2019年3月17日@高萩市文化会館。
680席のお客様。埋まるのかな、まさか、出演者の方が多い・・・?なんて心配してたのは杞憂でした。
満席のお客様で立ち見席も出たと。高萩市文化会館の自主事業では初めてのケースということで、高萩市の歴史を塗り替えて?しまいました・・・!
いや、もちろん、高萩の人たちの力です。とても熱いです。
第一部で、朗読家の見澤淑恵さんと、『スーホの白い馬』を馬頭琴でご一緒に。
第二部では、地元の民話の会などで活躍される語り部さんたちの、高萩民話。
第三部では、見澤淑恵さんによる、『葉っぱのフレディー』。
見澤淑恵さん、今年は何度も都内にお呼び立てしてしまい、目黒区立田道小学校の地域公開道徳講座をはじめ、練馬区・中野区の小学校でもご一緒させていただきました。
(ついでにNHKホールでの短歌の会デートまで。久しぶりの生・穂村弘先生・・・相変わらずのキレのいい、そして深く、やさしいコメントで、もう、素敵すぎました・・・。)
さて、小学校での馬頭琴の出張授業もかれこれ、21年目になりました。
青山学院初等部さんに至っては、もう10年以上、毎年演奏させていただいています。
どこの学校の授業も、子供達と過ごす楽しい時間・・・
ではありますが、ホール公演となると、ガラリと空気は一変します。
やはり、きちんと音響スタッフさんがいることのありがたみをしみじみ・・・。
馬頭琴の潜在能力を100%、いや200%出していただいて、至福のひとときでした。
「できる子!!」という感じでした。馬頭琴の横顔が違って見えてくるくらいに。
ちょうど冬に楽器のメンテナンスをしたばかり。
(馬頭琴に使われるにかわの寿命は東京の気候では7年。少し手間暇とお金がかかりますが、7年ごとに専門の工房でメンテナンスをしましょう!音色が生まれ変わります)。
季節的にも湿度も高くなく、馬頭琴は最高のコンディション。
何より、見澤さんの声は、いつまでも馬頭琴を弾かせて欲しいと思うような、凜とした魅力にあふれる声。
本当に終わりたくない時間でした。
お客様のお見送り時間に誘われ、気後れしながら参加したところ、驚くほど多くの方々に次々とお声がけいただきました。
高萩の方々の熱い思い。
やはり、「馬頭琴って初めて聞いた!ずっとどんな音だろうと思ってた」とおっしゃる方が圧倒的。
教育関係・保育関係の方々は特に、絵本を子どもたちに読んでいたので、とおっしゃる方の多いこと。
20年前から変わらぬこの「初めて聞いた!」の声、声、声・・・。
高萩名物のおいしい納豆のように、糸を引かれる思いで、高萩を後にしました。
***
さて、下記は馬頭琴から離れますが。
客席から拝見した第二部の民話がとても勉強になったので。
(同じ記事の中で、こういうことを書かないではいられないのが我ながらヤヌスの鏡である)
リハーサル中から、民話の会の皆さんがフレンドリー。
とても初めて会った方々と思えず、なんだかあったかいのです。
高萩では民話の会がいくつもあって、そのうち一つはやはり震災後に立ち上がったということです。
また、民話そのものの収集・採録は、昭和50年代に進んだそうだけど、本にまとめられても、その後活用されることがあまりなかったとか。
そこにこういう風に、光を当てようとする企画と、何よりも語り部たちの存在感。エネルギー。
ぼた餅がカエルに化ける話、貧乏神様の話など。子供だけでなく、大人も楽しめる語りでした。それが本来の民話、ですよね。
知らない民話、関東にも山ほどあるんだろうな・・・。
あと、幕間の寸劇が最高でした。採りたての菜っ葉がいっぱい詰まったでっかい背負子を背負ったモンペ姿のヨボヨボのおばあちゃん二人、今時、鶴瓶さんが日本中探しまわっても会えない感じの、おばあちゃんふたり組。イタリア帰りだとかなんとか、すごく笑えて、あったかくて、何か、東北の人たちの笑い??にも通じるようなものを感じて、心地よくて。
終演後に、あの台本はプロが書いたんですか、と尋ねたら、いんや、自分達で書いたと。え、イタリア、、、? だってほんとのことだもん、ほんとにこないだイダリア行っできたんだー、と・・・。し、失礼しました、ばっばとイダリアが、結びつかなくて。。。(*表記はイメージです・・・)
民話は8組の語りがありました。方言のせいもあり、聞いていると最初わからないことばもあるのですが、だんだん意味がわかってくると嬉しい。
これも複言語主義の楽しさ。生きていると、100%わかること、だけ、が大事なんじゃない、と思いますね。
そして、こういう語りに、日常、耳をすますことがないなあ、こうした語りの持つ、場の力って、絶対何か、あるはず。
語る人も元気になり、聴く人も癒されるような、それをまた、みんなで作っていくような・・・。
災害、戦争体験、各地で様々な語り部の継承が困難になっている今、改めて、地域に眠っている宝、魅力的な民話っていっぱいあるんだな・・・と。勉強になりました。
***
It all starts with a story.
Storytelling comes alive!
ふと、以前訪問した、ニュージーランドの保育園に飾られていた、ロゴが思い出されました。
(地元の保育指針テ・ファリキに基づきながらも、イタリアのレッジョ・エミリア形式で教えている園です)
こういう、「語り」に着目したことば、が、壁にさりげなく貼られてるって、いいなあって思ったんですよね。
しかもそのあとに、どうでもいいような(失礼)、素朴な小話が紹介されている。
日本の教育機関にある、行事ごとの作文とも違うし、音読チャンピオン、みたいなのとは、一見近いように見えるけれど真逆のベクトル。
音読365日ルーティーンで宿題にするより、年に一回、「朗読」「語り」の宿題を出す方が、ずっといいのでは、と思ったり・・・。
全ては物語。語ることから始まる。
—なのに、グローバル化は小さな物語を奪って、大きな物語に回収していく。
(音読の宿題も、それに加担してる?
ただの思考停止、反復練習に終始するならば・・・。
先生方の多忙化の中で、音読の宿題をとりあえず出しておくことが「やってる感」を出すことに貢献しちゃってるんですかね。)
ちょうど、ニュージーランドで悲しい事件が起きたばかり。
ではあるのですが、高萩のこうした「声と語りの復権」への試みは、だからこそ意味がある。
高萩と、ニュージーランド、なぜか私の中で、二つの土地が繋がります。
680席のお客様。埋まるのかな、まさか、出演者の方が多い・・・?なんて心配してたのは杞憂でした。
満席のお客様で立ち見席も出たと。高萩市文化会館の自主事業では初めてのケースということで、高萩市の歴史を塗り替えて?しまいました・・・!
いや、もちろん、高萩の人たちの力です。とても熱いです。
第一部で、朗読家の見澤淑恵さんと、『スーホの白い馬』を馬頭琴でご一緒に。
第二部では、地元の民話の会などで活躍される語り部さんたちの、高萩民話。
第三部では、見澤淑恵さんによる、『葉っぱのフレディー』。
見澤淑恵さん、今年は何度も都内にお呼び立てしてしまい、目黒区立田道小学校の地域公開道徳講座をはじめ、練馬区・中野区の小学校でもご一緒させていただきました。
(ついでにNHKホールでの短歌の会デートまで。久しぶりの生・穂村弘先生・・・相変わらずのキレのいい、そして深く、やさしいコメントで、もう、素敵すぎました・・・。)
さて、小学校での馬頭琴の出張授業もかれこれ、21年目になりました。
青山学院初等部さんに至っては、もう10年以上、毎年演奏させていただいています。
どこの学校の授業も、子供達と過ごす楽しい時間・・・
ではありますが、ホール公演となると、ガラリと空気は一変します。
やはり、きちんと音響スタッフさんがいることのありがたみをしみじみ・・・。
馬頭琴の潜在能力を100%、いや200%出していただいて、至福のひとときでした。
「できる子!!」という感じでした。馬頭琴の横顔が違って見えてくるくらいに。
ちょうど冬に楽器のメンテナンスをしたばかり。
(馬頭琴に使われるにかわの寿命は東京の気候では7年。少し手間暇とお金がかかりますが、7年ごとに専門の工房でメンテナンスをしましょう!音色が生まれ変わります)。
季節的にも湿度も高くなく、馬頭琴は最高のコンディション。
何より、見澤さんの声は、いつまでも馬頭琴を弾かせて欲しいと思うような、凜とした魅力にあふれる声。
本当に終わりたくない時間でした。
お客様のお見送り時間に誘われ、気後れしながら参加したところ、驚くほど多くの方々に次々とお声がけいただきました。
高萩の方々の熱い思い。
やはり、「馬頭琴って初めて聞いた!ずっとどんな音だろうと思ってた」とおっしゃる方が圧倒的。
教育関係・保育関係の方々は特に、絵本を子どもたちに読んでいたので、とおっしゃる方の多いこと。
20年前から変わらぬこの「初めて聞いた!」の声、声、声・・・。
高萩名物のおいしい納豆のように、糸を引かれる思いで、高萩を後にしました。
***
さて、下記は馬頭琴から離れますが。
客席から拝見した第二部の民話がとても勉強になったので。
(同じ記事の中で、こういうことを書かないではいられないのが我ながらヤヌスの鏡である)
リハーサル中から、民話の会の皆さんがフレンドリー。
とても初めて会った方々と思えず、なんだかあったかいのです。
高萩では民話の会がいくつもあって、そのうち一つはやはり震災後に立ち上がったということです。
また、民話そのものの収集・採録は、昭和50年代に進んだそうだけど、本にまとめられても、その後活用されることがあまりなかったとか。
そこにこういう風に、光を当てようとする企画と、何よりも語り部たちの存在感。エネルギー。
ぼた餅がカエルに化ける話、貧乏神様の話など。子供だけでなく、大人も楽しめる語りでした。それが本来の民話、ですよね。
知らない民話、関東にも山ほどあるんだろうな・・・。
あと、幕間の寸劇が最高でした。採りたての菜っ葉がいっぱい詰まったでっかい背負子を背負ったモンペ姿のヨボヨボのおばあちゃん二人、今時、鶴瓶さんが日本中探しまわっても会えない感じの、おばあちゃんふたり組。イタリア帰りだとかなんとか、すごく笑えて、あったかくて、何か、東北の人たちの笑い??にも通じるようなものを感じて、心地よくて。
終演後に、あの台本はプロが書いたんですか、と尋ねたら、いんや、自分達で書いたと。え、イタリア、、、? だってほんとのことだもん、ほんとにこないだイダリア行っできたんだー、と・・・。し、失礼しました、ばっばとイダリアが、結びつかなくて。。。(*表記はイメージです・・・)
民話は8組の語りがありました。方言のせいもあり、聞いていると最初わからないことばもあるのですが、だんだん意味がわかってくると嬉しい。
これも複言語主義の楽しさ。生きていると、100%わかること、だけ、が大事なんじゃない、と思いますね。
そして、こういう語りに、日常、耳をすますことがないなあ、こうした語りの持つ、場の力って、絶対何か、あるはず。
語る人も元気になり、聴く人も癒されるような、それをまた、みんなで作っていくような・・・。
災害、戦争体験、各地で様々な語り部の継承が困難になっている今、改めて、地域に眠っている宝、魅力的な民話っていっぱいあるんだな・・・と。勉強になりました。
***
It all starts with a story.
Storytelling comes alive!
ふと、以前訪問した、ニュージーランドの保育園に飾られていた、ロゴが思い出されました。
(地元の保育指針テ・ファリキに基づきながらも、イタリアのレッジョ・エミリア形式で教えている園です)
こういう、「語り」に着目したことば、が、壁にさりげなく貼られてるって、いいなあって思ったんですよね。
しかもそのあとに、どうでもいいような(失礼)、素朴な小話が紹介されている。
日本の教育機関にある、行事ごとの作文とも違うし、音読チャンピオン、みたいなのとは、一見近いように見えるけれど真逆のベクトル。
音読365日ルーティーンで宿題にするより、年に一回、「朗読」「語り」の宿題を出す方が、ずっといいのでは、と思ったり・・・。
全ては物語。語ることから始まる。
—なのに、グローバル化は小さな物語を奪って、大きな物語に回収していく。
(音読の宿題も、それに加担してる?
ただの思考停止、反復練習に終始するならば・・・。
先生方の多忙化の中で、音読の宿題をとりあえず出しておくことが「やってる感」を出すことに貢献しちゃってるんですかね。)
ちょうど、ニュージーランドで悲しい事件が起きたばかり。
ではあるのですが、高萩のこうした「声と語りの復権」への試みは、だからこそ意味がある。
高萩と、ニュージーランド、なぜか私の中で、二つの土地が繋がります。