見出し画像

gooブログのテーマ探し!

前半 色好み平中という男

元良親王よりずっと庶民に近い色好みの平中
  馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集

*******

前半 色好み平中という男

  平中(へいちゅう)という色好みを知らない人なかった。あまりに広く語り伝えられるうち、虚実はまじりあって語り手たちに身近な人物像が作り上げられていった。

  元良親王の色好みが上流階級の豪奢で放恣(ほうし:わがままでしまりのない)な華やぎをもっていたのに比べると、平中はずっと庶民に近い。恋を求める切実さにちがいはないが、その対象とされた女たちも闊達で、平中はしばしば失態を演じ、あまり恰好よいことばかりではない。それがまた人気となって、今日に「平中物語」が残されている。

  ほぼ在原業平と同時代の人で、業平が中将であったところから「在中将」とか「在中」と呼ばれたのに併称され「在中・平中」と双璧の色好みとされている。
  しかし、平中、すなわち平貞文(たいらのさだぶん:定文とも)は中将ではなかった。「十訓抄」の一ノ二十九話には、父平好風(よしかぜ)の子息三人のうち中の子であったからだという。また、父が左近衛中将であったからという説もある。現実には貞文の官はすすまず、従五位上、佐兵衛佐(すけ)に終わった。

 元良親王の色好みは、むしろ先人としての業平や貞文の色好みとしての青春を意識におきつつ、より有利な立場から実践してみせたといえるものだ。
  貞文も血筋のよい家に生まれている。桓武天皇の孫、茂世王(しげよおう)を祖父とするが、父とともに「平」姓を賜った。業平もまた平城天皇の孫であり、母は桓武天皇の皇女伊都(いと)内親王であるから、業平も貞文も気脈の通じ合える放恣な生き方をしたことになる。

  家筋は貴族社会に適応しているのに前途がないという悲哀を負っている点では、より高貴の身に生まれた元良親王も同じであった。
  平中と業平、そして元良親王の人生を歳月でみると平中は貞観十六年「平」姓を賜ってから延長元年(874-923)、業平は天長二年から元慶四年(825-880)、元良親王は遅れて寛平二年から天慶六年(890-943)ということになる。

  いわば、平中・業平時代に藤原氏は摂関政治の基礎を固め、元良親王の頃にはもはや動かぬ体制が完備していたといえるだろう。こうした時代に、人生へのある断念を負った色好みは人々の記憶に残る歌とともにあってはじめて成立するものだ。「平中物語」はその冒頭にすでに失恋と失脚のにがい青春の話を据えて、はかばかしい人生が得られそうもない一人の男の人物像を浮かび上がらせている。

  一人の女を二人の男が争う。良くある話だが、まず先に女に言い寄った男は時の帝宇多院の側近くお仕えするもので官職も上であった。そののち女に言い寄った男は帝宇多院の母后の兄上に当たられる茂世王(しげよおう)を祖父にもつという血筋ではあったが官職は下であった。
  ところで、女はというと、官職は低かったがのちの男に靡いたのである。はじめの男は口惜しがって、のちの男を悪しざまに帝に中傷する。そのせいもあってか、男もしだいに宮仕えがいやになり、お勤めを怠っていたので、帝はついに男の官職を取り上げてしまった。

  平中と思しきこの男は、「いっそ出家してしまうか」とも思うのだが、父母は「とんでもない」といって許してはくれない。それでは「東の方に旅したい」と言うと、「ともかく正月の任官の発表を待って」ということで、その日を待ったが何の音沙汰もなかった。こんな時、やはり慰めてくれるのは女であった。

後半 色好み平中という男 につづく

参考 馬場あき子氏著作
 「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「色好みの代表 平中-平貞文」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事