【阿多羅しい古事記/熊棲む地なり】

皇居の奥の、一般には知らされていない真実のあれこれ・・・/荒木田神家に祀られし姫神尊の祭祀継承者

付記6e: 畜生が群れる場所

2024年03月01日 | 歴史

 

皇居での最初の「虐待」は、結核を患っていた皇太子明仁がその病気を三歳の私にうつそうとして、素手で生の貝か何かを摘まんで、無理矢理、私の口に押し込んだのを、私が吐き出した時に始まる。

 

「この子が食べないんだ。食べさせて」と明仁は侍従に命じた。
侍従はテーブルの上に落ちている物を拾って、一旦は私の口に戻したが、再び私が吐き出すと、今度はそれまで部屋の隅で控えていた武官が駆け寄って来て、私の喉に麻酔の注射器を突き刺した。そして、武官は、薬剤によって弛緩した私の口から胃へ、水道用のゴム・ホースを突き通し、さらに、そのホースの先端から麻酔薬を垂らし込んだ。私が「お腹が痛いから食べたくない」と言ったからである。

 

私には意識があって、自分の口からゴム・ホースの先端が十センチほど突き出ているのが見えた。焦点が合わず、ぼやけた三角形を作っている鼻の向こう側に、煙突のように直立した奇妙な物体と、そのまた前方で嗤っている武官の顔が見えた。この時、私の目から涙がつたって落ちたが、それは痛みではなく、悲しみでもなく、ただ自分を虐待する見知らぬ男に、今、この手で掴み掛かって殺すことができない故の「憤怒」であった。私に唯一できるのは、その男の顔を生涯忘れないことだった。

 

天皇裕仁の悪行の一つは、ペン型の護身用銃で子供の私を標的にして試射した上、その銃声を聞き付けて部屋へ駈け込んで来た護衛官を撃ち殺したことだったが、二つめは、福岡県吉武高木遺跡で発掘作業をしていた博物館員らを毒ガスで襲って、斉王の印璽や王冠を強奪したことである。
九州から戻って来ると、裕仁が私を会食に招いていると侍従から聞かされた。皇居の奥まった小部屋に通されて、裕仁から直々に「砒素が盛られた食事」を勧められた。しかし、頑として食べようとしない私の喉に、裕仁の武官が麻酔の注射器を突き刺して、両手で口をこじ開けると、そこへ砒素を包んだ小さな饅頭のような物を押し込んだ。薬剤で麻痺した食道が徐々に緩んで行き、そこを饅頭が通って行く様は「まるで女のアレのようだ」と武官は嗤い、一塊が私の細い喉を落ちて行った。

 

私の胃の腑にはその一塊しか落ちなかったはずなのに、胃液まで吐いても、まだ何かを吐かねばならなかった。汚物をあたりに撒き散らしながら、床に倒れ込む私を、武官が頭蓋を掴んで立たせ、両手で顎の関節を一杯に開けた。そして、椀状になった口腔に丁度すっぽり収まる大きさの、メリケン粉を丸めたような物を詰め込んだ。「これで上の口が塞がったので、今度は下から出るかも知れない」と武官は嗤って、それから私の尻に下剤を注射した。数分も経たず、腹に激痛が走り、糞が漏れた。しばらく意識が遠のいたが、そのうち片腕を取られて起立させられ、ズボンに糞が付いたままの格好で写真を撮られた。

 

その後、宮内庁の診療所へ連れて行かれた。(但し、本当の医者だったのかどうか判らないが)ここでもまた私は喉に注射をされ、明仁の武官にやられた物よりずっと太いゴム・ホースを口から挿入された。一般に使用されている水道ホースである。その先には、蛇口があった。 
男が蛇口の栓を緩めると、シューという水流の音がかすかに聞こえ、すぐに真水が私の胃袋を満杯にさせた。間を置かず、ホースを咥えている唇の隙間や、鼻の穴や、尻の穴から、水が漏れ出て来た。鼓膜が破れそうな激痛が私の頭を砕き、悲鳴が出そうになった。しかし、それは焼けた棒を喉に差し込まれた時のように、内側の肉が収縮して、ホースに巻き付いただけだった。
「水は自分で止めろ」と、男の声が聞こえた。麻酔が切れてしまわないうちに、自分でホースを口から引き抜く時、喉の薄い粘膜が破れて、私は血を吐いた。

 

 

 

***********************************************
 
 
 
 
次に裕仁に会ったのは、父が殺されて、鷹司平通が女と一緒に死んで、曾祖父と祖父が立て続けに死んでいった後の、私が十一歳の時である。
「女になったか?」と、宮内庁々舎の裏口に現れた侍従らしい黒服の男に訊かれた。当然のことだが、私は他の子供に比べて著しく成長が遅く、まだ初潮も無いばかりか、男女の性交の方法さえ知らなかった。それを察した男は、私の母が未亡人なので、その子供は男女の性交を見たことが無いのだと卑猥なことを言った。私は内心、この蛆虫どもを自分の手で殺せるくらい早く大人になりたいと思ったが、黙っていた。「大人になる」という表現が、自分にとって危険であることに気づいたのだ。

 

この男に睡眠薬を注射されて、一気に意識が失せた。目が覚めた時は後宮の布団の上で、下半身の服を脱がされていた。いつも腹を締め付けているパンツのゴムの感触が無くなって、変に開放された心持が私を不安にさせたが、それよりも何よりも、両足を開いた股の間に白髪の頭が二つ、覗き込んでいたのに驚いた。一人は侍医という宮内庁お抱えの医者で、この年寄りが私の性器を指で押し拡げながら、傍にいる裕仁に何か説明をしていた。裕仁は鼻で嗤って、子供の性器を見ても別段面白くもない、という意味のことを言った。すると、医者が応えた、「もう少しお待ちくだされば、良くなります。遅くとも一年以内には初潮があって、間もなく女になりましょう」

 

暗くなってから、帰りの公用車に乗せられる時、そこが皇居の森であるという現実に、私は少なからず恐怖を感じた。
出口近くに護衛官が立っていたが、私は助けを求めなかった。
 
 
 
 
 
 
***********************************************
 
 
 
 
 
<子供の証言・その1>

裕仁は、自身の片手で男性器を持ち上げて、もう片方の手で勃起薬を注射しました。それから、膨らんだ男性器を私の股間に押し付けてきたわけですが、その時、私は次のように叫びました。「父を殺した男に犯されるのか!」
しかし、色欲で脳を腐らせた裕仁は勘違いをして、「何だ、乳か? 乳がいいのか?」と私の乳房を探ってきました。初潮があってから、まだ半年も経っていない頃です。裕仁がなかなか乳房を探し出せないでいると、傍から侍従が手を伸ばして、私の胸板を痛いほど擦りながら「ここです。ここでございます」と教えていました。
 
 
 
 
   
<子供の証言・その2>

事後、服を着る時、武官が私の下履きに麻酔薬を垂らして、「それを穿け」と言いました。先ほど下腹部に打たれた麻酔が切れて来ると、我慢できないほど痛いから、家に帰った後もしばらくそれを穿いていろ、と言うのです。
帰宅した後、一人になってから、そうっと下着を脱いで見ると、血液と薬剤が混ざった薄茶色の大きな染みが、白い木綿の下履きの股から尻の部分に拡がっていました。これがこの国の「日の丸」なのだ、と叫びたかったけれども、乱暴された後では大して声も出ませんでした。
 
 
 
 

<子供の証言・その3>

一年後、私はまた皇居へ拉致されましたが、裕仁はもう注射をしても少女と性交できるほどには勃起しませんでした。それで、腹を立てて、私を護衛官の一人に下賜したのです。

裕仁と同様に、弛緩薬を使って私を強姦したその男は、後で「責任を取って(私と)結婚する」と言い出しました。私はこのような「男の事後処理」を思い出すたびに吐き気をもよおします。これは、性的虐待を受けた被害者がその後の人生をずっと加害者と性行為をして暮らすということです。私は、その男に首でも吊って死んで欲しいのです。男の肉塊が天井からぶら下がって、小便や糞を垂れ流しながら腐って行くのを見るほうが、ずっと胸がすくのです。

そんな私の悲鳴は完全に無視されました。男は嫌がる私の手に、大きな真鍮の指輪をはめたのです。まるで家畜に付ける鼻輪のようでした。私はそれを指から引き抜いて、投げ捨てました。すると、男は一層強い睡眠薬を私に注射して、意識が失せた間にそれを私の膣の奥に埋め込みました。帰宅してから、自分の体の中に異物が入っていることに気づき、四苦八苦の末、どうにか取り出しました。

それから五、六年が経った頃・・・私はその「真鍮の指輪」を、母のささやかな宝石箱の中に発見したのです。