Christine Helot
Awareness Raising and multilingualism in primary education
http://link.springer.com/referenceworkentry/10.1007%2F978-3-319-02325-0_29-2
を読み、
原発避難者の人々を思う。
ニュースの陰で、方言で苦しんでいる子ども達や大人達がいるのかな・・・
本来不要な苦しみで・・・
真の多言語教育は、「全ての人々」のためにある。
マイノリティ、マジョリティは関係なく、、、。
そして、Language Awareness (言語意識教育)は、
言語スキルの獲得ではなく、言語をめぐる権力と差別を
批判的に捉え直すためにあるのだということ、
だからこそ「全ての人々」に必要なのだという熱いメッセージ。
LAに取り組んで来なかった、
LAを学校教育に染み込ませることができなかった、
学校の、大人達の責任は。。。
まだLAという概念が生まれる前、ヨーロッパに先立つこと、
1979年に、谷川俊太郎さん達が、問いかけているのにも、関わらず、
それらを無視して来たことの、責任は・・・?
1979年の問いかけに、真摯に向き合って来たら、
なんだか市民性をめぐるいろんなことが違って来たような、
気がする。
もちろん、少数派をめぐっては、日本語の支援が必要な、
外国人のための学習支援、母語支援、あるいは障害のある人々への支援など、
大事なことは、たくさんある。足りないこともたくさんある。
けれど、「架橋されてない」んだなあ。。。
原田大介先生の『インクルーシブ国語』は、そういう意味では、
とても架橋的である。
「インクルーシブ国語」や、LAが、一部の人のためのものではなく、
それは、みんなの、私たちの、問題でもあるってこと。
架橋するために、LAはある。
LAは母語教育にとっても気づきをもたらすものだから。
日本語を殺す真犯人は、英語じゃない、言語の権力性にもとづく差別意識であり、
日本語自身。
「英語の前に日本語を!」言説の危うさは、たとえ一理あるとしても、紙一重だ。
そのときの「日本語」が指す、内容にもよる。
福島に帰れと授業参観で発言する大人、
それを黙ってやり過ごす教師。
LAをやらないってことは、日本語の自殺行為を加速させている、
ということにならないか。
モノグロシアな教育は、(原発)差別、(原発)いじめに加担し、
日本語自身をいずれ、窒息させる。
必要なのは、脱中心化、脱植民地化、ヘテログロシア。
エリートを育成して既にパワーを持っている人々にさらなる再分配をもたらすのではなく、
本当に全ての人々のための、多言語教育。