勝 海舟 像
静岡県島田市 宝来町 蓬莱橋前
明治維新の原動力となり、時代を颯爽と駆けた坂本龍馬。
その坂本龍馬が姉 乙女への手紙に~日本第一の人物と書き送るほど心酔して弟子となり、西郷隆盛に至っては、ひどく惚れ申し候、どれだけ智略があるかわからぬ塩梅(あんばい)と評し、やがて西郷が江戸総攻撃の東征軍最高指揮官として幕府の代表として会見、江戸無血開城をもって江戸百万の町と民を戦火から守ったのが幕臣 勝 海舟です。
徳川最後の将軍 徳川慶喜が徳川幕府 260年の後始末を託した勝 海舟は、1823年3月12日、文政6年1月30日、江戸の貧乏旗本家 勝 小吉の長男として生まれました。
勝は剣の師である島田虎之助の勧めで学問にも
精を出し、蘭学や西洋兵学を習得し、まもなくアメリカのペリー艦隊が来航します。
ペリーの開国の要求に幕府の老中首座・阿部正弘は、海防に関する意見を身分を問わず広く公募したところ、勝が提出した海防意見書が幕府の海防掛だった大久保一翁の目に留まりました。
勝の意見書の内容は、開国し、外国との貿易を盛んにして利益を上げ、それに強力な海軍を作り国を守るというもので、鎖国という幕府の古い慣習ともいうべきやり方では、日本を守れないと考え、日本人の目は外へ向けるべきと訴えるものでした。
勝は異国応接掛~通訳者の役付となり、1858年
(安政5年)、長崎海軍伝習所に入門、さらに1860年 万延元
年に日本初の海外視察団である遣米使節として
咸臨丸で太平洋を横断しアメリカを視察。
ペリー来航以来、日本は外敵を排除する攘夷思想が主流となり国論も右往左往する有り様でした。
海外の技術力と軍事力を目の当たりにした勝は鎖国では日本を守れないと痛感して帰国し、幕府の軍艦奉行となり、海軍創設へ邁進します。
勝の幕府の枠にとらわれない日本の将来を見据えた考えは坂本龍馬や西郷隆盛ら、後に明治維新の原動力となる志士達にも多大な影響を与えました。