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解説-11.「紫式部日記」日記の見据える「今」

解説-11.「紫式部日記」日記の見据える「今」

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

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日記の見据える「今」

  なお、この日記にはこの年彰子が晴れて敦平(あつひら)親王を産んだこと、翌年には第二子敦良(あつなが)親王が産まれたことが記されている。日記が執筆されたのは、寛弘七(1010)年の夏から秋の頃と考えられている。

  この時期は、一条天皇の後継者となるべき時期東宮の座が問われ始めた頃であった。正月に第一皇子敦康(故定子の皇子)の伯父である伊周が亡くなり、敦康がその有力な喪ったからである。また道長は、外祖父摂政となるためには、篤成を幼年の間に即位させなくてはならなかった。

  だがそれには一条天皇の譲位、現東宮居貞(いやさだ)親王(三条天皇)の即位と治世、そして譲位という手続きを要する。一条天皇には早く退位してもらい、その際には敦康ではなく篤成を東宮と決め、三条帝の世は短期で切り上げる。道長がそれを望んでいることは、貴族社会にいる者ならば誰もが読める状態だった。

  史実としては、この日記が執筆された寛弘七年の翌年、寛弘八(1011)年の一条天皇崩御によって、事態はすべて道長の目論見どおりに動くことになる。天皇は後継に敦康を望んだが、藤原行成に説得されて折れ、三十二歳の生涯を終えた。

  三条天皇の時代は五年で終わり、晴れて道長は、孫の篤成、即位して後一条天皇の外祖父摂政となる。だがその事実を、この日記は知らない。もちろん、道長が彰子に次いで娘の妍子(けんし)・威子(いし)を中宮に立て「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば(「小右記」寛仁二年十月十六日)」と詠んだことも知らない。

  「栄華物語」は結果を見届けた目で記されているが、「紫式部日記」は現在進行形の歴史を見つめている。それも道長が王手を決める直前の、緊張に満ちた状態において執筆がなされている。そこから察しても、「紫式部日記」は高い政治性を持つ作品であるといえよう。

つづく
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