったまま、しかも軍服も略装でふんぞり返って、「果たして天皇がどんな言い訳をするのか」を楽しみに待ち構えていた。
ところが、天皇は予想もしない言動に出た。
開口一番に「この戦争の全ての責任は自分にある。自分の命はどうなっても構わないから、国民を飢えさせないで欲しい」
この昭和天皇の言葉は、公式には発表されていませんが、いくつかの「形」でそれは証言されています。
マッカーサーは、この時の出来事を日記に残し、後に回顧録として残しています。
また、時のマッカーサーの副官で、専任の通訳をしていたパワーズという人物が、この会見直後にマッカーサーから聞いた話をメモに書き残しています。
そこには、はっきり、「全責任は私にあるので責任は私が取る」事と、
「国民や、東條や重光を罰せずに、私を罰せよ」という事が書いてあったと言います。
また、当時の陛下の侍従長をしていた人物も、天皇の御発言を書き残した備忘録で、「敗戦に至った責任が取りざたされているが、全責任は私にある」
「文武百官はわたしが任命したものであるから、彼らには責任はない」
「この身はどうなってもいいから、貴方にお任せする」
「この上は、国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と。
そのとき付き添った日本人通訳も、「国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に餓死者が出るから、ぜひ、米国に食料援助をお願いしたい」
「ここに皇室財産の一部である有価証券を持参したので、その一部に充てて貰いたい」と言って、大きな風呂敷包みを差し出したそうです。
こういう「天皇の素晴らしい逸話」があると、左翼はすぐに「それは捏造だ」「戦後の都合のいい作り話だ」と言うけれど、これだけ複数の人間が、「それぞれの言葉」で書いたものが残っているという事実は動かしようもない事です。
天皇を恨む国民や、国家を恨む国民感情や、軍司令部を恨む表現が、多くの方々の著書や主張に差し込まれていますが、勿論そういう感情をもった人が皆無とは言いません。
昭和天皇に開戦・戦争遂行の責任を取らせるため、天皇制を廃止して共和制へ移行すべきとする、日本共産党、日本社会党や解放運動家から意見主張が出されたが、この意見は天皇制に対する批判と、昭和天皇個人の戦争責任追及とを混同してしまう事があった。
マッカーサーは日本国民の心情を知り、本国で「天皇制廃止論」があったのを反対し、「存続させるべき」と主張し、東京裁判に訴追をしない事とした。
アメリカの通訳であった米人も次のように語っています。
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