こうま座通信

終わりのない文章

三浦英之『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』×安彦良和『虹色のトロツキー』

2016-03-19 | Weblog


満州という傀儡国家に作られた、スーパーエリート達がつどった「建国大学」で、「五族協和」を本気で夢見た「日本・中国・朝鮮・ロシア・モンゴル」の「五族」からなる若者達の、その後の、筆舌に尽くし難い苦難の人生の、一端が語られる本。

読んでいるあいだじゅう、ずっと喉の奥がヒリヒリしてしかたなかった。

多くが行方不明になっていたり、消息不明とされるなかで、同窓会の細々としたつながりをツテとして、筆者はもう90歳前後となる「生き残り」に面会するために、国内はもとより、大連、台湾、ソウル、ウランバートル、カザフスタンのアルマトイまで旅をする。
国によっては、いまだに過去を自由に語ることもできない場合もある。話が佳境にはいると、インタビュー中止の電話。直前の面会キャンセル。同窓会の存在そのものが、生命や家族にまで累を及ぼす。また、この本の出版そのものが持つ、危険性、加害性。

そうしたさまざまな問題がありつつ、危険をおかしながらも、出版されたのが本書。
(いつも迅速な配送の某サイトが在庫切れで2ヶ月くらい全然送ってくれなかったのは、まさか陰謀、というわけではないだろうが。結局キャンセルし、書店で平積みになっているのを購入)

 登場する「生き残り」、ひとりひとりを主役にして、シリーズものの映画になってもおかしくないくらい、全員が全員、数奇な人生をたどっていて、ひとりひとりが「大地の子」レベルで、読んでいてつらいのはもちろんなのだが、どこかにほんの一筋の救いもあり、読み終えるのが惜しい本だった。

今、あちこちで、「多文化共生」がうたわれている。花盛り、といってもいいかもしれない。2020に向けて、一層華やかにことばが踊るかもしれない。でも、いいのか悪いのか、そこに建国大学の学生達のような、火傷しそうな熱さというものはないような、気がする。
それは、ありがたいことなのでしょう、たぶん。感謝すべきこと、なのかもしれません。そのぬるさに。でも、それは少しどこかで、不気味な気がします。
この、「五族協和」への試みと、利用されてしまった若者達の存在を、過去を、知らないままに、多文化共生をあやしむことなく語ること…。

そして、大学教育とはいったい何なのか、スーパーエリート大学にいたということを隠さねばならない人生、しかしそこで受けた教育がアイデンティティを形成し、誇りとも指針とも基盤ともなること。
スーパーエリート大学にいたという過去のために、拷問を受け、監禁され、自由を奪われ、あるいは身をひそめ、あるいはその能力を隠して、世間から身を隠すように生きなければならなかったこと…(本人がその能力を活かせないことに納得していないということ)

また、今ある「日本」の土を踏んだこともないのに、90歳近くなっても、富士山を腹の底から愛し、日本を愛する、その基盤ともなった日本語とは、あるいは日本語教育とは、いったい何なのか…、答えのみいだしようもない、さまざまな問いが浮かんでくる。

カザフスタン、アルマトイの空港のゲートを、日本からやってきて、車いすでおりる80過ぎた元・建大生の老人を、80過ぎの現地在住のロシア人のおじいさんが、建国大学の塾歌を歌いながら、空港のゲートで待ち受けるシーン。
書評で読んで、彼らは学年が違うので、直接お互いを知っていたわけではなかったと、あらかじめ知っていたのに、それでもどうにも、涙腺が決壊。

とはいえ、この本は、別に読者を泣かせようと思って書かれたわけではない。
最後の、山室信一さんという歴史学者の話が、重い。
多文化共生、ということば。私を含め、この便利なことばを、決して間違っているわけではないこのことばを、どこかで使ってしまったことのある人間は、考え続けねばいけないと思う。その使い方を、意味するものを。

「…台湾、朝鮮、満州という問題が極度に集約されていたのが建国大学という教育機関だった、というのが私の認識であり、位置づけであります。政府が掲げる矛盾に満ちた五族協和を強引に実践する過程において、当時の日本人学生たちは初めて自分たちがやっていることのおかしさに気づくんです。そういうことを気づける空間は当時の日本にはほとんどなかったし、だからそれを満州で『実験』できていた意味は、当時としては我々が考える以上に大きいことではあった…」

「満州国を研究していて強く思うのは、そこには善意でやっていた人が実に多かったということなのです。それがどうして歴史のなかで曲がっていくのだろうか、その失敗を私たちは歴史のなかから学び直さなければならない。来るべき時代に同じ轍を踏んでしまうことになりかねないからです。人々が当時どのように悩み、なぜ失敗していったのか。…」

「…日本が過去の歴史を正しく把握することができなかった理由の一つに、多くの当事者たちがこれまで公の場で思うように発言できなかったという事実があります。…80年代にかけて、満州における加害的な事実が洪水のように報道されたことにより、建大生を含めたかつての当事者たちは長年沈黙せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。もっと当事者たちの声が聞かれていたら、満州国への認識なんかも変わったのではないかなと私は今思っています…。」


著者は、ウランバートルのチンギスハーンホテルで、ダシニャムさんという方のインタビューもされています。
こちらは、安彦良和『虹色のトロツキー』終章より。





チンギスハーンホテルのあたりの道なんて、たぶん300回くらいは通っていると思うけど、そういう方が住んでいらっしゃったなんて…。私のような、何も考えていない、何も知らない、知ろうとすらしなかった、日本の留学生、いったいどんな風に映っていたんだろう、と思う。
(ダシニャムさんのお父様は、『虹色のトロツキー』にもでてくる、英雄、ウルジン将軍。)

『五色の虹』『虹色のトロツキー』、もちろん福音館書店の『スーホの白い馬』にも、絵本を開くと二重の虹が描かれている。

虹の向こうに、ひとは何をみるのか。

*****
参考までに、『虹色のトロツキー』から建大生たちの議論の様子。

建大生達が毎晩のように繰り広げていた討論。
当時、こうした言論の自由が保障された、唯一無二、特別な場所だった。



馬小屋に立て篭りストライキする学生たち。
「一緒に寝起きするとか同じものを食うとか言ったって 日本人の自己満足だよ!」
「欺瞞なんだ!」
「本当の民族協和なんてできるわけないさ!」





「全部満人の土地だよ!」
「割りきれないよナァ」
「搾取してるんだよ オレ達は」
「言ってることはわかるけどさァ」





「口では五族平等だなんて言いながらやってるのは」
「日本に役立つ官吏の養成教育だよ!」
「ごまかしはもうゴメンだ!」
「困ったな~」
「問題がでかすぎるな」

熱い議論のあと・・・。



「キミは笑うかもしれないけど」
「ボクなんかはけっこう信じていたんだ」
「海の向こうの新天地に民族協和の新国家ができるっていうこと」
「すばらしいことだって思ってた…」
「でも」
「違ったんだよ ハルビンでも東満でも」
「見たのはいばりくさった日本人と」
「ひどい現実だけ」



「でもな!だからって満州国も建大もどうとでもなれなんて思っちゃいないぞ‼︎」
「反対に・・・どうにかしたいから、だから…」

この理想に燃えた、若者たちが見た夢は、なんだったのか。
理想と現実に引き裂かれた若者たちの苦悩は、なんだったのか。

第8巻。蒙古少年隊のあたりは辛すぎる。14歳ですよ。



ダシニャムさんのお父さん、ウルジン将軍。
<日本軍>のなかにありつつ、モンゴル語で、所属するモンゴル人の兵たちに向かい、
モンゴル人のために闘うことを宣言するシーン、上官にせかされ、通訳として四苦八苦する岡本さん。
臨機応変の名通訳と言えるでしょう。
(もしも直訳していたらその場で多くの血が流れたでしょう!通訳に必要な資質とは・・・考えさせられます。)




ウルジン将軍は、軍人ぽくなく、どこか学校の校長先生みたいな雰囲気だったといいます。





確かに『トロツキー』でもそんな雰囲気。ブリヤート系知識人の顔立ち。
終戦時、自らソ連軍に出頭して抑留のち銃殺され、1994年に名誉回復。

日本でも色々努力した人はいた。。。この暴走を止めないといけないと気づいていた人はいた。。。
しかし・・・。



蒙古少年隊の名前がみんなすごくどんくさいのである。…よりによって、「ドンドンタイ」って…。申し訳ないけれど、流れ弾にいの一番に当たりそうな名前である。この少年たちが、「カツ・レツ・キッカ」に見えて仕方ないのである。

生きて帰れる。

先日、満州移民に当時唯一反対した長野県の村長さんについてのNHKのラジオのドキュメンタリーを聞いた。
「満蒙開拓を拒んだ村長」
https://www.youtube.com/watch?v=RgHq_r7pneI&app=desktop

「生きて帰って来て」と口にすることそのものが、タブーだった時代。
そのような願いを抱くことすら、非国民として扱われた時代。
小熊英二『生きて帰ってきた男』のタイトルも、また、改めて。

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