浦賀にペリーが来航(黒船来航)したのが1853年(嘉永6年)、その15年後には明治維新を迎えた。
永く鎖国政策をとっていた我が国は紆余曲折の末「開国」の道を選び、時代は明治へと繋がってゆく。
この明治維新前後の数十年は日本に大変革があった訳で、300年続いた徳川幕府が倒れ「王政復古」「廃藩置県」「殖産興業」「富国強兵」等々の施策導入があり、日本は近代国家への歩みを始めたと私たちは学んできた。
それでは、それまでの時代つまり直近の江戸時代は近代国家ではなかったのか・・・・・・電気・鉄道・工業機械・造船・兵器等々をとってみても彼我の差は激しく、近代国家であったとはとても言えないでだろう。
*まったく私の個人的思い出であるが・・・・・私が多分10歳の時(だから昭和30年前後)、家の照明器具が白熱灯から蛍光灯に替えた晩をわすれられない。電球でも不自由はしていなかったのだが、蛍光灯が点った時の明るさは強烈であった。それまでの照明が何であったのかと言うくらい明るく隅々まで照らした。
それまでの行灯・・・つまり蝋燭や菜種油の照明だったこの時代の人が、初めて電球が点灯した時どんなにビックリしたかが良く分かる。
それでは江戸の時代は近代国家でないが故に国民は不幸であったのか・・・・・・
時は封建時代で領主の専制・圧政の下、武士以外は高い年貢に悩まされ、自由も制限され幸せで明るい筈がない。こう考えるのがまず一般的であろう。
しかし、そうではないようである。
我々が考える以上に当時の市民は自由で、明るく、快活に過ごしているのだ。
それを証明するのが当時日本に来た各国の外交官や商人、医者等が書き残した書物である。当時の日本人自身は鎖国中でもあり、自らの位置は自分自身では残念ながら測定できない。それに比べてこれらの異邦人は自らの国だけでなく世界各国を巡ってきているので、そうした中で見た日本の記録は鮮明・公平であると言える。
中には女性一人で東北~北海道に旅行して細かく紀行文を残しているイザベラ・バードの様な人もいる。特に彼女は明治10年に私の地元、秋田にも寄っていて湯沢~横手~神宮寺~久保田(秋田)~大館等々の詳細な状況を書き残している。
私はそれらに触れてビックリした。各国の人々が日本を、近代以前の日本を褒め称えているのだ。
以降、何回かに分けてこれら外国人の見た日本の姿をご紹介したい。
永く鎖国政策をとっていた我が国は紆余曲折の末「開国」の道を選び、時代は明治へと繋がってゆく。
この明治維新前後の数十年は日本に大変革があった訳で、300年続いた徳川幕府が倒れ「王政復古」「廃藩置県」「殖産興業」「富国強兵」等々の施策導入があり、日本は近代国家への歩みを始めたと私たちは学んできた。
それでは、それまでの時代つまり直近の江戸時代は近代国家ではなかったのか・・・・・・電気・鉄道・工業機械・造船・兵器等々をとってみても彼我の差は激しく、近代国家であったとはとても言えないでだろう。
*まったく私の個人的思い出であるが・・・・・私が多分10歳の時(だから昭和30年前後)、家の照明器具が白熱灯から蛍光灯に替えた晩をわすれられない。電球でも不自由はしていなかったのだが、蛍光灯が点った時の明るさは強烈であった。それまでの照明が何であったのかと言うくらい明るく隅々まで照らした。
それまでの行灯・・・つまり蝋燭や菜種油の照明だったこの時代の人が、初めて電球が点灯した時どんなにビックリしたかが良く分かる。
それでは江戸の時代は近代国家でないが故に国民は不幸であったのか・・・・・・
時は封建時代で領主の専制・圧政の下、武士以外は高い年貢に悩まされ、自由も制限され幸せで明るい筈がない。こう考えるのがまず一般的であろう。
しかし、そうではないようである。
我々が考える以上に当時の市民は自由で、明るく、快活に過ごしているのだ。
それを証明するのが当時日本に来た各国の外交官や商人、医者等が書き残した書物である。当時の日本人自身は鎖国中でもあり、自らの位置は自分自身では残念ながら測定できない。それに比べてこれらの異邦人は自らの国だけでなく世界各国を巡ってきているので、そうした中で見た日本の記録は鮮明・公平であると言える。
中には女性一人で東北~北海道に旅行して細かく紀行文を残しているイザベラ・バードの様な人もいる。特に彼女は明治10年に私の地元、秋田にも寄っていて湯沢~横手~神宮寺~久保田(秋田)~大館等々の詳細な状況を書き残している。
私はそれらに触れてビックリした。各国の人々が日本を、近代以前の日本を褒め称えているのだ。
以降、何回かに分けてこれら外国人の見た日本の姿をご紹介したい。