【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

阿多羅しい古事記(新しい古事記)

2024年03月02日 | 歴史
 
 
 

現天皇は孝明天皇の子孫ではなく、徳川田安慶頼の子孫です。
Y染色体ハプログループは、「D」です。
荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者・荒木真由美

 
 
 
 
 

<徳川天皇の系図>
 
 
 
 
 


「徳阿弥」や「親氏」という名は
徳川家康が征夷大将軍になった時に、家系図を捏造するために創作した名である。
事実は、現在の愛知県豊田市附近にあったと伝わる寺に捨てられた子どもが、寺の小僧として成長した後、
土地持ちの松平信重の娘・水女を孕ませたことにより
私生児として生まれた子の母方祖父・松平信重が、「父親である男」の義父になる、という関係ができた。
やがて、戦国時代の下剋上の果て、子孫である松平家康は氏を変え、征夷大将軍に昇り、
またその子孫である徳川慶頼は
孝明天皇の妾・中山慶子が生家で産んだ子を殺し、自分が妾に産ませた子とすり替えた。






     
 
明治天皇の実父・徳川田安慶頼         慶頼の子・(明治天皇)睦仁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
著作権について: このブログの著作権を放棄していません。
が、善良な意図による本文の一部または全部の転載、および翻訳を許可します。荒木真由美
 
 
 
 

熊棲む地なり

2024年03月02日 | 歴史

 

 

そもそも、皇后良子が蚕の世話をするのが厭だと言ったことから、始まった。
皇居にある斎服殿でのことだ。神前に供える絹を織るための、茅葺の農家に似た、小さな建物だった・・・

 

 

数日前、我が家に宮内庁から使いの者が訪ねて来て、曾祖父が暗い座敷で古い書物を開いていた。
「荒木田神家の末裔」というわけで、戦後の宮中祭祀についての意見を求められたのだ。奈良時代に書かれたという古書には、絹を織るのは身分の高い女性もしくは女児、と限定されていた。曾祖父が上京する時、親族数人が付き添って行ったが、その中に四歳の私もいた。
そして、二度目からは私一人で行くことになった。

 

 

皇后は和服を着て、草履を履いていた。
現代では周知のことだが、倭錦は邪馬台国時代に中国へ朝貢された貴重品である。そのため、この蚕を宮殿内では「神子」と呼んでいた。
それを、皇后は「これがか?」と言って、摘まんだ虫を足下に放り投げ、草履で踏み潰したのだった。
私は叫びそうになるのを堪えて、後ずさりに戸口を出た。
外にいた侍従が不審そうに「どうかしましたか?」と尋ねた。しかし、狭い建物だ、セメントの床に虫の残骸がこびり付いているのも、また、それを皇后が棚の下に隠そうとして、慌てて草履で蹴ったのも、見えていたはずだ。
侍従は慇懃にお辞儀をして、それから私に言った、「あなたが踏んだのですよ。皇后様に謝りなさい。」

 

 


私は謝らなかった。

こうごうさまが、ふんだのだ。

 

 

言い張っているところへ、男が一人来て、暢気に「何があったんだい?」と訊いた。これが東久邇だった。
期待はしていなかったが、私はとりあえずこの男に事情を訴えてみた。
洒落たタイを首に巻いたその男は、男子禁制の斎服殿を覗き込んで、「そりゃあ大変だ。」と言ったきり、何処かへ行ってしまった。

 

 

次に来たのは天皇裕仁だった。
宮内庁という所は「何事も無いのが良い」のだから、わざわざ侍従らが知らせたとは思えない。
暇を持て余していた裕仁が、自ら見物に来たのだろう。
時代ドラマで、道端に土下座している町人がいきなり殿様の行列の前へ身を挺するように、私は天皇に駆け寄った。
「こうごうさまがお蚕を踏んだのです。私は何もしておりません。」
裕仁は信じられないといった顔で、「良子がかね?」と妻の名を口に出したが、すぐに側近ともども、その場から消えてしまった。

 

 

天皇が居なくなった途端、侍従の顔が険しくなった。
「強情」の貼り紙とともに、私は護衛官に睡眠薬の注射を打たれて、荷物のように公用車に放り込まれた。
しかし、薬剤の効果はすぐに切れた。まだ皇居を出てから幾らも経っていない道中、朝から絶食だった私を吐き気が襲った。
泣き出すと、助手席の男が振り返り、私の腕を掴んで、二本目の注射を打った。恐怖で、私は一層声を上げた。その口にも針が刺さった。
家に着いた時、私は玄関の板間にうつ伏せの状態で置かれたのだったが、床に押し潰された鼻が痛くて、意識が戻って来た。
どうにか顔をわずかに横へ向けて、「注射をされた・・・」と家の者に言おうとしたら、
自分の口が開いたまま、そこから舌がだらりと垂れているのに気がついた。
涎が止まらなかった。

 

 

「二度と皇居へは行かない。」と私は言い、曾祖父もまた「行かなくて良い。」と言った。
だが、選択の自由は我々には無かった。「迎えの車」が来たのだ。皇后が謝罪に来いと言うのだった。
障子を閉てた母屋から、「いったい祭祀をどうなさるおつもりですか。これでは済みませんよ。」と、朝から女の金切り声が絶えなかった。
窮した曾祖父は、とうとう紋付に着替えて、家族が見送る中を宮内庁の車に乗り込んで行った。
翌日になって車が戻って来た時、運転手が開けるドアから降りた曾祖父は、五、六歩よろよろ歩いて、庭に倒れた。
「今度は、自分が謝りに行く。」と私は言った。

 

 

そうして、また一張羅の振袖を着せられて、私は公用車に乗せられた。
事態は、すでに私が蚕を踏み潰したことになっており、皇居の正殿に通された私は、祭壇の前で懺悔するよう命ぜられた。
先祖神に嘘をつくのが嫌だった私は、祭壇の正面まで進み出て、お辞儀だけしようと決心した。
ところが、和服を着せられた子供の腹には太い帯が堅く締められていたのだ。
本当なら、頭を腰の位置より下げて平伏せねばならないのだが、筒状になった帯は子供の体を「くの字」にしただけだった。
すると、背後に付いていた護衛官が、毒針で私の腰のあたりを刺した。もっと曲げろと言うのだ。

二度、曲げたが、二度、刺された。
祭壇に背を向けることは禁じられていたが、私は踵を返して、走った。
廊下に出たところで護衛官に捉って、今度は注射を打たれた。麻酔に似た催眠剤だった。私は失神し、床に倒れた。

 

 

何故、私がこんな目に会わなければならないのか? 
まるで家畜を殴るように、まだ言葉も未発達な子供を虐待する、その男の名前さえ私は知らなかった。
意識が遠のく間に、ふっと自分がその男に何か悪いことをしたのだろうか、と考えた。否。では、この男は命令に従うだけの兵隊なのか? 
毒が回るに連れて、振袖を着せられた子供の足はもつれた。それを、男は面白そうに嗤っていた。

 

倒れた私は誰かに抱きかかえられて、客室らしい部屋へ運ばれた。
苦悶している私が吐くと思ったのか、担いでいた者は、私をベッドではなく、床に転がした。
そして、それっきり、いつまで待っても誰も現れなかった。
放置されることに慣れていた私は直ぐにあきらめて、猛烈な吐き気を堪えながら、浴室まで這って行き、片手で浴槽の縁に掴まりながら、蛇口をひねって、身体を洗った。
タオルは頭上に掛けられてあったが、手が届かなかった。私の体が小さいのだった。
ずぶ濡れのまま、また箪笥の前まで這って戻り、ようやくのこと、ブラウスとスカートを穿いた。
が、それが限界だった。そのまま、仰向けに床に倒れてしまった。
疲労で、憤怒は私の体を抜け出ていき、替わって、冷ややかな怨恨が降りて来た。

 

 

気が付くと、いつの間にか頭上に女の顔が二つ現れて、脱ぎ捨てられた着物と私を見下ろしていた。
一人が「起きなさい。」と命じたが、できるはずもない。
別の女が「お着物はどうなさいますか?」と訊いたので、「持って帰るから、風呂敷にでも包んで欲しい。」と答えた。
当たり前だ、私の着物なのだから。

 

 

家に戻った私が真っ先にしたことは、曾祖父に皇后の血統を訊ねることだった。
「久邇宮だ。」とあっさり曾祖父は教えてくれた。
我が家と天皇家とは姻戚関係があって、辿れば同じ血で繋がっているというのが信じられなかった。
私がそう言うと、薬剤で赤黒い斑点が浮いた私の顔を、曾祖父が見すえて、「島津だ。」と付け加えた。

 


翌日、我が家の狭い座敷に、親族が集められた。
曾祖父は惣領として、私の身に起こった事態を伝えておかねばならないと考えたのだろう。
長い話の後で、奥から一本の瓶が持ち出された。青酸カリ入りの酒だという。戦時中に天皇が配ったものだ。
「何で、うちに?・・・」 おおかたが百姓のせがれで、せいぜい牛車の車輪を直せるのが自慢な男らは、日焼けした顔を歪めた。
「何だあ。自分で飲めばええがな・・・」

 

 

着物を汚したせいで、代わりに着て帰った洋服は、宮内庁の備品だった。
捨ててやろうかと一時怒りが込み上げたが、結局、洗濯して、仕舞っておいた。案の定、二週間も経った頃、侍女が取りに来た。
洗濯機がまだ無い時代なので、上質なブラウスも乾いた時には皺々になっていた。
「これじゃあ、もう使えないわ。」女はさも落胆した様子で、「こういう場合は、汚さないように綺麗な布に包んでそのまま返して欲しい。」と母に説明していた。

 

 

裕仁について、もう一つ書いて置かねばならない。
或る日、蚕に餌をやった後で、舞踏殿という広間へ連れて行かれたことがあった。
そこでは様々な民族衣装を着た人々がそれぞれの国の民族舞踊を稽古していたが、私が広間へ入った時、丁度、辮髪の男が五人か六人、素早く回転しながら踊っていた。

裕仁は、奥の間から出て来た。すると、突然、辮髪の男等が平伏したのだ。
体が柔かい彼等は板間の上で紙のように折れて、床を舐めるように這いつくばった。そして、そのまま天皇の足に額づいたのだった。
裕仁は愉快そうに笑った。「これらは、いつもこうなんだよ。」
平伏した男等は土偶のように動かなかった。

 

 

別の機会に、密かに訊いてみた。「おじさんたちは何処の国の人ですか?」 
すると、満州族だと彼らは答えた。
また違う一組に訊いてみると、琉球人だと答えた。天皇は自分が支配していた国の人々を奴婢として囲っているのだった。
その中に、隼人舞いをしている男たちがいたので、同じことを訊いてみると、こちらは宮内庁の職員だと答えた。
天皇が出て来たら平伏するのか、という質問には、することもある、という答えだった。

 

 

・・・皇后が蚕の世話をしないので、一ヶ月も経たないうちに、虫は全部、干からびて死んでしまった。
そして、驚いたことに、天皇も祭祀を放棄したせいで、神田はひび割れ、雑草がはびこって、わずかばかりの稲も枯れてしまった。
現在、祭祀に使っている蚕や稲は、その後、何処かで品種改良されたものである。

 

 

 

 

 

Mayumi Araki

 

 

 

 

 

 


参拝者たち

2024年03月02日 | 歴史

  

 

 

<宮内庁のルール>

何度も、何度も、薬剤銃で撃たれて、皇居に拉致監禁されていた私が、とうとう怒り狂って「責任者を出せ!」と怒鳴ったら、宮内庁次官の羽毛田信吾が出て来た。長官の湯浅利夫のほうは、以前、彼が女性職員の一人と異常なほど接近した状態で話し込んでいる場面を私が目撃して以来、会っていない。さっさと任期を終えて天下って行きたい、というのが官僚の本音なのだろう。

 

その腹の内はどうであれ、ともかく自発的に問題処理のために現れた羽毛田に、私は早口で説明した。
「最初は雅子に発砲されて、次に久子に麻薬で襲われて、それから、明仁や寛仁にも毒ガスのような物を使われて・・・つまり、皇宮護衛官が薬剤を使って、私を拉致するんですよ」
羽毛田は聞き返した。「誰が拉致?」
「だから、最初は雅子の命令で皇宮護衛官が・・・それから明仁の命令で皇宮護衛官が・・・」
言葉が切れたところで、すかさず羽毛田が言った。
「助けられない」 
「何ですって?」

 

羽毛田はにんまり笑って、「助けて欲しいの? それじゃあ」と、突然、私の手を取った。
私のほうは、当然、相手の手を振り払って、傍にいた護衛官に「今、触ったわ」と訴えたが
餌付けされた番犬は「あいにく見ていませんでした」と、とぼけ、
言い争っている間に、広間が完全に真っ暗闇になってしまった。
自動防犯装置が作動したのである。

すると、羽毛田がまた私の下腹部を、正確にはズボンの上から性器を、撫でた。
「いったい、何なの! あなたは」 怒り心頭の私。
護衛官を振り返って「また触ったわ」と訴えてみたが、番犬はすまして「貴女が避けないからですよ」 
・・・「ノーパンしゃぶしゃぶ」の話を聞いたのは、この後である。

 

 

 

 

<以下に、ノーパンしゃぶしゃぶ料理店の顧客名簿を転載させて頂きました。>

● 日銀  福井 俊彦 (副総裁) ←ここでは関係無いのですが。
      永島  旭 (理事)
      本間 忠世 (理事)
      米澤 潤一 (理事)

● 大蔵省
     橋口  収 (大蔵元次官)
     長岡  寛 (大蔵元次官)
     保田  博 (大蔵元次官)
     西垣  昭 (大蔵元次官)
     松尾 直良 (元関税局長)
     吉田 正輝 (元銀行局長)

● 厚生省
     山口 剛彦 (厚生次官)
     近藤 純五郎(厚生官房長)
     田中 泰弘 (厚生総務審議官)
     伊藤 雅治 (審議官)
     谷  修一 (健康政策局長)
     小島 比登志(総務課長)
     小林 秀資 (保健医療局長)
     木村 政之 (企画課長)
     小野 昭雄 (生活衛生局長)
     羽入 直方 (企画課長)
     宮島 俊彦 (指導課長)
     中西 明典 (医薬安全局長)
     吉武 民樹 (企画課長)
     鶴田 康則 (審査管理課長)
     安倍 道治 (安全対策課長)
     間杉  純 (監視指導課長)
     羽毛田 信吾(老保福祉局長) ←この人がそうです。
     水田 邦雄 (企画課長)
     江口 隆裕 (老人福祉振興課長)
     横田 吉男 (児童家庭局長)
     伍藤 忠春 (企画課長)
     渡辺 芳樹 (家庭福祉課長)
     畠山  博 (育成環境課長)
     小林 和弘 (保育課長)
     小田 清一 (母子保健課長)
     外口  崇 (血液対策課長)
     山本  章 (麻薬課長)
     高木 俊明 (保険局長)
     中村 秀一 (企画課長)
     霜鳥 一彦 (保険課長)
     矢野 朝水 (年金局長)
     紺矢 寛朗 (企画課長)
     大谷 泰夫 (年金課長)
     高橋 直人 (企業国民年金基金課長)
     塩田 幸雄 (資金管理課長)
     皆川 尚史 (運用指導課長)

     (以下略)  

 


 


芸者遊びにでもあるのだろうか、私が神経ガスを嗅がされて意識を無くしていた間に、鉢巻きの様な幅が細い布を腰の廻りに二重に巻かれて、ほどけないほどに固く結ばれていた。紐は腰肉に喰い込んで、下へ抜くこともできず、かと言って、腰骨に引っかかって上へも抜けず、もはや若くもない私の尻を分割して滑稽な図を作っていた。

気付くと、暗闇の中に、羽毛田が手に鋏を持って立っていて、「やって欲しい?」と私に訊くので、素直に頷いたら・・・
その鋏を、私の腰と喰い入っている紐の間に差し込もうとしたため、あまりの痛さに悲鳴をあげた。
すると、怒った羽毛田が鋏で私の尻を突いたのだ。

 

 

 

 

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<走る狗(いぬ)>

思い当るのは一つだけだ。最初に皇居へ拉致された時、私はまだ二歳だった。当然、オムツをしていたのである。
大抵の母親が子どもの排便に対して取る手段として、つまりオムツが濡れているかどうかを確かめるために、着物の裾をまくってお尻に手を当ててみる、という行為をするが、皇居で私の世話をしていた侍女らも、時間を見計らってはそうした。

しかし、問題は、侍女らが他の男児がいる前でも平気で私の着物をまくったことだ。その子供は私より幾つか年上だった。そして、私より天皇裕仁に近縁であるため、身分が高かった。世話係の女らがいなくなると、男児は私の着物の裾をまくり上げた。

 

以後、私は数えきれないほど皇居へ拉致されたが、その度に、皇宮警察護衛官に尻を撫でられた。
四、五歳の子どもであっても、そういった行為には性的な嫌らしさを感じ取るものだ。
ただし羞恥心はまだ無かったので、或る時、「何故、お尻に触るの?」と訊いてみると、「そう命令されている」と若い護衛官が答えた。そして、「他の子にも触っている」と付け足した。私以外の子供の尻も触っているから、公平だ、と言うのだ。

 

或る日、この「ごろつき」どもが四、五人、私の家へやって来て、戸が開け放された玄関先で、奥から出て来た私のスカートを捲り上げて、性器を撫でた。現在でも職場で新参者がよくやらされるゲームである。突撃して、女のアソコを触って来い・・・
北窓から、そっと表の道路を見ると、制服姿の男らが自動車に乗り込むところだった。一人が私に気がついて、笑いながら手を振った。

 

 

 

 

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<壺になった鶏>

昭和天皇裕仁の墓は円墳である。正確には「上円下方墳」と呼ぶのだそうだが、これは相撲の土俵のように、四角く土を盛った上に半球型の墳土を盛ったものである。

ところが、本来はただの円墳のはずなのに、これを無理矢理「前方後円墳」に仕立てあげようとして、半球型の墳墓の両側に小さな羽のような突起を付けた。それを、私が宮内庁で、「あの羽は要らないわね」とつい言い洩らしたら・・・ さっそく職員が鶏舎から白い鶏を一羽持って来て、その両翼を斬り落とした。

 

鶏は、両肩の位置に翼の骨をわずかに残して、まるで首が長い白い壺のようになった。鳴いて暴れないのは麻酔が効いているからだろうが、黒い目玉だけがギロッとこちらを睨む様子は、生まれながらの奇形児を見る心持ちにさせられる。
こういった残虐な行為を、宮内庁は特に女に見せて悦ぶ傾向がある。動物の異様な形状と血の匂いが奴らを性的に興奮させるのだろう。

それでも鶏はまだ生きていたので、「ここで飼ってやればいいじゃないの」と私は言ってやった。
伊勢神宮のように、明仁もここで鶏を飼えば良い。逆らえば必ず報復して来る下衆どもだが、私は口を噤んでいられなかった。
すると、今度は、暗闇にトサカの大きな闘鶏用の雄鶏が一羽、放された。
(本当にまったく馬鹿げた話なのだが、この雄鶏が天皇明仁で、言うまでもないが、先に翼を斬られて奇形になった雌鶏が私である)

 

成長ホルモン剤を投与されて、驚くほど馬鹿でかく育ったその雄鶏は、この時、さらに興奮剤を打たれたのか、私を見ると羽を大きく拡げて襲いかかって来た。要するに、奇形の雌鶏がその何倍も大きい雄鶏によって強姦される、という構図だ。
そして、この騒動の後でめでたく雌鶏が産んだ臭くて生暖かい卵を、職員がわざわざ籠に入れて持って来て、その一個を、私の頬っぺたにくっ付けた。

 

 

 

 

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<厄災>

西暦2000年以前の話である。もしも、私が住んでいる地方に大地震が来たら、救助隊は直ぐに来てくれるかしら? と宮内庁職員に訊いたら、「一週間くらいは頑張っていただかなくては」と冷淡に言われた。

その後、この話を聞いた天皇明仁が、「お見舞いに行くよ」と私に言った。被災して、生きているかどうかも判らない私のところへ、当然、生き残るつもりの明仁が見舞いに来ると言うのだ。

東日本大震災の直後に、地下の核シェルターで撮った明仁のビデオ・メッセージをテレビで放映していたが、イスラム過激派の首領のようで苦笑した。その地下室には、防災用品が完備されていると言うので、職員に案内されたことがあるが、壁いっぱいにワインの瓶が積まれてあった。案内した男は「そういう際にも、皇族方には普段と変わらずお過ごし頂けるように、万全を期しています」と胸を張って言った。

明仁から見舞いの話が出たところで、傍にいた武官がすかさず「お礼を」と私に催促したので、「それじゃあ、見舞品はあの卵でいい」と答えた。ホルモン剤を投与して馬鹿でかく育った雄鶏と、虐待された雌鶏を交配させて産ませた卵である。
武官が変に間延びした声を張り上げた。「鶏卵を、お見舞いィ」

 

 

 

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<雨上がりの堤防>

あれは隅田川だったろうか・・・雨があがった後、皇宮護衛官に連れて行かれたことがあった。
車一台がやっと通れる幅の堤防の上へ、車ごと登って、水かさが増えた川を眺めた。
それから、いつもなら私だけが車から降ろされて、サリン弾を投げつけられるはずだったが、その日は護衛官が「これしかないな。お前、逃げろ」と言い、私は何のことだか判らなかったが、普段とは状況が違うのだと感じて走り出した直後に、金属の塊が背中に当たった。塊は地面を転がって、堤防の下方へ落ちて行った。私が近くの橋まで行き着かないうちに、爆発音が鳴った。手榴弾だったのだ。堤防の下に建っている家の窓から男が顔を出して、「何をやったんだ!」と私のほうへ怒鳴った。


半年くらい後に、再び同じ場所へ、別の護衛官に連れて行かれた。堤防の下方には大きな窪みと亀裂ができており、そこから染み出た水が細く流れ出ていた。護衛官は視線を遠くへやって、「大雨が続いたから、上流のダムが放流するぞ」と怒鳴った。我々が急いで車に乗り込み、発車させる時、タイヤが滑って、堤防上部の盛土が崩れた。

 

 

 

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<神馬>

先祖らが日本列島へ渡来する時、途中の朝鮮半島で馬を船に乗せる際に、馬が暴れて、海へ落ちて溺死した。それで馬車を曳く馬がいなくなったので、後世になって伊勢神宮に神馬が献上されるようになった。しかし、この神馬は、初めて知る人は驚愕するだろうが、実は宮内庁が飼っている乗馬用のもので、皇族どもがいい加減、尻に敷いて乗り回した末に、神宮へ払い下げになるのだ。

私が五歳くらいの時、神宮へ参拝に連れて行かれると、神馬のうちの一頭がもうかなり老いぼれていた。すると、それを見た護衛官らが「片付けよう」と言い出したのだ。薬殺である。神宮の境内で、ヤクザのような風体の男数人が寄ってたかって、その老馬に毒入りの注射器を突き刺した。何とも表現しがたい断末魔が森の中に響いた。

 

しばらく経って、車馬課の者が新しい献上馬を曳いて来たのだが、その後から、天皇裕仁が武官を従えて付いて来た。
裕仁は厩舎に入れたばかりの神馬を再び引き出させて、自らそれに跨ると、参道の砂利を蹴散らして走り廻った。
おまけに、武官が馬の尻に下剤らしいものを打ったので、馬は暴れて、糞を撒き散らかした。

 

 

 


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<銀色の小魚>

中学生の時、すでに父が死んで「母子家庭」になっていた私の家に、バケツ一杯の水銀に浸けられた、大量の鯵か何かの小魚が届けられたことがあった。

学校から帰ると、私より先に帰宅していた弟が「魚を貰った」と告げた。幼い妹が両手を広げて、「いっぱい」と嬉しそうに笑った。母は勤めに出ていて、子供だけの留守中だった。

バケツは暗い台所の土間に置かれて、窓から差し込む陽光が、銀色の水面をぬめりと照らしていた。
少量の水銀が土間にこぼれて、ガラスの宝石のように散らばっていた。
「きれい・・・」と私の背後で、妹がうっとりした声で言った。

 

 

 

補足) 水俣病: 水銀を海へ垂れ流すことに因って起きた公害病。

    江頭豊: ヤクザを雇って、水俣病被害者家族を恫喝し、殴る蹴るという暴力で追い払ったチッソの社長。

         ヤクザは最初、角材を使って殴っていたが、後に鉄パイプを使いだした。皇太子妃雅子の祖父である。

    ユージン・スミス: 

         米国人の報道カメラマン。水俣病を取材し、写真集を出版した。

         ヤクザに頭を殴られ、片目を失明した。

         小和田雅子が皇太子妃候補に挙がると、水俣病の写真集は、一時、日本中の書店から消えた。

 

 

 

 

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<雅子のどこが悪いんだね?>

・・・と小和田恒に訊かれた。機関銃のように、皇太子妃雅子が銃を撃ちまくって、それを林田東宮大夫が「ご病気でございます」と言った後のことだ。その数日後に、オランダで暮らしているはずの小和田が私を宮内庁へ呼び付けたのは、この狂乱を知らされて帰国したからではないのか? 自ら東宮御所へ行って、壁に開いた穴を数えたら良かろう。

 

 

 


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<Princess Masako>

麻薬ですか? ええ、雅子はマリファナをやっていましたよ。
それから、何か錠剤らしい物も飲んでいました。

いえ、その前に開かれた記者会見でも、彼女はこれ見よがしに何か飲んでいまして、報道関係者の一人がそれを「鬱病の薬」だと言ってましたが、しかし、私が見たのはどうも違うようでした。本人が「これも(飲んで)いいのよ」と意味深な言動を発しておりましたことから、あれも麻薬の一種だったのではないかと思います。

 

ただ、何にしても、その後なのですが・・・水パイプと言うんでしょうか、阿片を吸う時に使うガラス器具があるでしょう、あれを私が監禁されていた部屋へ持って来て・・・そのくせ、使い方が分からないと言って、私に訊くんです。
私も知りません。麻薬なんて、やりませんから。自分の身体が大事ですからね。

そうしたら、燃やしたのです。
私のほうはすでに何度も薬剤銃で撃たれていたので、目がよく見えませんでしたが、部屋中に阿片の独特な臭いが漂ったわけです。
それから、私は侍女にまた毒ガスを嗅がされて、完全に盲目にされました。そして、唇にガラスのストローのような物が触れました。片手でそれを払い退けると、今度は、横へ背けた頬を麻酔薬の注射針で刺されて、口が弛緩して薄く開いたところに、そのガラス管を突っ込まれました。

 

雅子が、自分の胸の上部にできた「湿疹」を私に見せたのは、そのまた一週間くらい後のことです。
できていました。しかし、あれだけの麻薬をやれば、誰だって急性の薬剤アレルギーになるんじゃないですか。
私にも出ているかと訊かれましたが、私は積極的に吸引したわけではないので、出ていませんでした。
そう答えたのですが、勘繰り深い雅子は私の衿をめくって服でも脱がしたい様子でした。
まったく、何もかも馬鹿馬鹿しい話です。


 

 


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<車椅子の男>

三笠宮寛仁に抱きつかれて、エイズを感染させられそうになった後、続いて、桂宮宜仁のところへ廻された。
宜仁は若い頃に怪我をして、車椅子を使っているが、部屋へ押し入れられた私を見ると、開口一番、「膝の上に乗れ」と言った。
(私は何も、遭遇した男がみな性的欲求を抑えきれなくなるほど魅力的というわけではないので、宜仁は女と見れば誰にでも「膝の上に乗れ」と言うのかも知れない)

私はここでもまた私の常套句である「お前もエイズだろう。感染させたら殺してやる」と叫んだ。しかし、すぐに武官に神経薬を注射されて、下半身が麻痺してしまい、床に崩れたところを武官に抱えられて、車椅子に座っている宜仁の上に横座りの状態で載せられた。そして、私が宜仁の上でもがいていると、ドアが開いて、奴に囲われている情婦がこの不倫現場(?)を目撃する、という低俗ドラマのような展開になった。


 

 


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<情婦>

夫も子供もいながら(後に離婚したが)、セックスを強要された男の世話をして暮らす女の気持ちは、私にはどうにも理解しがたい。

硬直した体を、宜仁の膝の上に載せられ、また、ずり降ろされた私は、その情婦によって再び神経薬を注射されて、下半身が完全に麻痺したために、脚をもがれた爬虫類のように床を這った。どうにか反転して頭だけを起こすことができたが、立ち上がれず、そのまま尻を中心にして、両手両足をくねくねと掻いた。

女はそれを眺めながら、笑って、宜仁と抱き合った。
欲情したらしい宜仁が女の体を引き寄せると、「後で」と女は答えたようだったから、後で性行為をしたのだろう。
宮内庁職員の男が「一緒にどうですか?」と私に三人セックスをさせようとしたが、かろうじて逃げ遂せた。

 

 

 

 

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<不法侵入・その1>

まだ高校生だった時の、朝遅い時刻のこと、自分の部屋で寝ていたら、突然、男の声に起こされた。制服を着た若い皇宮護衛官だった。「お前、よくこんな所で寝ていられるな」と、その男は布団から顔だけ出している私に言った。こんな所というのは、私の家が田舎の一軒家で、玄関に鍵はあるものの簡単に開いてしまう、それなのに年頃の娘がよくも一人で安穏に寝ていられるものだ、という意味らしい。

これは、私が天皇裕仁の命令で拉致された二度目に、売春婦のような下着を着せられて写真を撮られたあげく、裕仁に強姦されそうになったが運良く奴がすでに性的不能になっていたので、その代りに一週間ほど麻薬漬けにされて弄ばれた後、ようやく自宅へ帰された翌朝のことだ。
しかし、私はもう小学生の時のように泣かなかった。とうに十三歳で裕仁に強姦され、名前も知らない護衛官に下賜され、その後、東久邇信彦にも強姦されていた。自分の体が精液にまみれた膣から裏返しにされたような感覚は、私の心を完全に破壊していた。

 

ただ、この日の朝、この見覚えの無い男が土足で家にあがり込んで来たことに、私は冷たい憎悪を抱いた。
私が暮らしていた家は、殺された父親が住宅公庫から金を借りて建てたものだったが、父が死んだ時、その三十四歳の命と引き換えに、妻と三人の子供に遺された唯一の物だった。私の唇は薄ら笑いで歪んだ。(実際、私は今にも奇声をあげて笑い出しそうな衝動を抑えられず、ちょっと咳込んだ)すると、男のほうが「よく平気だな」と怒った声で、また言った。

 

 

 

 

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<不法侵入・その2>

それから二十年以上が経った頃、皇居で私に抱きついてきた三笠宮寛仁が、その後、私の家へ押し掛けて来た。

玄関の鍵はかけてあったが、皇居で監禁されていた間に、武官に鍵を取り上げられて、返されないままになっていたのだ。それを使って、難なく開けられてしまった。

寛仁は「入るぞ」と、まるで妾の家へ来たかのようだった。たしか引出しにあったカッタ―ナイフか何かで格闘して、追い出した。

 

 

 

 

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<新しいお墓>

燃やすことになったので、嬉しい。

 

 

 

 

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<エイズ同盟>

世の中に、「エイズ同盟」とでも言うような犯罪組織があるらしい。
HIVはもともと輸血で感染した人が多く、厚生省を相手に訴訟になっている病気だ。
しかし、これが感染を隠した上で性行為をし、故意による二次感染三次感染となると、うつされた側は怒りの持って行き場が無い。
そこで、恨みは偶然出会った者に無差別に向けられる。こうして不幸の連鎖が拡がって行くわけだ。

「僕もそうなんです」と、或る日、何の勘違いなのか、馴れ馴れしく自分もエイズだと言う芸能人が私を訪ねて来た。

 

 

 

 

 

 


#追記

2024年03月02日 | 歴史

<ここは執筆途中です>

 

宮内庁と皇宮警察が過去に作成した私に関する記録は

全部、虚偽です。

 

 

鉛筆

案内された部屋には、窓も無いが、椅子も無かった。私は恐る恐る、宮内庁侍従職の男に「紙と鉛筆が欲しい。帰りの自動車の用意ができるまで、絵を描いて待っているから」と言ってみた。意外なことに、私の要望は何の質問もなされず、「お待ちください」という言葉で受諾された。まったく悪意の無い声だった。机が運び込まれ、その上に紙と鉛筆が置かれた。

 

三十分も経った頃、車馬課の男が「車の用意ができました」と知らせに来た。すると、それまで私が絵を描いていた紙を眺めていた男が言った。「それはあなたにあげますよ」 私が手に持っている鉛筆のことだ。が、何だか、妙な気がした・・・と言うのも、当時、鉛筆はもう文房具店にありふれていて、私は24色のクレヨンも持っていたからだ。しかし、私は親に教えられたとおり、「ありがとう」とお辞儀をして、芯が丸くなった鉛筆を握ったまま、大急ぎで椅子から降りた。もたもたしていると置き去りにされてしまうからだ。私がドアを出ようとしたその時、男の大声が響いた。「泥棒!」

何年か後になって、皇宮警察の日誌に、私が宮内庁の備品を窃盗したと記録されていることを教えられた。

 

 

 

 

 

撃ってもいいんだ(その1)

「なあ、外国なら、何処がいいんだ?」 皇宮護衛官が作り笑顔で言った。

私はこの時、四歳だったが、すでに何度も国内外へ連れて行かれて、そのたびに死にそうなくらい危険な目に会っていた。一度は、船でサハリンの近くまで行って、ロシア兵に銃撃されたし、また一度は、アフリカの草原をジープで走り回って、護衛官らがライオン狩りをしていたところ、腹をすかせたライオンが後部座席に飛び乗って来て、私が喰われそうになった・・・
「何処へも行かない」私はきっぱり答えた。それなのに、後日、私は眠っている間に飛行機に乗せられ、米国の空港に降り立った。

 

私と護衛官は米国の閑静な住宅地を歩いていた。道路の両側にポプラか何かの大きな街路樹が植えられて、二階建ての大きな邸が並んでいた。護衛官はいつものように、私の少し後方を歩いていたが、突然、私の背中へ向って、次のように言った。「ここではなあ、撃ってもいいんだぞ。・・・アメリカだからな」 振り向くと、護衛官は右手に短銃を握って、上方へ構えていた。驚いた私は無暗やたらに前方へ走った。街路樹は高いけれど、幹が細いので、私の体が隠れるかしら? と思った時、バンッと一発の銃弾が私の靴に近い地面に当たった。男は卑しい笑みを浮かべていた。

 

通りに面した二階の窓で、女の鋭い悲鳴が上がった。護衛官は反射的に体を捻って、声の方角を撃った。弾丸は、窓枠に近い外壁に当たった。
パトカーが四、五台も、サイレンを鳴らしながら走って来た。護衛官は私から二十メートルほど離れた位置に銃を持ったまま立っていたが、パトカーはそのまた後方三十メートルくらいの位置に、次々に斜めに急停車し、大勢の警察官が一斉にこちらへ銃を向けた。すると、護衛官がまた撃った。弾は最前列のパトカーのボンネットに当たった。米国の警察は躊躇しなかった、一人が乱射している男の胸を撃ち抜いた。帰国後、皇居にいる護衛官らが「仲間を殺された」と憤ったが、私は無言だった。殺されたんじゃあない、彼らは悲鳴を上げた女性を救ったのだ。

 

しばらく経って、在日米軍基地へ連れて行かれた。しかし、門番兵は罪人になった我々を中へ入れてはくれなかった。護衛官らは、私だけを車から降ろして、「日本人が殺された、と叫べ」と言った。「そう言えばいいんだ。シュプレヒコールだ」そして、自分たちは車に乗り込んで、離れた場所まで下がった。白人の兵士が上方へ向けて威嚇射撃をした。

 

 

 

 

 

撃ってもいいんだ(その2)

小学校二年生の或る日、チャイムが鳴って、みんな席に着くと、一人の男子生徒が立ち上がった。彼は右手に拳銃を持っていた。「なあ、本当にやってもいいのか?」 誰に言うでもなく、彼は言うと、その数秒後、銃声が鳴って、女子生徒の悲鳴が上がった。
銃口は下へ向けられていたので、床に当たって砕けた弾が誰かに当たったかどうかは分からなかった。「警察がやれって、言ったから・・・」と、苦しそうな男子の声が聞こえた。

 

中学生の時はさらに深刻だった。事件の三、四日前に、皇宮警察護衛官は職員室に短銃とサリン弾と覚醒剤を置いて行った。幕間の寸劇のように、生徒全員が着席したところへ、短銃を持った教師が教室へ入って来た。カチッと、安全装置を切る音が聞こえたので、私は反射的に上半身を机の上へ伏せた。銃声が鳴り、弾は一番前の席とそのすぐ後ろの席に座っていた生徒の胸を貫通して、後方の生徒の肩に当たった。「二人死んだ」と後で誰かが言った。

 

救急車とパトカーが来る前に、何処かに隠れていた護衛官が現れて、「こいつが撃ったんだ」と大声で言った。「こいつ」というのは私のことだ。護衛官は三人ほどの生徒へ順番に視線を投げて、「こいつがやったと言え。そうすれば、アレ(先生)は助かるんだ」と教唆した。しかし、さすがに同級生が死んでいるので警察官に偽証する者はいなかったが、検証が終わって警察も教師もいなくなると、「あんたがやったんじゃないの」と幾人かが言い出した。女子生徒の一人は卒業するまで「あんたがやった・・・」と言っていた。

 

 

 

 

 

絵画

フランスのルーブル美術館だったと思う。絵の題名を知らないが、昼寝から寝覚めたばかりといった風情の女が、お尻の上までスカートがまくれ上がったまま寝そべっている図だ。五歳の私を連れて、この美術館へ来た皇宮警察護衛官が、突然、その絵のまで立ち止まり、指差した。私は横を向いて通り過ぎようとした。すると、男が突然、私のスカートを掴んだのだ。掴んだだけではない、もう片方の手で、自分のズボンの前をこすり始めた。外国の美術館で、半裸の女の絵を見ながら、自慰をしだしたのである。

 

「いや。離して!」私は悲鳴を上げた。男が手を離したので、私は次の部屋へ逃げた。
すぐに守衛が駆けて来た。威嚇の銃撃音が響いて、護衛官は捕まった。私の傍にも女が走って来て、何があったの、と訊かれたが、あいにく私は言葉が判らない。「(あれは)お父さん?」と日本語で訊かれたので、「違う」と首を振った。別の若い男も駆け寄って来て、「パパ? ダディ?」と訊いた。「違う」

 

逮捕された護衛官の顔を確認させるためか、私はガラス張りの取調室のほうへ連れて行かれた。中からもこちらが見えるのか、椅子に座っていた護衛官が不意に立ち上がって、窓ガラスへ寄った。突然、銃声が鳴った。

 

 

 

 

 

サリンは、裕仁が使って良いと言った

皇宮警察は、度々、私の家を襲って来た。天皇裕仁が孝明天皇の子孫ではなく、徳阿弥を始祖とする徳川血統である事を知っている人間は戦後も極少数だが残っていて、我が家も奴らが監視せねばならない一つだったのだ。

裕仁は、戦後に再開された九州北部の遺跡発掘調査で、「斉王」の陵墓から印璽や王冠などが発見されると、武官(皇宮警察)にサリン弾を使わせて、出土品を強奪させ、皇居へ隠匿した。その後、皇居へ拉致される度にサリンを噴きかけられる私が、「毒ガスを使わないで」と護衛官に懇願すると、護衛官が「それなら、陛下に訊いてみよう」と言い出して、問答無用に私を裕仁の前へ連れて行った。そこで、裕仁が「使っても良い」と宣下したのだった。


以後、護衛官は私を皇宮警察庁舎の横に建てた犬小屋のような監視小屋の外へ放ち、何処かから走って来ては、私にサリンを噴きかけた。もしくは、監視小屋の中から、麻酔銃で私を撃った。

 

密偵(皇宮警察)は小学校へも来た。或る日、臨時教員と称した男が教室で授業をしたが、生徒の机の間を歩きながら、私の横で止まると、教科書を持っていた私の手の甲を、青酸カリを塗った針で刺した。それから、教室を出て行く直前に、サリン弾を投げた。
数日後には、担任教師が私の席へ来て、「お前にこれを渡してくれと言って置いて行ったんだが、何だ、これは?」と言いながら、教室内でサリン弾の口を開けた。

 

成人になって有る企業で事務員をしていた時にも、突然、密偵が職場へ侵入して来て、サリン弾を投げて行った。近くの交番から来た警官は、ガスが抜けて、床に転がっているサリン弾を確保して行ったが、一週間くらい経つと再び私の職場へ来て、「捜査は終わったから、これは返すぞ」とまるで拾得物のように、サリン弾を返却しに来たのだった。私は「私の所有物ではない」ので、その場から逃げた。机の上に置かれたサリン弾は、たしか、別の職場の若い男が持ち去った。

 

 

 

 

 

お前、これが作れるのか?

この時、私はセーラー服を着ていたので中学生か高校生だったのだろう、いったい何十回目の「拉致」だったのか判らないが、皇居の暗く広い部屋に監禁されていた。

 

護衛官は開口一番にこう訊いた。「芸能人では誰が好きなんだ? 誰でもいいんだ。言えば、連れて来てやる」 しかし、当時の私はそんな呑気な生活ではなく、父親が殺された後は、何処か誰も知らない街で一生独身のまま生きて行こう、などと考えていたので、「特に誰もいない。テレビもあまり見ないし・・・」と答えた。「そんなことは無いだろう。誰でもいいんだ、言えよ」 護衛官はしつこく繰り返したが、やがて、「それなら、こちらで探してやる。待ってろ」 そう言って部屋から出て行った。

しばらく経つと、護衛官は再び戻って来て、「おい、いたぞ。お前にぴったりなんだ。お前、会いたいだろう?」と嬉しそうに言った。半日か一日後、見知らぬ若い男が、護衛官に連れられて部屋へ入って来た。護衛官より大きな男だった。

私はドアから対角線上に離れて、壁に張り付くようにして立っていた。護衛官と男は入って来たドアの傍で立ち止まり、そこで護衛官が子供の握りこぶしくらいのサリン弾を一個、男に差し出して見せた、「お前、これが何だか判るか? ・・・お前、これが作れるか?」
若い男の表情は見えなかったが、何か、護衛官の予想せぬことを言ったらしい、護衛官が半身を反らして「何だ、お前!」と声を荒げた。男のふてぶてしい態度が好戦的に映ったのだろう。そのせいか、護衛官は続けて、私が聞いたことが無い化学物質らしい名前を言って、知識をひけらかした。

私は叫んだ。「開けちゃ駄目。それは猛毒のガスが出るから」 
男は驚いて、手に持っていたサリン弾を床に落とした。そして、ドアから廊下へ逃げた。護衛官がサリン弾を拾って、男を追いかけた。男は廊下にいた別の護衛官に捉えられていた。「早くこれをやって、帰そうぜ」と言う声が聞こえ、ドアが閉められた。

 

それから一週間くらい後、護衛官から電話がかかって来た。「なあ、あいつ、本当に作れると思うか?」 私は無言で電話を切った。
また三年くらいが経って、私のほうは完全に忘れていたが、護衛官から電話がかかって来た。「なあ、あの男を覚えているか? あいつなあ、本気で作るつもりなんだ。・・・お前、あいつの所へ行って止めろよ」 私はまた無言で電話を切った。私に何の関係も無いことだった。明日は図書館へ行って、就活のために筆記したものをまとめなければならなかった。

 

 

 

 

大岡昇平と司馬遼太郎

「女は馬鹿なんだ。何もできない。アレをやって、子供を産むしかないんだ」と言ったのは司馬遼太郎で、会ったその日に、高校生だった私に抱きついてきた。
曾祖父も父も死んだ後、私は東京国立博物館に置いてある「宝物」をどうしたら良いのか分からなかった。社会へ出る前に、多少なりとも知識がある大人と話をしてみたかっただけなのだ。ところが、大岡昇平と司馬遼太郎は、私が身体だけ成長した田舎の高校生なので、「都会の金持ちを見れば、やらせる」と期待して、「はるばる遠方から来てやったのだ」と言った。


数日後、大岡昇平と出版社で働いているという男が、覚醒剤の注射器を持って、私の家へ押し入って来た。田舎の一戸建てだったので、少々騒いだとしても近所には知られないと思ったらしい、大岡もまた私に抱きついてきて、顔を舐めた。互いに胸ぐらを掴み合ったまま、私のほうが上になって押し倒し、一発、殴ってやった。すると、もう一人の出版社の男に、注射器で脚を刺された。
幸運にも、二人の男はすでに外に停めた車の中で麻薬を打ったらしく、かなり腑抜けた様子だったので、私は大岡を力一杯突き飛ばし、出版社の男を蹴って、交番へ走った。

 

 

 

 

 

楽観

 防衛庁「戦争になったら、米国が助けてくれる」

 警察庁「戦争になったら、逃げる。・・・当たり前だ」

 

 

 

 

天国

そんなに女や子供を虐待していると、いつか女が子供を産まなくなっちゃうよ。そうしたら、日本の人口が少なくなって、最後は日本が無くなってしまう・・・私がそう言うと、皇宮護衛官が「産まなければ、産ませてやる」と意気込んだ。「天国を作ってやるぞ! どうだ」

 

いま、日本は天国になった。ついこの間まで、児童手当を支給されている中学生でも同意があればセックスができた。セックスをしてみなければ、結婚すべきかどうか判断ができないからだ(そうだ)。皇宮護衛官は言葉を続ける、「女は15歳で成熟する。メンスが始まった女は男が来るのを待っているのだ。子供を産めない女は駄目だ、女じゃない。男が来たら、(子供が? セックスが?)できるように準備していなければいけない。云々」 ・・・猿か?

 

 

 

 

 

 


付記1a: サッカー試合

2024年03月02日 | 歴史
 
或る時、テレビを見ていたら、高円宮憲仁がサッカー試合に出ていた。
私と歳が幾つも違わないはずだが、二十代の若者に混じってゲームに興じる男の、異常に盛り上がった筋肉が印象的だった。
 
 
けれども、私の予想どおり、憲仁は長時間の疾走が難儀らしく、試合の途中で残念そうにベンチへ引き返して来た。そして、しばらくの間、落ち着かない様子で観戦していたが、試合が中盤に入って来ると、居ても立ってもおられないといった風に背後にいる男を振り向いて、「あれを出せ」と言った。
憲仁は前屈みになって、手に持った「何か」を脛の辺りに刺したように見えた。それから、勢い良くコートへ飛び出して行った。
 
 
驚いたことに、数ヵ月後、憲仁は心不全で死んだ。
筋肉増強剤の使い過ぎか、それとも持病のせいか、原因ははっきりしない。
 
 
 
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一度だけだが、私は憲仁からスカッシュに誘われて、カナダ大使館の球戯場へ行ったことがある。あまり巧く球を打ち返せない私を見ると、憲仁は、まるで靴でも履き替えるように「これを使うといいよ」と言って、いきなり私の脛に注射針を刺した。スポーツ選手がよく使う興奮剤の一種だ。途端に立っていられないほどの目眩がして、傍にいた大使館員に助けを求めたのだが、すると、事もあろうか、憲仁はいつも護身用に携帯している小型銃を取り出して、私の足下を狙って発砲したのだ。
 

憲仁が麻薬を常用していることは疑いなかったが、相手を威嚇するために反射的に発砲する行為もまた、習癖になっていたのだろう。彼は使った注射器を私に投げ付けて、一緒に来ていた宮内庁職員とともに逃げて行った。たぶん、私のほうがその注射器を使用したので自分は防衛したのだ、と後で説明するつもりなのだろう。数十人ものカナダ大使館員が目撃する中での出来事だった。