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日本歴史紀行

歴史 今日の出来事 6月4日 明治12年 6月4日 東京招魂社 靖国神社へと改称


靖国神社 大拝殿


靖国神社 大鳥居



〜靖国神社の前身 東京招魂社〜




江戸時代末期の1853年 嘉永6年
ペリー来航が引き金となり、外国人排斥と外敵の排除を掲げて尊王攘夷運動が始まり、これらの動きはやがて江戸幕府打倒へと変節し、薩摩、長洲の西国外様諸藩出身の志士らが中心となり、倒幕運動を起こし、やがて戊辰戦争が勃発します。


この倒幕を目的とした戦争は、江戸幕府開府時における関ヶ原の戦い、大坂の陣といった美濃地方、大坂といった局所の武士、大名同士の戦いとは違い、尊王攘夷運動は主に京都、戊辰戦争に至っては、これらが発端となったといえる京都、江戸、中国、さらに会津藩のある東北、長岡のある北陸地方の越後、さらに戊辰戦争最後の戦い 箱館戦争の起きた蝦夷地(北海道)と全国に拡大し、犠牲者は武士に限らず、農工商といった庶民にも多数の犠牲を強いました。


この様な犠牲の上に成し遂げられた明治維新、とりわけ幕府を倒した西国諸藩の多くから、戦争で亡くなった人々を祀る鎮魂社を創建してはどうかと話が持ち上がり、京都に京都霊山護国神社が創建されました。


やがて西国諸藩を中心に明治新政府が拠点を東京に移されると、東京に新たな鎮魂社を創建しようと、東京 九段が選ばれました。


この動きは、上野戦争で幕府彰義隊を壊滅させた大村益次郎が中心になり明治新政府主導の立場をとって進め、明治天皇に奏上します。


そして1869年 明治2年 6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社(東京しょうこんしゃ)が創建となりました。


1874年 明治7年 1月27日、明治天皇が初めて招魂社しょうこんしゃに御親拝の折にお詠みになられた

~我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき~

の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建されます。


1869年 明治2年、5月18日、箱館戦争において、蝦夷共和国(旧幕府軍)総帥の榎本武揚が新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終結しました。

明治2年 6月12日、新政府の軍務副知事 大村益次郎は、戊辰戦争戦没者慰霊の地として東京招魂社の創建候補地を東京都 九段坂の幕府軍砲兵屯舎跡に決めます。

大村は一週間も待たず東京府から跡地を受領し、直ちに起工式を執り行い、仮本殿と拝殿の造営を命じます。

6月29日、形ばかりの拝殿と仮本殿の造営が成り、東京招魂社の鎮座が行われ、招魂祭が執り行われ、ここに東京招魂社が創建されました。

【11月に招魂社の創建に深く関わった大村益次郎が暗殺されるも、本殿は引き続き造営され、3年後に竣工します】

さらに新政府から一万石分の寄付米を毎年受領される決定がなされ、破格の待遇を得ます。





1869年 明治2年6月29日、東京招魂社の仮本殿と拝殿の竣工をもって招魂社鎮座となり、第一回の招魂社祭が行われ、本殿と拝殿は引き続き造営が進められることとなりました。


招魂社鎮座に奔走した大村益次郎は、半年足らず後に京都で暗殺されます。



第二次長州征討では、最新兵器と西洋兵学をもって長州藩を勝利に導き、戊辰戦争でも才覚を発揮した大村ですが、刺客達には旧時代の代物となる太刀で襲われ、右膝の傷が致命傷となり、敗血症を併発して亡くなりました。







靖国神社創建へ

創建から3年を迎える1872年 明治5年 5月7日、明治2年より造営を続けていた東京招魂社は本殿が竣工し、戊辰戦争戦没者を慰霊する地として定めましたが、世情は新政府の権力闘争と同じく不穏な空気が続きます。

1874年 明治7年 1月27日、明治天皇が東京招魂社を親拝し、~我国の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき~と散っていった英霊を詠まれました。


英霊とはいえ、戦火に倒れた一般国民を祭神とする招魂社への天皇親拝は、大きな驚きをもって国民はとらえました。


しかし、明治天皇の親拝から間もなく、明治政府の参議を辞職した江藤新平が故郷の佐賀へ帰郷し、明治7年2月、佐賀の乱が勃発します。


乱は間はひと月余りで鎮圧されるも10月になり、熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、さらに明治政府元参議の前原一誠がこれらの乱に同調する様に故郷、萩で決起し、萩の乱が勃発。

明治維新の原動力ともなった長州藩の吉田松陰の松下村塾で学んだ前原一誠の決起に世間に与えた影響は大きなものでした。


これらの乱は、西国諸藩から立身出世した者達が同じ西国諸藩の不平士族と結託して反乱を相次いで起こしたもので、明治維新を成し遂げ、武士の時代を終わらせたものの、華族となって体面を保った旧大名とは違い、明治政府主導の政策と反りが会わず、職を辞して故郷に帰り、禄を失い、廃刀令など、武士の魂ともいえる刀を取り上げる政策は彼等の憤怒を爆発させる格好となり、やがて士族最大の戦い 西南戦争を誘発することとなります。


洋の文化、技術を積極的に取り入れ、近代化を目指し、武士の生業ともいえた禄と刀を奪う政策~廃刀令と秩禄処分~は、鎌倉時代から続いた武士は武力により農民と土地を守り、年貢として収穫物を徴収する手法は、士族の土地所有権の否定と武士の誇りともいえる刀を国家の命により取り上げられる廃刀令の政策は、徴兵令の名目で行われ、士族の猛反発を生みました。


明治9年、熊本~神風連の乱、福岡~秋月の乱、長州~萩の乱と、中国、九州で立て続けに士族の反乱が勃発する事態となり、明治政府は迅速に鎮圧し、首謀者に関しては斬首刑と、厳しい処断で挑みました。


そして明治10年 2月、数々の軋轢から政府 参議の職を辞して下野、故郷の薩摩に帰郷していた明治維新の功労者、西郷隆盛が薩摩の不平士族に担がれる形で決起し、西南戦争が勃発します。


明治10年9月24日、西郷はじめ、西郷軍幹部の大半は戦死または自害、討伐した政府軍も約6400名の戦死者を出して西南戦争は終結しました。


明治維新から10年、招魂社に合祀された柱は一万を超え、もはや常設鎮座された神社であるのに招魂社という名称は相応しいものなのか。という意見か起こり、国民の声からも相応しい名称を探求する声が出始めます。


明治12年、6月4日 明治天皇は思し召しにより、孔子編纂の古典【春秋左氏伝~しゅんじゅうさしでん、】を引用する形で、【吾以靖國也~私が国を安らかにする~の意味】という言葉を用いて 靖国神社と改称されました。


同時に別格官幣社【べっかくかんぺいしゃ~国家のために功労のあった人物を祭神とする制度】に列せられ、以来 数々の戦争により戦死された英霊の御霊を祀る慰霊の地となり、祭神のその数は現在までに248万6千柱となります。





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