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日本歴史紀行

思い出フォト 36 2019年8月


2019年8月の最初の週末は袋井市へ。
源 朝長(源頼朝 次兄)の墓所、積雲院






頼朝松







源 朝長 墓所 積雲院

静岡県袋井市友永


1159年 平治元年
平治の乱を起こすも、政治力と軍勢の動員力で平 清盛に敗れた源 義朝は、長男の義平、次男 朝長、三男 頼朝と僅かな郎党と京から落ち延びました。

途中、三男の頼朝は疲労ではぐれ、
近江の東山道に差し掛かったところで長男 義平が再起をはかって北陸へ向かいます。(義平は清盛の首を狙い京へ入るも失敗して斬首)

次男の朝長は、落武者狩りとの戦いで脚に弓矢を受け負傷してしまいます。

美濃国 青墓の宿に来たところで朝長は、足手まといを嫌い、自害したとも、父 義朝に介錯を願ったともいわれます。

その後、青墓の朝長の墓が平家により暴かれ、京で晒し首になっていたものを朝長の家来の大谷忠太(おおやのちゅうた)が首を持ち帰り、故郷であるこの地に埋葬しました。


左側から源義朝(源頼朝の父)の墓
中央、源義平(源頼朝 長兄)墓
右側、源朝長(源頼朝 次兄)墓





1185年 元暦2年、平家滅亡の後、弟の頼朝が上洛途中に訪れ、菩提寺を建立。名を積雲院としました。










その後、時代の流れの中で荒廃しますが、可睡斎の等膳上人が徳川家康の援助を受けて再興しました。







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コメント一覧

aoikitakaze4390031
@kikokikonoriko19888888 難しい問題ですね。
長き縄文時代には無かった様なことが、臣籍降下の後に武士という者が誕生してからは、時代の変り目には戦いがありましたからね。また、武士の世が終わった明治以降は、西南、日清、日露、第一次、大東亜と内外五つの戦争を陸海軍を作った国軍が国民皆兵を称して戦地に送り、職業軍人も一般人もなく戦争に駆り出されました。本来、日本人は農耕民族として、争いは好まない人種と、ぼくは思いたいですがね。
kikokikonoriko19888888
何故?島国日本の男性は、闘うのでしょうね?
全員が役割の有る、、、「チーム日本」となって
優劣を造らなければ、
戦争の防止になるような気がしますが、、、
歴史の跡は、、両刃の剣のように、
心の奥まで、、日本刀でさしぬかれたような
血も出ない,、痛みで、こみ上げる苦しさも感じますね、、、。
aoikitakaze4390031
@masahito0129 こんにちは
コメントありがとうございます。
武家の頂点に立った頼朝ですが、その過程は苦難と命拾いの数々がありました。
masahito0129
鎌倉に至る前の歴史、全く無知識なので勉強になります。
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