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D3 彰子と息子たち、彰子は女院「上東門院」に

  彰子のその後

  彰子はどうしていただろう。彼女は平安時代には珍しい、実に八十七歳という長寿を生ききった。一条が死んだときはまだ二十四歳。名実ともに、その人生の本番は一条が死んでから始まったと言っても過言ではない。
  実は、彼女は見違えるような変貌を遂げた。権力の中枢に座し、女院「上東門院」として世に君臨するに至るのだ。『紫式部日記』が記していた臆病な彰子、女房に指図一つできない彰子は、後年の彼女からは考えられない。だがその人生の原点は一条との十二年の生活にあった。彰子が変化し、それをはっきりと世の中への行動に示すようになったのは、一条の死後二年近く経った頃からのことだった。

  一条は生前何度も贅沢禁止令を出し、道長も当時はそれに従っていた。だが三条の時代になるや、道長は天皇に非協力の態度をとり、あからさまに贅沢を行った。そのため世の雰囲気は一気に派手になった。それに拍車をかけたのが、彰子の妹姸子の贅沢好きだった。姸子の主催する宴会はこの正月以来の二カ月間に限っても、既に四度になる。招かれたほうも空手では行けず、貴族たちはそのつど料理や菓子を持参した。特に「一種物(いっすもの)」という客に酒肴を持ち寄らせる宴会は、貴族の負担はさらに重かった。彰子はそうした貴族たちの心に配慮し、自らの邸宅を道長に使わせなかった。

  ここで大切なのは、彰子が饗宴自体を嫌ったわけではないということだ。別の機会には、自ら豪華な宴を催し貴族たちを招くこともしている。服藤早苗氏が「貴族を招き政治的結集を謀る饗宴そのものを彰子はむしろ積極的に活用した」とされるのは慧眼である。彰子は貴族たちに負担となる宴会はやめ、そうでない宴会は開いて、人心を掌握したのだ。
  貴族たちに対して彰子がとったのは、自ら貴族たちのつぶやきに耳を澄まし、貴族たちの不満を解消し、貴族たちと協調しようとする姿勢である。これは一条の方法だった。彰子の原点に一条との十二年があると考えられる。

続く(国の権威としての生き方と心情)

参考 山本淳子著 源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり
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