東京猫暮らし

東京在住の40代自由業男と2匹の猫とののどかな日常

NOWADAYS

2008-10-26 16:02:44 | エッセイ
 ふらっと寄ったHMVで試聴し即買い。どちらも10代より好きで聞き続けてきたミュージシャンだが、深夜寝る前の静けさの中で聞いていると、体中に浸み込んで来る。「Sophisticated Lady」「Eleanor Rigby」「I wish you love」「Lush Life」等、どれも丁寧で静謐、しかも濃厚な味わいの演奏。渡辺香津美の、空間を泳ぎ満たしていく絶妙な演奏に、若かりし日の『中本マリ3』でのバラードのバッキングを思い出した。吉田美奈子の声と歌唱は、ますますオリジナリティの極に向かって突き進んでいるかのように感じる。ジョニ・ミッチェル『Shadows and Light』やリッキーリージョーンズ『My Funny Valentine』も彷彿とさせる、世界に通じる音だ。

ラスト、コーション 色/戒

2008-02-03 02:45:42 | エッセイ
久し振りに渋谷に行き、映画を見た。昨年のヴェネチア国際映画祭グランプリのアン・リー監督『ラスト、コーション』。初日ということもあり、ル・シネマは、どの回も満員御礼。ひとつ回をずらして入る。

それにしても、若い人が多い。土曜日だからか、渋谷だからか。始める前のどこかざわついた感じは、この街特有の落ち着きのなさと同じ。映画館という空間は、他人同士が暗闇を一時共有し、互いに観客として最適な映画環境を作り上げるものだ、というかつてのシネフリークの感覚は、自宅でのDVD視聴が当たり前になった現在、あまり通用しないのだろう。鑑賞中、何度か現実に引き戻される雑音や声に悩まされた。

1940年代、日本占領下の上海を舞台に、虚無的な影を持つ傀儡政権特務機関の男(トニー・レオン)と若くして抗日運動の中にとび込んだ女スパイ(タン・ウエイ)の運命的な出会いと悲劇的な結末を描いた本作品。前半香港で学生生活を送っていた女の来歴を、あの時代としてはいささか牧歌的とも言えるタッチで描いていく。その彼らの抗日運動の「まねごと」が、「ある殺人」により一気に抜き差しならない運動のるつぼに彼らを巻き込んでいく。

冒頭の女性4人が麻雀をするシーンから、見事な映像美が展開する。この麻雀シーンは何度か繰り返されるが、4人の刻々と変わる表情を追いかけるカメラ、特にスパイとしてもぐりこんでいたタンウェイの見せる視線の演技は、絶妙な陰影と艶ぽさを含み見事だ。

この映画は、トニーレオンとタンウェイのための映画だ。二人が出会った時から、この映画はある方向に向けて一直線に進んでいく。二人が交わし続ける表情と視線がこの映画のすべてと言ってもいいかもしれない。疑いながらも、騙しながらも、惹かれあっていく二人の駆け引きは、やがて演技と真実の境界を超えてしまう。

話題になったセックスシーンは、結構カットされボカシも入っているようで、かなり編集の跡が見られたが、それでも死に抗うかのようにむさぼり合う肉体はある種の美を孕むものだと感じ取れるいくつかの美しいショットがあった。

彼女が最後に指輪をプレゼントされるシーン、そして暗殺されようとしていた彼を逃がしてしまうシーンはこの映画のクライマックスだが、いくつかの謎が残り映画は終わる。その謎が女というものの謎なのか、あの究極の状況で出会った二人に起こった特別な物語だったのかは、この映画を見た人それぞれの人生、恋愛経験にも大いに左右されるような気がする。深いトラウマを抱え、なおも生きていく特務機関の男(トニーレオン)の虚無は計り知れない。









映画『This is Bossa Nova』

2008-01-08 14:54:13 | 映画
ディス・イズ・ボサノヴァ
静かな革命音楽としてのボサノヴァ

先日、某紙に書いた映画評です。

ボサノヴァは、1950年代後半ブラジルのリオデジャネイロ、コパカバーナやイパネマ海岸の裕福な学生、ミュージシャンたちによって誕生した、当時においては革命的な音楽だった。その斬新なリズム、半音階を駆使した繊細、優美なメロディー、複雑で考え抜かれたハーモニー、どれをとっても以前のブラジル音楽とは違ったまったく新しいサウンドがそこにはあった。
「ボサノヴァ」とは、ポルトガル語で、「新しい傾向」という意味の言葉で、それまでのサンバ(サンバ・カンサゥン)やショーロなどの伝統的なブラジル大衆音楽に、クラシック、特に印象派の和声、また白人を中心としたウエスト・コース・ジャズのサウンドが、当時の若いミュージシャンたちの交流の中で、絶妙に調和・融合し生まれた。
当時の彼らは何故、この斬新な音楽を生み出せたのだろうか。
「ボサノヴァはムーブメントではなく、たくさんのサロンでのパーティを通じて集まり、会話や演奏のやりとりをする中で、自然発生的に生まれてきました。当時の中産階級の若者たちが新しい音楽を探していた結果なのです」
映画は、このボサノヴァ誕生の経緯を、当時よりシーンの中心にいたカルロス・リラとホベルト・メネスカルが語り部となり、そのゆかりの場所を巡りながら案内していく。二人が出会った学校、海岸に面したナラ・レオンの大きなアパートメント、当時彼女のギターの先生だった彼ら、ボサノヴァ誕生を育むサロンでの交流、ジョアン・ジルベルトとの出会い、初めての「ボサノヴァ」コンサートが開かれた大学ホール等々、この映画は無数のエピソードに溢れ、それらの偶然がまさに奇跡のようにつながり、ボサノヴァという個性的な音楽が誕生していくさまを、見事に映し出していく。
また、ともすれば解説口調になりがちな出来事の流れを、実に優しくゆったりとしたカメラワークの中、時には語り、時には演奏を通じて、ボサノヴァが生まれた時の空気を再現しようとする。コルコヴァードの丘にそびえるキリスト像の背後から俯瞰するリオの全景、イパネマ海岸の空と海、夕陽、木々の緑。彼らの音楽が、まさにこの街の気候、風景、生活の中から生まれ育ったものであることが、その映像と音によって伝わってくる。
「この映画は、脚本もなく撮影していきました。まるで、ボサノヴァが生まれたときのように誕生した映画です。この映画を通じて、新たに知ったエピソードも多くありました」
その後、ボサノヴァの国際的な評価につながった1962年NYカーネギー・ホールでの記念すべきコンサート、翌年のジャズボサ・アルバム『ゲッツ/ジルベルト』のリリースと「イパネマの娘」の大ヒットにより、ボサノヴァは世界に登場していく。
ところで、ボサノヴァの曲名や歌詞の中にもよく現れてくる、“サウダージ”という言葉。私たちとしては、これを一体どのようにとらえればよいのだろうか。
「すごく好きだったのに今はないもの、を惜しむ気持ち。何かが欠けている、という感覚、何かを望む気持ち、です。いわゆるノスタルジーではありません」
やはり、ブラジル特有の感情であり表現であるこの「サウダージ」を日本語や日本人のある感情に置き換えるのは、なかなか難しいようだ。ボサノヴァは、その微妙な気分を歌や演奏に託し、世界に伝える大切な話法なのだ、とも言えよう。
それにしても、映画の中で繰り返し映し出される、ギターを爪弾く手と語るような歌声の美しさはどうだろう。この最もシンプルで抑制されたスタイルこそボサノヴァの本質なのだ、と改めて感じさせられる。ボサノヴァ・ファンならず、全ての音楽ファン必見のドキュメンタリーである。

『インランド・エンパイア』デイヴィッド・リンチ

2007-12-08 14:52:49 | 映画
先日某紙に書いた映画評です。

『インランド・エンパイア』デイヴィッド・リンチ

思わず鳥肌が立つ映像世界、とでも言えばいいのだろうか。試写室の効きすぎた冷房のせいではない。次々と押し寄せる濃密なシーンの数々が、どこか神経を直接刺激してくるのだ。前回の傑作『マルホランド・ドライブ』(2001年)で世界を震撼させた巨匠デイヴィッド・リンチが、更にスケールアップして、強烈な問題作を送り出してきた。
 ニッキー(ローラ・ダーン)は、いわくつきの未完のポーランド映画『47』のリメイク『暗い明日の空の下で』で再起をかけるハリウッド女優。やがて、映画の撮影とリンクするように、私生活でも相手役のデヴォン(ジャスティン・セロー)と不倫をしてしまう。やがて、ニッキーの中で役柄と自分、映画と現実の世界の区別が付かなくなっていく、という一応の物語らしき設定はある。しかし、そこはデイヴィッド・リンチ。到底、一筋縄ではいかないのだ。
 この女優・ニッキーの世界に、映画内映画『暗い明日の空の下で』のシーン、もうひとつの映画内映画『47』のシーン、更に3人の謎のウサギ人間たちの部屋の会話、テレビモニターに映る映像を泣きながら観ている少女、という「5つの世界」が複雑に交錯し、やがてその境界さえも曖昧となっていく。登場人物や時制がどんどん入れ替わり、目まぐるしく展開していく。
 リンチは、今回の作品のテーマを「woman in trouble」(トラブルに遭った女)の話だと言う。夢と現実が溶解していく中で、アイデンティティーを見失うハリウッド女優の悲哀?
 しかし彼は、自身の映画を解説することも、単一に解釈されることも嫌う。「作品には、多様な解釈がある。観客は自分が感じたこと、直観力をもっと信用すべきだ」が、彼の持論だ。彼の映画ではたくさんのアイコン(映像記号)が飛び交い、観客にその解釈を委ねる。私たちは「見ることの自由」を強いられるのである。
 それにしても、この監督は本当に闇が好きだ。「何か」が始まる時、いつも闇の入り口が用意され、我々は登場人物と共に、次の幻想へと迷い込むことになる。何気ない日常的な世界から突如、幻想の領域に踏み込んでいくこの展開は、いつみても見事だ。
 また、彼は観客の深層に、映像と音を通じて直接、触れてこようとする。そして、恐怖は自分自身の内にあるのだ、ということを気づかせてくれる。
 今年は、監督デビュー30年。カルティエ財団現代美術館で回顧展「the air is on fire」が開催(3月~5月)され、日本でも本作品公開を記念して様々(さまざま)な展覧会、イベントが開催される(詳細は『インランド・エンパイア』の公式サイトへ)。
 また、2001年より自らの会員制サイト(英語、www.davidlynch.com)でより自由な制作活動も進行させている。成熟を拒む巨匠の面目躍如、である。
 ともあれ、彼の映画において、さもわかったかのように語ることほど無粋なものはない。ただ黙って映画館の暗闇に座り、不穏で淫靡なリンチの世界に浸ること。映画冒頭のがりがりとSP盤の溝を刻む鉄針のアップと、不気味なノイズから、私たちは一気にあのリンチ・ワールドに引き込まれていくことだろう

疲れたら、猫の本でも。

2007-11-08 14:51:24 | 書評
先月は、結構忙殺された。いつも疲れたときは、音楽を聴くか、仕事とまったく関係ない本を近くのカフェに行って、だらだらと読む。あんまり現実ばなれした本は、戻ってこれなくなるので、ちょっとだけ現実ずれしたものがいい。僕にとって、猫は人類と同じぐらい大事な生き物なので、今回は数多ある猫本から、ご推薦を。
エッセイものは、ほんとにたくさんあるが、村松友視 『アブサン物語』シリーズ、保坂和志『猫に時間の流れる』、町田康『猫にかまけて』中島らも『とらちゃん的日常』等、いずれも猫好き作家ならではの猫との距離感が絶妙。どうも同じ猫好きでも、男性作家と女性作家は、猫との距離感が微妙に違うようだ。ちょっと古くは金井美恵子『迷い猫あずかってます』、稲葉真弓『ミーのいない朝』、藤堂志津子『秋の猫』などは、猫が作家自身のキャラクターと重なり心に残る作品。萩原朔太郎の『猫町』も、幻想的で結構すきだ。写真では、やはり岩合光昭『海ちゃん』。うちの猫はこいつにちょっと似てる。でも僕にとって、猫に関する座右の書といえば、ポール・ギャリコ『猫語の教科書』。こんなに猫を通じて人間を見つめた文章はなかなかない。おすすめです。

20年来のサックス

2007-11-08 14:47:30 | 音楽


昨月、ソプラノサックスを買った。キャノンボールのブラックニッケルのやつ。深い光沢を放ち、存在感がある。学生時代から吹いていたものは、すでに押入れの中でさびていた。まだ、音色を取り戻す段階。それにしても、指が動かない。頭の中では、山のようにフレーズがなっているのに、リズムと速度を乗せることができない。しかし、楽器と自分の息を合わせていくだけで、とても一体感がある。キャノンボールの管は少し太いようで、厚みがありちょっと粗い音が出る。よく、鳴る。あの不安定でざらついたソプラノ独特の中音域の音色が、どんどん自分の身体にフィードバックして、心地よい。40代を過ぎると、時々時間の軸がいったり来たりする。これのせいで、意味もないことに熱中し続けていた大学時代を、思い起こしたりすることが増えた。ジャズは、やはり一生モノだ。


留学生たちのつぶやき

2007-11-08 03:14:50 | エッセイ
 大学で学生と向き合うようになって、もう6年が過ぎた。仕事の延長として引き受けたことが、その後こんなに自分の人生に影響を及ぼすとは、思っても見なかった。
 多くの留学生、特にアジアからの留学生を受け入れている学部なので、近年のアジアの隆盛が訪れる彼らの変化に刻々と現れる。最初の頃は、見るからにみんなまだ貧乏で、一家の希望を背負ってやってきました、という学生たちが、食い入るように真剣なまなざしで、授業を受けていた。私は、教室の中に生まれる日本の大学生とアジアの大学生のはっきりとした空間的な分裂の中、粛々と講義をするほかなかった。
 経済的な背景が違いすぎるのだ。ぎりぎりの生活費の中、日中はすべての授業に出て、終わると深夜までアルバイト。遊ぶこと、話すことでつながっていく日本の大学生とは、まったく交流する時間がない。彼らにとっては東京での大学生活は、日々が闘いなのだ。
 やがて彼らは、各国ごとにグループ化され、大学側の意図に反してディスコミュニケーション化していく。「国際的で豊かな交流」ではなく、「静かに分断」されたムードが醸成されていた。
 しかし、ここ5年ほどの中で、更に続々と入学してくるアジアからの新入生に徐々に変化が現れてくる。少しずつ経済的に豊かになってきているのだ。そして、これはあくまでも主観かもしれないが、彼らの中に「個人」が芽生えてきているように思う。極めて大衆的なこの大学にやってくる留学生は、おそらく向こうでも生まれつつある「大衆層」の師弟たちなのだろう。
最近相談に乗った留学生たちは、こう言った。
「日本に来て、学生たちが自分のやりたいことを探しているのに驚いた。中国では、何ができてどこに就職できるかが大事で、自分の好きなことを仕事にしたいと言うのは、一部の人だけだ。彼らを見ていて、私は自分のことをもう一度振り返ろうと思った」
「僕は、向こうではずっと変わっていると言われ、辛かった。こちらへこれば新しい世界が見つかると思った。日本は格差社会だと言うが、こんなに恵まれた格差社会はない。がんばれば、評価してもらえるんだから。個人の嗜好を大事にできるんだから」
彼らは現在、大学院に進み、「自分探し」をしている。

 アジアの高度経済成長の中、留学生たちは世界中に増殖し、先進国の懐で「自分探し」を始める。かたや格差社会の真っ只中、日本の底辺をさまようフリーターたちは、「自由でゆとりある教育」の結果生まれた、「何をしていいかわからなくなった」人たちの群れである。いかなる「壁」も越えず、いやいかなる「壁」の存在も知らないまま、人生を歩いてきてしまった一群がいる。

大学は、いつまでその「生産工場」であり続けるのだろうか。





JAZZが鳴る場所、時間

2007-10-16 02:28:24 | 音楽
夜帰ってテレビをつけたら、9月に東京国際フォーラムでやっていた東京JAZZを放送していた。今日から、四夜連続でやるらしい。ジャズは、本と同じぐらいに好きだが、最近こういうコンサートに行かなくなって久しい。

80年代、晴れて大学に合格し、私が最初にキャンパスの中を歩きまわり探し当てたのは、JAZZ研だった。当時のあまりきれいでない大学キャンパスの奥、一見すると廃屋かと見間違える長屋のような一角に、その部室はあった。戦後GHQの宿泊所にもなったその棟は、音楽関係の部室棟として使われ、周囲からは様々な楽器を練習する音が鳴っていた。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」の最初の譜面が書かれたボードを外壁に掲げたその部室はひっそりとしていて、普通の新入生ならとても入るのを躊躇わせるような空気があった。しかし、とにかく大学に入ったらジャズの道にのめりこもうと決めていた私は、いさんでドアを開けた。

たくさんの可能性を秘めていたかもしれない私の大学生活は、その時にほぼ確定していたんだろうと、思う。いや、その後の人生もいくらか決めてしまったのかもしれない。

それからの5年間の時間は、山のような量の本と音楽、数少ない友人との濃密な時間、数度の貧乏旅行、そして忘れることのできない少々の政治的体験と恋愛で終わった。

就職のため上京し、メディアの世界を転々としながらも、いつも自分のスタートラインは、あそこにあったような気がしていた。クリエイティブの原点でもあり、精神形成の原点でもあった場所。タバコの煙と調律の狂ったグランドピアノと、ほこりだらけのソファとテーブル。ゴミためのような場所で毎夜ジャズを演奏していた。僕にとってのジャズは、決しておしゃれな空間に響く音楽ではないのだ。

最近、耳に心地よいジャズが、ビジネスの中心地で、高級な料理や酒と共に奏でられるようになった。でも、私はどうもあの空間が苦手だ。ショーとしてお約束の音楽を聴かされるのが、ちょっとたまらない。偏屈なのかもしれないが、苦しんでいないミュージシャンを見るのが、いやだ。自分でも予期せぬ音を出してしまう、挑発的な空間になっていないジャズの現場はいやだ。ジャズは、常に弾くものも聞くものも裏切っていく、「未完の音楽」だったはずだ。

毎夜、たいした実力もないのに、いそいそと集まり、飽きることもなく、スタンダードナンバーを肴に、延々とつたない楽器のおしゃべりを繰り広げていた大学での時間。極めてプライベートな会話でありながら、連綿と連なるジャズの歴史のフォーマットに合流していく瞬間。

私は、ジャズのライブ空間に、その個別性と普遍性の瞬間を求めてしまうのだ。




映画「サウスバウンド」

2007-10-11 01:05:05 | 映画
自宅近くのシネコンで映画になった「サウスバウンド」を見た。
「映画になった」というのは、以前この原作である小説「サウスバウンド」を読み、その作者の力量に感銘を受けていたからだ。通常、小説で気にいった作品は映画では見ないようにしている。やはり、文章からイメージした世界が自分の中にかなり出来上がっていると、まず映画に違和感を受けることが多い。この映画の宣伝予告でのコメディタッチの作りに、すでに見る前から落胆していたのだが、一抹の期待を捨てきれず、映画館に足を運んでしまった。平日夜の郊外のシネコンは、客もまばらで、寂しさも少し漂う。しかし、その中に数人普段見かけない中高年の男性一人客がちらほら。おそらく、同じ原作を読んで、つい来てしまった口だろう。

映画は、小説通り前半を東京中野あたりを舞台に、やや説明口調で忙しく展開する。奥田氏の世界に登場する人物のキャラクターを映像化するのは、なんと難しいかと、ここで改めて確認。元過激派の闘士夫婦の持つ片鱗は、この前半ではほとんどない。中途半端なコメディに終始している感が。小説で展開されたまさに現在も続いている「過激な」友人関係や事件も、ここではカット。そのため、沖縄へ移り住んでいく根本的な動機がうまく説明できていない。また、子供たちの喧嘩でのリアリティある文体、過激派同士の「内ゲバ」シーンなどの複線もさすがに映像化はできなかったようだ。

しかし、後半の八重山・西表島への引越しからの部分は、徐々にあの小説世界の持つルーツのようなものが動き始める。
私自身、今まで沖縄・八重山諸島へは、数度行ったことがあるので、そのイメージを一定共有できるが、ここほど「国家」から遠い場所はない。過激派・アナーキストとしての彼のルーツがここで形成されたとすれば、信じるものとは自然と土地と住民たちによる「自治」だけだ。しかし、その「桃源郷」にも、現代の力は押し寄せて来ていた。
小説において、息をもつかせぬ面白さで展開された強制立ち退きとその抵抗のシーンは、かなりあっさりと描かれてはいたが、主人公夫婦が必ず負けるとわかっている闘いにあえて挑み敗北した時の、その伏し目がちでどこか過去を追想するかのような視線を交わす場面は、少し泣けた。

最後の親子の別れのシーンでの言葉もいい。
「俺のまねをするな。俺は極端な人間だからな」
「負けてもいいから、闘え。孤立を恐れるな。必ず、どこかに理解者はいるんだ」

ますます、周囲の空気ばかり読み、勝ち馬に乗るしか生き方を知らなくなってきた今の若者たちに、この言葉は、いったいどう響くんだろうか。

伝説の楽園「パイパティローマ」へと旅立ったあの二人は、おそらく最後のアナーキストだったのかもしれない。















『オーシャンズ13』  変貌するラスベガスへのオマージュ

2007-10-08 14:55:43 | 映画
変貌するラスベガスへのオマージュ
『オーシャンズ13』

先日、某紙に書いた映画評です。

記者会見自身がまるでパロディであるかのように、来日したジョージ・クルーニーは、次々とハズしたジョークを連発していた。まるで、「この映画を真面目に見ちゃだめだよ」と言わんばかりに。そう、この映画をシリーズ最初から見ている人には既におわかりのように、これはかつてのフランク・シナトラを中心としたスターたちのお遊び映画「オーシャンと十一人の仲間」のリメイクであり、現代のハリウッド・スターが豪華キャストで演じる、生粋のエンタテインメント・コメディなのだ。

詐欺師ダニー・オーシャンと11人の仲間が繰り広げる泥棒活劇も、いよいよ第3弾を迎え、今回は再び舞台をラスベガスに戻し、今までになく「ド派手」な仕掛けを用意してくれた。仲間の一人ルーベンが、ホテル王ウイリー・バンクと新たなホテル経営を約束していたが裏切られ、そのショックで心筋梗塞に倒れる。報せを聞いた仲間たちはバンクに復讐を誓い、戦略を立て始める。狙いはホテルのグランド・オープンに合わせた壮大なリベンジの仕掛け。また、これにかつての宿敵ベネディクトをも味方に引き入れ、互いの策略が錯綜していく展開だ。
新たな敵役は、アル・パチーノ演じるウイリー・バンク。冷酷なホテル王という役柄だが、とてもそうは見えず、彼らが次々と仕掛ける罠にきっちりはめられていく様は、愛らしささえ。バンクの秘書役エレン・バーキンは更にコミカル。ホストに扮したマット・デイモンに、媚薬を嗅がされよろめいていく様は、以前登場した女優たちに比べ、完全にコメディ扱いである。監督ソダーバーグは、シリーズ3作目でどこか吹っ切れたのか、きわめてストレートかつシンプルな構成で盛り上げ、フィナーレを飾ろうとしているように見える。
1950年代よりハリウッド芸能人達の遊び場として有名になり、一気にカジノ・シティとしての地位を確立したラスベガス。少し近寄りがたいその「悪所」としてのイメージこそが、またシンボルでもあったはずだ。90年代、現代のホテル王スティーブ・ウィンのアトラクションを盛り込んだホテル建設により、ラスベガスは「ギャンブルの街」から「家族で楽しめる街」に取って替わった。しかしその路線ももはや力尽き、「大人向け高級総合アミューズメント・シティ」「コンベンション・シティ」などへと転換を模索するが、今やアジア最大のカジノ・リゾート「マカオ」に、その地位を譲りそうな状態。まさに迷走を続けている街なのだ。
映画の中で、かつて共にシナトラと握手した人間として彼を信頼しようとするルーベンに「もうお前は古いんだ」と言った冷酷なバンクのせりふも、「この街もホテルもみんな変わっちまった」とブラッド・ピット扮するラスティーが嘆くのも、かつての「悪所」だったラスベガスが、今や健全でビジネスライクな街に変貌しつつあることを感じさせる。その意味で、この映画はかつての砂漠の中の蜃気楼、「夢」の街ラスベガスへの優しいオマージュともいえるのである。



夢見る猫

2007-10-08 14:27:46 | 
今年の夏はなんとも暑かった。そのせいか、どうにもこうにも寝つけなく、寝不足の日も多かった。根っからの夜型人間の私は、深夜の仕事も珍しくなく、夜が明けてきた頃、ベッドに入ることも多い。既にその時、ベッドの上で、のびのび寝ているのが、うちの二匹の猫である。
 一匹は、ベッドサイドのライトの下に横向きで、すやすやと。もう一匹は、足元の中央付近に丸くなって。しかし、今年の夏はよほど暑いのか、二匹共、体を大きく伸ばして、目一杯ベッドを占領するので、私の寝る場所がない。そこで、熟睡している彼らを、それぞれ足元か下のフローリングに移動させ、寝場所を確保する。
ある日、仕事を終え寝室に入った時、声がした。それはしゃべる様な、泣くような声だった。見ると、小さく暗い寝室の明かりの下で寝ていた雌猫の方が、両手で顔を隠して、ちょっと震えて寝言を言っていた。夢でも見ているのか。なんとも愛らしい。人間の女性でも、こんな愛らしい寝顔、寝言は見せないし、言わないだろう。まあ、かつてはそんな場面も少しはあったが。遠い昔だ。
 自分自身、あまり夢をみなくなった、と思う。そのかわり、今の毎日が夢の中のような気さえする。どこか、現実感のない40代このごろである。