1008年春、中宮彰子は懐妊された。999年十一月の入内から丸八年余を経て、初めての懐妊です。道長はもちろん大喜びです。
中宮彰子は入内のとき十二歳と幼いうえ、一条天皇には愛する定子がいらっしゃって、立て続けに皇子をお産みになっていました。定子は一条天皇より三歳年上、中宮彰子は八歳年下です。当時の中宮彰子は妻というより子供という存在だったのでしょう。でも、入内の一年後に定子が亡くなられてから一条天皇の寵愛を受けた御匣殿、定子の末の妹君は、中宮彰子とはたった二、三歳の違いしかありません。御匣殿は、不憫にも懐妊中の身で亡くなった時、十七、八歳でした。しかし中宮彰子はその年頃になっても懐妊の気配がなく、一条天皇にはむしろ別の女御の方に思いをかけておられるとの噂もありました。紫式部が出仕したのはちょうどその頃、中宮彰子十八歳の年末でした。
道長は、こうした事態を見るに見かねたのでしょう、明らかな行動に出ました。中宮彰子が二十歳の1007年八月、大掛かりな「御嶽詣(みたけもうで)」挙行した。金峰山に登頂した翌十一日朝、道長が湯浴みして最初に参拝したのは、山上の「子守三所」でした。この参詣の目的が中宮彰子の子宝祈願であることを、はっきりと示したのです。
しかし一条天皇は、このまま中宮彰子との間に男子がなければ、一条天皇の唯一の男子敦康が帝位になるだろう。それこそが一条天皇の望みでした。一条天皇は何もしないことによって、事態をずるずると自分の望む方向に持って行こうとされていたのです。ところが道長はそれに、御嶽詣という行動でもって、否を唱えました。一条天皇は摂関を置かない親政を敷いておられるが、公卿中の最高権力者である道長との関係が悪化すれば、まつりごとに悪い影響が出ることは明らかです。なにがしか道長の願いを聞かない訳にはいかない。そうして一条天皇は、中宮彰子の懐妊へと事を進められたようです。
その頃、紫式部の耳に嫌な噂が入って来ました。以前からなぜか紫式部を目の敵にしていた女房が紫式部に「日本紀の御局(にほんぎのみつぼね)」なるあだ名を付けて言いふらしているというのです。迷惑この上ないことです。
発端は一条天皇の言葉でした。畏れ多くも一条天皇が『源氏の物語』を読み、感想を口にされたのです。
[詳細]
一条天皇が『源氏の物語』を女房に朗読させ聞きながら、
「この作者は公に日本書紀を講義なさらなくてはならないな。いや実に漢文の素養があるようだ」
そうおっしゃったところ、なぜか紫式部を目の敵にしていた女房がそれを鵜吞みにして、「紫式部ときたら、たいそう漢学素養があるそうよ」と殿上人たちに言いふらし、紫式部に「日本書紀講師の女房様」などというあだ名をつけたようです。
一条天皇が紫式部の素養に驚かれて冗談を口にされたのを、傍にいて聞いていたのでしょう。もちろん講師云々は戯言です。紫式部に敬語まで使われたのだから、たぶん笑いながら口にされたのだと思います。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り