東京猫暮らし

東京在住の40代自由業男と2匹の猫とののどかな日常

NOWADAYS

2008-10-26 16:02:44 | エッセイ
 ふらっと寄ったHMVで試聴し即買い。どちらも10代より好きで聞き続けてきたミュージシャンだが、深夜寝る前の静けさの中で聞いていると、体中に浸み込んで来る。「Sophisticated Lady」「Eleanor Rigby」「I wish you love」「Lush Life」等、どれも丁寧で静謐、しかも濃厚な味わいの演奏。渡辺香津美の、空間を泳ぎ満たしていく絶妙な演奏に、若かりし日の『中本マリ3』でのバラードのバッキングを思い出した。吉田美奈子の声と歌唱は、ますますオリジナリティの極に向かって突き進んでいるかのように感じる。ジョニ・ミッチェル『Shadows and Light』やリッキーリージョーンズ『My Funny Valentine』も彷彿とさせる、世界に通じる音だ。

ラスト、コーション 色/戒

2008-02-03 02:45:42 | エッセイ
久し振りに渋谷に行き、映画を見た。昨年のヴェネチア国際映画祭グランプリのアン・リー監督『ラスト、コーション』。初日ということもあり、ル・シネマは、どの回も満員御礼。ひとつ回をずらして入る。

それにしても、若い人が多い。土曜日だからか、渋谷だからか。始める前のどこかざわついた感じは、この街特有の落ち着きのなさと同じ。映画館という空間は、他人同士が暗闇を一時共有し、互いに観客として最適な映画環境を作り上げるものだ、というかつてのシネフリークの感覚は、自宅でのDVD視聴が当たり前になった現在、あまり通用しないのだろう。鑑賞中、何度か現実に引き戻される雑音や声に悩まされた。

1940年代、日本占領下の上海を舞台に、虚無的な影を持つ傀儡政権特務機関の男(トニー・レオン)と若くして抗日運動の中にとび込んだ女スパイ(タン・ウエイ)の運命的な出会いと悲劇的な結末を描いた本作品。前半香港で学生生活を送っていた女の来歴を、あの時代としてはいささか牧歌的とも言えるタッチで描いていく。その彼らの抗日運動の「まねごと」が、「ある殺人」により一気に抜き差しならない運動のるつぼに彼らを巻き込んでいく。

冒頭の女性4人が麻雀をするシーンから、見事な映像美が展開する。この麻雀シーンは何度か繰り返されるが、4人の刻々と変わる表情を追いかけるカメラ、特にスパイとしてもぐりこんでいたタンウェイの見せる視線の演技は、絶妙な陰影と艶ぽさを含み見事だ。

この映画は、トニーレオンとタンウェイのための映画だ。二人が出会った時から、この映画はある方向に向けて一直線に進んでいく。二人が交わし続ける表情と視線がこの映画のすべてと言ってもいいかもしれない。疑いながらも、騙しながらも、惹かれあっていく二人の駆け引きは、やがて演技と真実の境界を超えてしまう。

話題になったセックスシーンは、結構カットされボカシも入っているようで、かなり編集の跡が見られたが、それでも死に抗うかのようにむさぼり合う肉体はある種の美を孕むものだと感じ取れるいくつかの美しいショットがあった。

彼女が最後に指輪をプレゼントされるシーン、そして暗殺されようとしていた彼を逃がしてしまうシーンはこの映画のクライマックスだが、いくつかの謎が残り映画は終わる。その謎が女というものの謎なのか、あの究極の状況で出会った二人に起こった特別な物語だったのかは、この映画を見た人それぞれの人生、恋愛経験にも大いに左右されるような気がする。深いトラウマを抱え、なおも生きていく特務機関の男(トニーレオン)の虚無は計り知れない。









留学生たちのつぶやき

2007-11-08 03:14:50 | エッセイ
 大学で学生と向き合うようになって、もう6年が過ぎた。仕事の延長として引き受けたことが、その後こんなに自分の人生に影響を及ぼすとは、思っても見なかった。
 多くの留学生、特にアジアからの留学生を受け入れている学部なので、近年のアジアの隆盛が訪れる彼らの変化に刻々と現れる。最初の頃は、見るからにみんなまだ貧乏で、一家の希望を背負ってやってきました、という学生たちが、食い入るように真剣なまなざしで、授業を受けていた。私は、教室の中に生まれる日本の大学生とアジアの大学生のはっきりとした空間的な分裂の中、粛々と講義をするほかなかった。
 経済的な背景が違いすぎるのだ。ぎりぎりの生活費の中、日中はすべての授業に出て、終わると深夜までアルバイト。遊ぶこと、話すことでつながっていく日本の大学生とは、まったく交流する時間がない。彼らにとっては東京での大学生活は、日々が闘いなのだ。
 やがて彼らは、各国ごとにグループ化され、大学側の意図に反してディスコミュニケーション化していく。「国際的で豊かな交流」ではなく、「静かに分断」されたムードが醸成されていた。
 しかし、ここ5年ほどの中で、更に続々と入学してくるアジアからの新入生に徐々に変化が現れてくる。少しずつ経済的に豊かになってきているのだ。そして、これはあくまでも主観かもしれないが、彼らの中に「個人」が芽生えてきているように思う。極めて大衆的なこの大学にやってくる留学生は、おそらく向こうでも生まれつつある「大衆層」の師弟たちなのだろう。
最近相談に乗った留学生たちは、こう言った。
「日本に来て、学生たちが自分のやりたいことを探しているのに驚いた。中国では、何ができてどこに就職できるかが大事で、自分の好きなことを仕事にしたいと言うのは、一部の人だけだ。彼らを見ていて、私は自分のことをもう一度振り返ろうと思った」
「僕は、向こうではずっと変わっていると言われ、辛かった。こちらへこれば新しい世界が見つかると思った。日本は格差社会だと言うが、こんなに恵まれた格差社会はない。がんばれば、評価してもらえるんだから。個人の嗜好を大事にできるんだから」
彼らは現在、大学院に進み、「自分探し」をしている。

 アジアの高度経済成長の中、留学生たちは世界中に増殖し、先進国の懐で「自分探し」を始める。かたや格差社会の真っ只中、日本の底辺をさまようフリーターたちは、「自由でゆとりある教育」の結果生まれた、「何をしていいかわからなくなった」人たちの群れである。いかなる「壁」も越えず、いやいかなる「壁」の存在も知らないまま、人生を歩いてきてしまった一群がいる。

大学は、いつまでその「生産工場」であり続けるのだろうか。