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B15 紫式部日記 一条天皇の長男(母親は故定子)の後ろ盾、伊周(これちか)死亡

  1009年十一月二十五日、中宮彰子は第二子の親王をお産みになりました。前年に引く続いてのご出産、しかもこの度も男子とのことで、道長の周辺は喜びに沸きました。先の親王の際に紫式部が仰せつかった生誕記録は、もうとうに書き整えて道長に献上していましたが、紫式部はとりあえずこの度も、こまごましたことを取材し書き留めました。
  第二子親王の誕生五十日の儀が、内裏が変わって琵琶院で賑々しく行われたのは、年が明けて正月十五日のことでした。そしてそれからほどない二十八日、藤原伊周(37歳)が亡くなりました。故定子の兄伊周の死によって、一条天皇の後継問題は大きく動きました。定子が遺された長男は、大切な後ろ盾を失いました。
  中宮彰子の第一子の東宮擁立を邪魔立てするものは消えました。道長はやがて動き出すでしょう。機が熟しつつあることは、一女房の紫式部にすら身に迫って感じ取れました。ならば紫式部たちも、覚悟しなくてはなりません。

  1010年夏、紫式部は筆を執りました。先に中宮彰子第一子生誕の記として記しました『紫式部日記』に、新たな書き加えをしなくてならない。そう強く感じたからです。とはいえ、御生誕の記はもう献上してしまっています。今度の新しい『紫式部日記』は、道長や中宮彰子に捧げるものとして書くのではなく、紫式部が自分の意志で書くものです。内容は「女房とは何か」。誰かにこれを訴えずにいられない。
  中宮彰子の御子が次期皇太子となるか、それとも兄弟順を尊重して、故定子の御子がその地位に就くか。主家が正念場にある今、紫式部たち女房も万全の態勢で中宮彰子を持ち上げなくてはなりません。ですが紫式部の見たところ、中宮彰子付き女房たちは必ずしもその自覚をもって行動している訳ではありませんでした。
  中宮彰子はすべて承知の上で、もう少し女房たちに動いてほしいと思われ、時にはそれを口に出しておっしゃりもするほどに成長しています。一条天皇の随一の后である自覚を持ち、この女房集団こそが文化の面でも品位の面でも都の女房集団を領導しなくてはならないとお考えなのです。ですが、残念なことに紫式部たちへの世評は低いのです。それを何とかしなくてはならないというのが中宮彰子の思いであるのでしたら、紫式部たちは率先して変わらなくてはなりません。それができないとは、なんと歯がゆい同僚たちでしょう。公卿や殿上人たちが何といっているか、みな知っているのでしょうか。

― ただごとをも聞き寄せ、うち言ひ、もしはおかしきことをも言ひかけられていらへ恥なからずすべき人なむ。世に難くなりにたるをぞ、人々は言ひ侍るめる。みづからえ見侍らぬことなれば、え知らずかし。―
[現代語訳
 どなた様も、「ただの会話を小耳に挟んでも気の利いた言葉で返したり、風流を挑まれてしっかり風流な答えができたりという女房は、実に少なくなったものよ」と言っているようでございますわね。まあ、わたくし(紫式部)は昔のことを見ておりませんから、そんなこと本当かどうか存じませんけれど。]

  有能な女房が少なくなったとは、昔はもっといたということです。どこにいたのでしょうか。答えは一つ、それは故定子の後宮です。皆はまだ、清少納言を始めとしたあの後宮の女房たちを忘れていないのです。

参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り
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