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D1 彰子と息子たち、紫式部、人々のその後

(参考図書が変わったので、今までの内容と一部重複することをご容赦ください)

  一条天皇の死から二年後の1013年。例の御意見番、時に五十七歳の実資は日記にこう記した。

  昨夜、実資の養子を密かに皇太后彰子様のもとに遣わし、東宮敦成(あつひら 彰子の第一子)様が御病気なのに休暇中でお見舞いできなかったとの旨、挨拶させた。養子は今朝方帰って報告した。
 「夕べ彰子様のところで逢った女房ですが」
現越後の守藤原為時の娘(紫式部)だ。私は前々からもこの女房を彰子様への諸事伝言係にしてきた。
 「彼女が言うには『東宮の御病気は重くはありませんが、まだ完全にご回復ではございません、少しお熱がおありです。それから道長様もすこしだけ具合が悪くていらっしゃいます』ということです」

  紫式部は彰子に仕え続けていた。道長に対してさえも辛口な実資の信頼を得、彼から彰子へのたびたびの、また秘密の言上なども受け付ける、最前線の実務女房として生きていた。
  紫式部は一条期末期に『源氏物語』を宇治十帖まで書き終え、なすべきことをすべてなした虚脱感の中で、仏道に惹かれていったと想像されている。それでもすぐに宮廷を去らなかったのは、彰子への愛情と尊敬によるとされる。『源氏物語』の完成時期には諸説があるが、すべて推測の域を出ない。だがその多くの部分は、紫式部が宮廷に出仕し、彰子と出会ってから執筆された可能性が高い。彰子の後援とともに、その人生が紫式部に教示したことも多かっただろう。一条没後の紫式部については「一寡婦としての彰子の生き方の中に、摂関家の女の運命を考え続けたはずである」と想像される。

  晩年の紫式部は宮仕えから身を引き、実家で静かに暮らしていたと思われる。自撰家集『紫式部集』は、そのころ編集されたものと思しい。それは次の二首で終わっている。
― ふればかく憂さのみまさる世を知らで 荒れたる庭に積もる白雪 ―
   生きながらえればこんなにつらさばかりが募る世の中とも知らないで、荒れ果てた我が家の庭に降り立ち、積もる白雪。思えば、人もみな最初はこのように無垢なのだ。

― いづくとも身をやるかたのしらねれば 憂しと見つつも永らふるかな ―
   現実を生きざるを得ない身、どこへ行こうと気の晴れるところなど分からないから、憂いに満ちたものと分かりつつも、こうして生き永らえていることよ。

  「世」そして「身」。誰にとっても憂いばかりの現実と、それを生きる人間とを、紫式部は見つめ続けていた。人は何も知らず生まれ、人生の海に乗り出し、やがてそこにある苦悩と悲哀を知る。だがそれでも、人は生き続けるしかない。初雪が積もる庭を眺めながら、そんな感慨にふけったのだ。彼女が最後に辿り着いた思いは、人生への諦念だったのだろうか。

  続く(清少納言は都にいた)

参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり
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