
解説-10.「紫式部日記」寛弘五年秋以前
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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寛弘五年秋以前
彰子には出産を待つ日々が訪れた。以後の動向に関しては貴族らの日記に加え、「御産部類記」:「後一条天皇」が数種類の記録を収集し、詳しく書きとどめる。彰子の懐妊はしばらく伏せられたが、四月十三日には懐妊五カ月で里下がりとなり、世の知るところとなった。
彰子を迎えた土御門殿では、恒例の法華(ほっけ)三十講を例年よりことのほか盛大に催行した。ところがその直後の五月二十五日、正月来病気にかかっていた一条天皇の二女、媄子(びし)が亡くなった。定子が命と引き換えに遺して逝ったわずか九歳の娘の死に、一条天皇は激しい衝撃を受けた。翌月十四日に彰子が懐妊七カ月を押して再び内裏に還ったのは、天皇の傷心を慮った道長が勧めたことと考えられている。
彰子は一カ月余り内裏に滞在し、七月十六日に土御門殿に戻った。既に懐妊八カ月、季節は秋に入り、邸宅の自然は出産の季節の到来を囁いていた。
「紫式部日記」冒頭「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし」は、こうして幕を開ける。
以上記したことは、同時代の貴族社会が共有した、ごく普通の記憶である。公卿・殿上人層・その家族はもちろん、下級官人層に至るまで、道長の道程についても、その陰で悲劇的な人生を閉じた故定子についても、知らない者などいなかったろう。紫式部はこれら一条朝の歴史を受けて、しかしおそらくその画期となるに違いない、彰子の男子出産に立ち会い、それを記憶しているのである。
つづく
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