【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

付記6d: 兵隊服の男

2024年03月01日 | 歴史

 

天皇裕仁と東久邇盛厚が差し向けた「密偵」は、何度も私の家を襲って来た。玄関前で遊んでいると、突然、物陰から兵隊服の男が飛び出して来て、青酸カリの丸薬を飲まされそうになったこともある。また、気づかない間に男が家の中へ忍び込んでいて、痺れ薬を塗った針で刺されたこともある。夏に海水浴に行った時は、浜辺で日光浴をしていた男が走り寄って来て、海中で毒ガスを嗅がされて、溺死しそうになった。
しかし、私は生き延びた。子どもの強靭な生命力が目に見えない先祖の加護となって、私の身体を包んでいたのかも知れない。殺されたのは父親である。
 
 
或る夜半、物音で目を覚ますと、すでに四人の密偵が裏口から台所へ侵入していた。母と弟は土間の暗がりで倒れており、父は板間で正座させられて、灰色の兵隊帽を深く被った男に毒針で頭部を何度も刺されていた。四回か、五回刺された時、父の身体が座ったまま、前のめりに倒れた。
 私は電話がある玄関のほうへ走った。が、すぐに背後から別の男に捉まって、脚を青酸カリの針で刺された。激痛が一気に膨れ上がって、叫び声が頭蓋を突き破ると、今度は麻酔薬を注射された。以前に自衛隊基地で殺されそうになった時、私の叫び声が廊下まで響いたため、密偵らは必ず強い麻酔薬を用意していた。
 
 
地獄の沼へ沈み込むような数秒間は、苦痛が遠のくだけ「幸福な気絶」と言えるが、勿論、これは一時のことで、そのうち麻酔が切れて来ると、脳の深淵から泡が湧くように再び激痛が襲って来る。麻酔が完全に切れてしまう前に、電話まで行き着かなければならなかった。距離はほんの五、六メートルだったが、それは、私が前方へ伸ばした手の、彼方の、絶望的な闇の中にあった。 
私は意を決して、起き上がった。しかし、受話器を掴んだと思った瞬間、焼けた鉄棒が私の体を突き裂いた。絶叫とともに、玄関のタタキへ転げ落ちて行った。それを合図に、男らは裏口から逃げ去り、騒ぎを聞き付けた隣家の人の呼び声が玄関の外で聞こえた。
 
 
その後も、父は夜間に帰宅するところを毒ガスで襲われた。父を診察した町医者は、血圧が異常に高いと言ったが、それから一年くらい経って、脳出血で死んだ。初七日が済んだ頃、和服を着た女が訪ねて来て、畳に崩れるように伏している母の前に、青酸カリを一粒、置いて行った。
 

 
 
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高校への入学準備のため、自分で申請して入手した戸籍簿を見て、私は衝撃を受けた。父はその後、伯父に付き添われて、遠い街の病院まで精密検査に行ったのだが、日帰りが難しいために病院近くの宿泊所に泊ったところ、その宿で、父の病状は一層悪くなった。すぐに入院したが、そのまま昏睡状態に陥り、数日後の深夜、棺に入れられて帰宅した。

戸籍簿には、次のように記載されていた。「遊街の宿にて賃貸の夜具にくるまり、懇意にしていた女に世話をさせた後、悶死した」
私は謄写のインクが滲んだ文字を何度も読み返した。役所の男が薄笑いを浮かべて、「すでに記載したから、もう直せない」と言う声が、耳鳴りのように響いた。・・・その男も、・・・また、その隣に座っている女も、・・・たぶん、この国の人間全部を、私は叫びたいほど憎悪している。