東京猫暮らし

東京在住の40代自由業男と2匹の猫とののどかな日常

映画「サウスバウンド」

2007-10-11 01:05:05 | 映画
自宅近くのシネコンで映画になった「サウスバウンド」を見た。
「映画になった」というのは、以前この原作である小説「サウスバウンド」を読み、その作者の力量に感銘を受けていたからだ。通常、小説で気にいった作品は映画では見ないようにしている。やはり、文章からイメージした世界が自分の中にかなり出来上がっていると、まず映画に違和感を受けることが多い。この映画の宣伝予告でのコメディタッチの作りに、すでに見る前から落胆していたのだが、一抹の期待を捨てきれず、映画館に足を運んでしまった。平日夜の郊外のシネコンは、客もまばらで、寂しさも少し漂う。しかし、その中に数人普段見かけない中高年の男性一人客がちらほら。おそらく、同じ原作を読んで、つい来てしまった口だろう。

映画は、小説通り前半を東京中野あたりを舞台に、やや説明口調で忙しく展開する。奥田氏の世界に登場する人物のキャラクターを映像化するのは、なんと難しいかと、ここで改めて確認。元過激派の闘士夫婦の持つ片鱗は、この前半ではほとんどない。中途半端なコメディに終始している感が。小説で展開されたまさに現在も続いている「過激な」友人関係や事件も、ここではカット。そのため、沖縄へ移り住んでいく根本的な動機がうまく説明できていない。また、子供たちの喧嘩でのリアリティある文体、過激派同士の「内ゲバ」シーンなどの複線もさすがに映像化はできなかったようだ。

しかし、後半の八重山・西表島への引越しからの部分は、徐々にあの小説世界の持つルーツのようなものが動き始める。
私自身、今まで沖縄・八重山諸島へは、数度行ったことがあるので、そのイメージを一定共有できるが、ここほど「国家」から遠い場所はない。過激派・アナーキストとしての彼のルーツがここで形成されたとすれば、信じるものとは自然と土地と住民たちによる「自治」だけだ。しかし、その「桃源郷」にも、現代の力は押し寄せて来ていた。
小説において、息をもつかせぬ面白さで展開された強制立ち退きとその抵抗のシーンは、かなりあっさりと描かれてはいたが、主人公夫婦が必ず負けるとわかっている闘いにあえて挑み敗北した時の、その伏し目がちでどこか過去を追想するかのような視線を交わす場面は、少し泣けた。

最後の親子の別れのシーンでの言葉もいい。
「俺のまねをするな。俺は極端な人間だからな」
「負けてもいいから、闘え。孤立を恐れるな。必ず、どこかに理解者はいるんだ」

ますます、周囲の空気ばかり読み、勝ち馬に乗るしか生き方を知らなくなってきた今の若者たちに、この言葉は、いったいどう響くんだろうか。

伝説の楽園「パイパティローマ」へと旅立ったあの二人は、おそらく最後のアナーキストだったのかもしれない。
















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