こうま座通信

終わりのない文章

見えない銃を撃つための教育は可能か

2016-04-28 | Weblog
栗原康『現代暴力論』(2015,角川書店)、読んでからずっと、脳内で、ブルーハーツのtrain-trainが鳴り止まない私はどこかおかしいのだろうか。直接的にtrain-trainが出てくるわけではないんだけど。

ああ、「栄光に向かって走る」というのは、奴隷解放のことなのか、とか、
「弱い者達が夕暮れ さらに弱い者をたたく」 
というのは奴隷たちが奴隷制の中で行っていること―奴隷制の中のヒエラルキーの上昇だったり、奴隷同士で他者を抑圧したり、という、私たち自身の行いのことか、とか、
「夕暮れ」なのは、そのままその叩く、という行為が、何の沙汰もなく、闇に紛れてしまうから、被害者も声を上げることなく、泣き寝入りし、加害者も闇の中にまぎれていく、ということか、とか、
「その音が響きわたればブルースは加速していく」
ああ、だから、ほかでもなく、「ブルース」、なのか。
だから、「はだしのままで飛び出して」なのか、とか。

「天国なんかじゃないけど、かといって地獄でもない」
―そりゃ、そうだ。奴隷には、適度な幸福が与えられているからね。
奴隷が死んでしまったり、逃げ出したりしてしまったら、雇用主は元も子もないんだから。そのために雇用主は、「幸福な奴隷」育成に努めるんだもの。

すごいね、ブルーハーツの人は。
train-trainはもう、国歌にしたらどうかな。

本書が嬉しいのは、『水滸伝』を暴力の教科書だというところ。また、水滸伝の結末の悲しさ、虚しさ、武松のかっこよさについても、こどものころから水滸伝ごっこを継続中の私にはたまらない。三国志の堅さ・重苦しさとは全然違う、爽快感が、かろやかさが、してやったり感が、あっかんべー感が、梁山泊にはある。自由なのだ。

著者はいう。「我々は国家から一方的に暴力を振るわれ続けている。」生まれながらにふるわれているので、暴力だと認識すらできない。たとえば、原子力国家という暴力。もはやそれは、電力供給のためですらない。抵抗したって仕方ない、声を上げると「変わった人」「面倒な人」と言われ、迷惑がかかると言われ…、自主規制をさせるため、議論をさせないため、沈黙させるため、国家による暴力に気づかせないために、再稼働は当然、なされなければならない。主体的な隷属と屈従への「アクティブ・ラーニング」。
 新規建設も、輸出もされねばならない。解放の芽を根絶やしにし、人が生まれてきたその瞬間から、負い目と負債と諦めを、その身体に刻み込むために。

「生きる力」が聞いてあきれる、罪悪感埋め込み装置としての教育。
福祉の切り捨てと教育の市場原理任せへのアリバイづくり。
「あらかじめ負い目を背負わせて、人びとを全面的に屈服させてしまう」国家。
「幸福な奴隷」培養装置を目指しても、行き過ぎて培養するための保育園すら不足するありさま。

国家による一方的な暴力装置を支える教育に、教育が抵抗できるのか。
奴隷解放のための国語教育、言語教育、道徳教育、体育教育、歴史教育、教員養成、学校運営は可能か。
怒りの共鳴作用を呼び覚ます言語教育は可能か。それはもはや言語教育ではないという抵抗とのせめぎあいを含めて。

「世界中に定められたどんな記念日なんかより」
「あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう」

暴力国家が定めたものには、ひとかけらの価値もない、
たとえば、国家が定めた教科書より、君の描いた落書きの方が圧倒的に価値がある。
(教科書を使って学べ、というのなら、手元の教科書がどうやって誕生し、
どういう意図のもと、手元に届いたかを考えるアクティブラーニングをやったらどうかな。
教科書会社の「謝礼」問題とか癒着とかも含めて。そんなこともできずに一方的に与えられた教科書に
「批判的思考力をやしないましょう」といわれても・・・壮大かつ金のかかり過ぎるコントだろうと。)

改めて聞くと、ブルーハーツの歌は、著者のいう「生の拡充」にぴったりすぎて。
暴れる力、暴れゆく力。「教育は暴力を伴わない革命である」というハーバート・リードの夢は美しい。しかし、国家が既に、人が生まれながらにして暴力をふるっていたのなら。

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