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本と映画とわたしと

感想です。

ベジタリアンではない私が、家畜を考える。

2014-11-21 | 
「豚は月夜に歌う―家畜の感情世界」という本を読んだ。
家畜であるブタ、ニワトリ、ヒツジ、ヤギ、ウシ、アヒルの感情の世界を描いている。

家畜に感情はないと思っている人が多いことが、驚きだった。
私にはどうぶつたちに感情があるのが当たり前だからだ。

人間のように家族を想ったり、生きていることが楽しいと感じたりしないから、
どうぶつたちをどう扱ってもいいというのが、
どうぶつたちを家畜化している人の言い分らしい。

本書は、どうぶつたちも人間と同じように歌ったり遊んだり
楽しむ気持ちをもっているから、
家畜化してはならないと主張している。

私の意見はすこし違う。
感情あるなしに関わらず、
私は生きものを苦しめる行為は、必要最低限にしなければならないと考えている。

食べられるためだけに生まれてきたどうぶつたちは、狭いバリケージに閉じ込められ、
一生、陽の光を浴びることもなく、えさを食べさせられ、成長させられる。
不自然に肥えさせられる。肉になるためだけに苦痛を強いられる。
家畜の住む場所は生きものが生きる場所ではなく、肉製造工場。

命を物として扱っているようなものだ。

大量に肉を製造し、儲けようとする人がいるから、
家畜が増え、苦しむどうぶつたちが増える。
肉を安くたくさん食べようとする人たちがそれを支えている。

どうぶつの権利を考えはじめると、残酷な事実を知らなければならないし、
知れば知るほど買えないもの、食べられないものが増えてくる。

目をそらした方が楽に生活できる。
正直に言うと、私は目をそらしてしまっている。

バタリーケージの卵は食べたくないと思っていても
口にしているのが現実だ。

著者はベジタリアンだが、卵と牛乳がなかなかやめられないと言っている。
どうぶつたちのことを思うのなら、
肉よりも卵牛乳をやめたほうがいいらしいのだが、やめられないと告白している。

どうぶつを食べることは必要なのだろうか、
私には判断がつかない。
だから、ベジタリアンではない。

しかし、
家畜の牛が肉になるまでのテレビドキュメンタリーで、
牛が物扱いされているのを知ってから、
肉を選べなくなった。

殺すことは容認している(食べている)。
自分でも都合よいことを言っているのはわかるが、、
できる範囲でいいのだと思う。

私が肉を食べることに抵抗があると知人にいうと、
「ありがとうとおいしく食べればいい」と、よく返される。

私もそう思う。
問題は殺されたどうぶつたちが「生きてきた」か。

生きることは苦痛ではない。
それぞれのどうぶつの特性に沿って、
生き生きと生きる権利は、
すべてに生きものの権利であると信じている。

この本を読んで強く感じた。




本『自殺』末井昭/死にたくなったら、窓を開ける。

2014-11-07 | 

ラジオで末井昭さんが

「真面目でやさしい人が自殺していくような気がする。
こんなひどい世の中でも生き残っている僕みたいな人間は図々しい奴ではないかみたいな気持ちがある」と、
話されているのを聞き、本書を読みたいと思った。

私は自分が生き残っているのは、やさしくないからだと今まで思ってきた。
やさしい人が自殺をするのかどうわからないけれど、
心のある人は、他人は他人、自分は自分と、割りきれなくて追い詰められてしまうのかもしれない。

私はまだ生き残れているのが不思議な気もする。

本著は、自殺にまつわる自身の体験や自殺未遂をした人や自殺防止に関わる人々の
インタビューをもとにし、「頼むからちょっと死ぬのは待ってくれ」というスタンスで書かれているという。

末井昭さん自身は自殺をしようと思ったことはなく、お母様がダイナマイト自殺をされたことを売りにしていると、自分で笑いにされていたり、本当に正直な方なんだなあと感じる。

観光気分で被災地巡礼の話で、観光気分って堂々と言えることに驚いた。
気を使われながら巡っているとはいえ、不謹慎といわれかねないのに。本当に正直なのだ。

末井昭さんの人生は、借金、ギャンブル、不倫などあって、何度も脱落。
それにくらべると、相当真面目に生きている私なので、読んでいると、肩の力が抜けるようだった。

「笑える自殺の本」にしたかった末井昭さんの思いに沿って私は読んだようである。
というのも私はギャンブルは大嫌いだし、
下品な部分をさらけだされているのも
気分のいいものではないはずなのに、笑えた。
驚くほど素直に書かれているので、きれいごとを言ってないのが、伝わってきた。

私は今まで、自殺について、個々の事情をほとんど考えたことはない。

いじめ、借金、鬱、病気、齢をとり家族に迷惑をかけるからと自殺する人もいる。

私は幸せなことに、死ぬしかない状況に追いつめられなかっただけ。

『ひとりで悩んで、考えても問題は解決しない。
だから、まず「死のうと思っている」と
周囲に言いふらして窓を開けることです』

と、末井昭さんはいう。

そんなこと言われても私は「死にたい」なんて口に出せないだろう。

言えないけど、「死のうと思っている」人がいたら、言ってほしいと私も思う。

「死にたい」と言われたら、私はどう答えるだろうか考えた。

普段、自殺を語る時、よく聞く言葉、
「親が悲しむから死んだらいけない」
「生きたいのに生きられない人がいるのに」
「命を大切にしなくてはいけない」
とは、言えない。
自殺しようとする人にはよくわかっているはず。「希望はあるから」というのも違う気がする。

「大変だね」と話を聞くことしかしてあげられない。
助けられないかもしれない。でもそれが精一杯の気がする。

末井昭さんは、鬱で落ち込んだ時、ブログで日記を書いて、「読んでますよ」と言われて、閉ざされていた心の窓が開かれた感じになり、少し前向きな感じになれたという。

自殺をする人は、ひとりぼっちで、真っ暗な窓のない部屋に閉じこもっていて、もう出られない気持ちになるのではないだろうか。

私も暗い部屋に、入りこんでしまうことがある。何がきっかけで、窓を見つけることができるかよくわからないが、いつも窓を見つけられるから、生きてこられたのだろう。

窓だと思った所(人)が窓じゃなくて、よけい落ち込むこともあった。それはその人と縁がなかったのだと諦めた。
友達がいなくて、孤独でも暗闇から抜け出してきた。

私の窓は「時間」だったのだろう。
時間が窓を開けてくれると信じてきた。
いつになるかわからないけれど、窓が開くのを待った。

それを希望というのかもしれない。

自殺を考えている人がいたら、この本を読んで、窓があることを知ってほしい。窓を開けてほしい。

もっと自殺のことを話せるようになればいいと思う。

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【追記】
2021年、このブログ記事を読み直した。
口に出せないと言っていた私が「死にたい」と声にだしてしまったと気づく。年をとり、
私の窓=「時間」が、なくなったからだと思う。

話したらよけいに苦しくなった。
真面目に受け取ってもらえなかったのか、「死にたい」といわれても困るからはぐらされたのか。周囲に言いふらすぐらい多くの人に言ったら楽になるのかもしれないけど、そうもいかない。

今はコロナ禍だから苦しいだけ、コロナが終わったら楽になるとコロナのせいにしたりしている。

まだ生きている。よくわからないけれどとにかく生きている。今夜生きられたら、あと10年生きられるかもしれないと私は知っている。

2014年11月7日に公開した記事ですが、部分修正、追記をして、2021年7月29日に再度公開しました。

 


猫とあほんだら/町田康著 犬派の私が読んだ。

2014-10-08 | 
本書を手に取った理由は、
タイトルの素晴らしさからである。

あほんだらとは著者のこと。

親兄弟から、「このあほんだらが!」と、
呼ばれるような人なのではなく、
猫たちが著者のことを
「あほんだら」くらいに思っているんだろう。
猫の世話は奥さんが
主になさっていらっしゃるようなので。

町田家には、
もとからいた家猫と保護猫がいる。

自宅と、仕事場でそれぞれ猫たちは暮らしている。
そのわけは、
保護猫は病気を持っていたりするから、
家猫と一緒にはできないからだそうだ。

それが、伊豆へ引っ越すということになる。
そのために、新しい猫が加わったり、
猫のために家を改造したり・・・。

10匹の猫が登場する。
私が犬派だからかもしれないが、
中盤から、
どれがどの猫かわからなくなり、
本を行ったり来たり、猫の写真で名前を確認したりで、
読むスピードがが遅くなったということはあったが、
おもしろかった。

私も猫と暮らしてみたいけれど、
いろいろ考えると、無理。
生きものを家に迎えるには責任があるから。

町田さんご夫妻の猫たちへのあったかい想いに、
頭が下がる想いだった。
やろうと思えばできることかもしれないけれど、
やっぱりなかなかできないこと。

保護猫たちは一時的に預かっていることにはなっているが、
もらいてはないだろうと、承知で引き受けてらっしゃるのだ。

本書での猫たちは、
人間が責任を負える範囲で、
自由にのんびりしている。

「町田さんの家の猫は幸せですね」といっても
町田さんは「どうだろう」とおっしゃるような気がする。

人間は猫じゃないから、猫の考えてることはやっぱりわからない。
人間の言葉や想いがちゃんと伝わるとも限らない。

猫に親切を押しつけることなく、
「(私は)いいと思うんですけどね・・・」と、
猫に伺っているような町田さんの接し方が、
笑えたり、心が和んだりする。

猫にしても
犬にしても
言葉が通じないから、
何を思っているのかほんとうのところはわからない。

言葉が通じると思っている人間同士だって、
ほんとうはわからないんじゃないかな。
だから相手のことを考えてあげることが大切。
そんなことを感じたエッセイだった。

町田さんが、妄想気味なところも
相手び気持ちを考えているからだと思う。

その妄想を笑えるかどうかが、
この本を好きになるかどうかの分かれ目だろう。
私は好き。

本書で知った重い事実は、
ひどいめにあった保護猫は、
何年かけてもなつかないということ。

世話をしてやりたいと思っても、
触らせてくれない、なつかないまま、死んだ猫に、
町田さんが、
自分のところへきて
幸せだったのだろうかと、考えるところで、
涙が出た。

町田さんと奥様の関係もとてもステキで、ほのぼのする。
本書は、猫シリーズ第三弾。



日本人のための「集団的自衛権」入門/石破茂著 を読んで考えた。

2014-10-03 | 
集団的自衛権を理解するため、人物的に好感を持っている石破茂さんの本を手に取った。

石破茂氏のことは、UFOゴジラ襲来時の自衛隊のあり方についてを語っているのをTVで観てから、注目しているのだが、政策を支持してるわけではない。私の中ではおもしろい人という位置づけである。
そして、私は集団的自衛権に反対してもいない。
つまり、好意的に読みはじめたわけである。

内容はとてもわかりやすかった。

本書で考えを変える人はいないかもしれない。石破氏は問題点の説明に徹しようとしている。これ以上のことを知りたい人はさらに本を読むよいだろう。私が強くした思いは、メディアを通さないで、本や資料をあたって理解を深め、自分の意見を持つことが大切だということである。

自分はどう考えるかというきっかけになる本だと思う。

第一章では、集団的自衛権の定義、解釈、歴史の説明、日本国憲法の解釈や第2次世界大戦後に起きたベトナム戦争、プラハの春、ニカラグア事件などをとりあげ、自衛権の解釈の幅がいかにあるかを説明している。

日本が、集団的自衛権を行使できるかどうかは、結局憲法解釈の問題に行きつく。

憲法解釈とは大人の都合で決められると再認識した。

私は小学生の頃、憲法9条第2項を読んでがっかりした。「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」
自衛隊は戦力ではないのかと、大人の誤魔化しを感じた。
子どもが素直に読んで理解できる文がよいと信じてきた。
改正しないのなら、軍隊を持たず、アメリカの核の傘の下から離脱するべきだという理想を持っていた。理想を掲げる人間がいて、現実とのバランスがとれるのではないかと思ってきたのだ。

本書を読み、驚いたのは、解釈次第で9条を改正しなくても軍隊を持てるどころか、戦争もできてしまうということだった。自分の都合のよいように解釈しようと思えばできてしまうのである。

第2章では、よくある疑問を石破氏が答える形となっている。
「徴兵制になるのではないか」 「結局、イケイケドンドンとなり戦争をはじめてしまうのではないか」など。このあたりの回答を素直に認めているから、私は集団的自衛権の行使をを認めている。反対意見の人には賛成の人はこういう考えを持っているのだと読んでもらいたい。

日本はほんとうに憲法9条によって、平和を守れてきたのかという疑問を持った。そしてこれからも9条によって平和を保てるのか。アメリカに守ってもらっているから平和なのではないか。
私はこう考えたい。9条に守られて平和なのではなく、9条の理念を私たちがしっかりと守っているから戦争をしない。戦争をしたくないという日本人の強い想いにより戦争に巻き込まれていないのだと信じたい。
有権者である私たちは絶えず平和を守ることを最も大切にしているとを政治家たちに伝え続けることが必要だと考える。いつのまにか戦争になっていたということのないように。

このところ、世界が、きなくさくなってきた。他の国のことは関係ないといえない時代になってきた。
集団的自衛権を持つことで、世界の平和のために貢献でき、かつつ日本を守ることができるかもしれないと思う気持ちは、このままでは日本はダメなのではないかと感じるからである。集団的自衛権に私は賛成する考えは変わらなかったが、賛成反対を軽々しく言えなくなった。

反対派の人が不安に思うことを、私も感じないわけではない。
今の日本の民主主義と、平和を望む強い世論があれば、戦争にはじめることも加担することもないと信じている。しかし、アメリカの正義に従う形になったとき、戦争に巻き込まれるのではないかと怖い。
私は戦争ができない国ではなく、戦争をしない国であってほしいと願っている。

この本で結論は出ない。入門書である。