東京猫暮らし

東京在住の40代自由業男と2匹の猫とののどかな日常

JAZZが鳴る場所、時間

2007-10-16 02:28:24 | 音楽
夜帰ってテレビをつけたら、9月に東京国際フォーラムでやっていた東京JAZZを放送していた。今日から、四夜連続でやるらしい。ジャズは、本と同じぐらいに好きだが、最近こういうコンサートに行かなくなって久しい。

80年代、晴れて大学に合格し、私が最初にキャンパスの中を歩きまわり探し当てたのは、JAZZ研だった。当時のあまりきれいでない大学キャンパスの奥、一見すると廃屋かと見間違える長屋のような一角に、その部室はあった。戦後GHQの宿泊所にもなったその棟は、音楽関係の部室棟として使われ、周囲からは様々な楽器を練習する音が鳴っていた。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」の最初の譜面が書かれたボードを外壁に掲げたその部室はひっそりとしていて、普通の新入生ならとても入るのを躊躇わせるような空気があった。しかし、とにかく大学に入ったらジャズの道にのめりこもうと決めていた私は、いさんでドアを開けた。

たくさんの可能性を秘めていたかもしれない私の大学生活は、その時にほぼ確定していたんだろうと、思う。いや、その後の人生もいくらか決めてしまったのかもしれない。

それからの5年間の時間は、山のような量の本と音楽、数少ない友人との濃密な時間、数度の貧乏旅行、そして忘れることのできない少々の政治的体験と恋愛で終わった。

就職のため上京し、メディアの世界を転々としながらも、いつも自分のスタートラインは、あそこにあったような気がしていた。クリエイティブの原点でもあり、精神形成の原点でもあった場所。タバコの煙と調律の狂ったグランドピアノと、ほこりだらけのソファとテーブル。ゴミためのような場所で毎夜ジャズを演奏していた。僕にとってのジャズは、決しておしゃれな空間に響く音楽ではないのだ。

最近、耳に心地よいジャズが、ビジネスの中心地で、高級な料理や酒と共に奏でられるようになった。でも、私はどうもあの空間が苦手だ。ショーとしてお約束の音楽を聴かされるのが、ちょっとたまらない。偏屈なのかもしれないが、苦しんでいないミュージシャンを見るのが、いやだ。自分でも予期せぬ音を出してしまう、挑発的な空間になっていないジャズの現場はいやだ。ジャズは、常に弾くものも聞くものも裏切っていく、「未完の音楽」だったはずだ。

毎夜、たいした実力もないのに、いそいそと集まり、飽きることもなく、スタンダードナンバーを肴に、延々とつたない楽器のおしゃべりを繰り広げていた大学での時間。極めてプライベートな会話でありながら、連綿と連なるジャズの歴史のフォーマットに合流していく瞬間。

私は、ジャズのライブ空間に、その個別性と普遍性の瞬間を求めてしまうのだ。




映画「サウスバウンド」

2007-10-11 01:05:05 | 映画
自宅近くのシネコンで映画になった「サウスバウンド」を見た。
「映画になった」というのは、以前この原作である小説「サウスバウンド」を読み、その作者の力量に感銘を受けていたからだ。通常、小説で気にいった作品は映画では見ないようにしている。やはり、文章からイメージした世界が自分の中にかなり出来上がっていると、まず映画に違和感を受けることが多い。この映画の宣伝予告でのコメディタッチの作りに、すでに見る前から落胆していたのだが、一抹の期待を捨てきれず、映画館に足を運んでしまった。平日夜の郊外のシネコンは、客もまばらで、寂しさも少し漂う。しかし、その中に数人普段見かけない中高年の男性一人客がちらほら。おそらく、同じ原作を読んで、つい来てしまった口だろう。

映画は、小説通り前半を東京中野あたりを舞台に、やや説明口調で忙しく展開する。奥田氏の世界に登場する人物のキャラクターを映像化するのは、なんと難しいかと、ここで改めて確認。元過激派の闘士夫婦の持つ片鱗は、この前半ではほとんどない。中途半端なコメディに終始している感が。小説で展開されたまさに現在も続いている「過激な」友人関係や事件も、ここではカット。そのため、沖縄へ移り住んでいく根本的な動機がうまく説明できていない。また、子供たちの喧嘩でのリアリティある文体、過激派同士の「内ゲバ」シーンなどの複線もさすがに映像化はできなかったようだ。

しかし、後半の八重山・西表島への引越しからの部分は、徐々にあの小説世界の持つルーツのようなものが動き始める。
私自身、今まで沖縄・八重山諸島へは、数度行ったことがあるので、そのイメージを一定共有できるが、ここほど「国家」から遠い場所はない。過激派・アナーキストとしての彼のルーツがここで形成されたとすれば、信じるものとは自然と土地と住民たちによる「自治」だけだ。しかし、その「桃源郷」にも、現代の力は押し寄せて来ていた。
小説において、息をもつかせぬ面白さで展開された強制立ち退きとその抵抗のシーンは、かなりあっさりと描かれてはいたが、主人公夫婦が必ず負けるとわかっている闘いにあえて挑み敗北した時の、その伏し目がちでどこか過去を追想するかのような視線を交わす場面は、少し泣けた。

最後の親子の別れのシーンでの言葉もいい。
「俺のまねをするな。俺は極端な人間だからな」
「負けてもいいから、闘え。孤立を恐れるな。必ず、どこかに理解者はいるんだ」

ますます、周囲の空気ばかり読み、勝ち馬に乗るしか生き方を知らなくなってきた今の若者たちに、この言葉は、いったいどう響くんだろうか。

伝説の楽園「パイパティローマ」へと旅立ったあの二人は、おそらく最後のアナーキストだったのかもしれない。















『オーシャンズ13』  変貌するラスベガスへのオマージュ

2007-10-08 14:55:43 | 映画
変貌するラスベガスへのオマージュ
『オーシャンズ13』

先日、某紙に書いた映画評です。

記者会見自身がまるでパロディであるかのように、来日したジョージ・クルーニーは、次々とハズしたジョークを連発していた。まるで、「この映画を真面目に見ちゃだめだよ」と言わんばかりに。そう、この映画をシリーズ最初から見ている人には既におわかりのように、これはかつてのフランク・シナトラを中心としたスターたちのお遊び映画「オーシャンと十一人の仲間」のリメイクであり、現代のハリウッド・スターが豪華キャストで演じる、生粋のエンタテインメント・コメディなのだ。

詐欺師ダニー・オーシャンと11人の仲間が繰り広げる泥棒活劇も、いよいよ第3弾を迎え、今回は再び舞台をラスベガスに戻し、今までになく「ド派手」な仕掛けを用意してくれた。仲間の一人ルーベンが、ホテル王ウイリー・バンクと新たなホテル経営を約束していたが裏切られ、そのショックで心筋梗塞に倒れる。報せを聞いた仲間たちはバンクに復讐を誓い、戦略を立て始める。狙いはホテルのグランド・オープンに合わせた壮大なリベンジの仕掛け。また、これにかつての宿敵ベネディクトをも味方に引き入れ、互いの策略が錯綜していく展開だ。
新たな敵役は、アル・パチーノ演じるウイリー・バンク。冷酷なホテル王という役柄だが、とてもそうは見えず、彼らが次々と仕掛ける罠にきっちりはめられていく様は、愛らしささえ。バンクの秘書役エレン・バーキンは更にコミカル。ホストに扮したマット・デイモンに、媚薬を嗅がされよろめいていく様は、以前登場した女優たちに比べ、完全にコメディ扱いである。監督ソダーバーグは、シリーズ3作目でどこか吹っ切れたのか、きわめてストレートかつシンプルな構成で盛り上げ、フィナーレを飾ろうとしているように見える。
1950年代よりハリウッド芸能人達の遊び場として有名になり、一気にカジノ・シティとしての地位を確立したラスベガス。少し近寄りがたいその「悪所」としてのイメージこそが、またシンボルでもあったはずだ。90年代、現代のホテル王スティーブ・ウィンのアトラクションを盛り込んだホテル建設により、ラスベガスは「ギャンブルの街」から「家族で楽しめる街」に取って替わった。しかしその路線ももはや力尽き、「大人向け高級総合アミューズメント・シティ」「コンベンション・シティ」などへと転換を模索するが、今やアジア最大のカジノ・リゾート「マカオ」に、その地位を譲りそうな状態。まさに迷走を続けている街なのだ。
映画の中で、かつて共にシナトラと握手した人間として彼を信頼しようとするルーベンに「もうお前は古いんだ」と言った冷酷なバンクのせりふも、「この街もホテルもみんな変わっちまった」とブラッド・ピット扮するラスティーが嘆くのも、かつての「悪所」だったラスベガスが、今や健全でビジネスライクな街に変貌しつつあることを感じさせる。その意味で、この映画はかつての砂漠の中の蜃気楼、「夢」の街ラスベガスへの優しいオマージュともいえるのである。



夢見る猫

2007-10-08 14:27:46 | 
今年の夏はなんとも暑かった。そのせいか、どうにもこうにも寝つけなく、寝不足の日も多かった。根っからの夜型人間の私は、深夜の仕事も珍しくなく、夜が明けてきた頃、ベッドに入ることも多い。既にその時、ベッドの上で、のびのび寝ているのが、うちの二匹の猫である。
 一匹は、ベッドサイドのライトの下に横向きで、すやすやと。もう一匹は、足元の中央付近に丸くなって。しかし、今年の夏はよほど暑いのか、二匹共、体を大きく伸ばして、目一杯ベッドを占領するので、私の寝る場所がない。そこで、熟睡している彼らを、それぞれ足元か下のフローリングに移動させ、寝場所を確保する。
ある日、仕事を終え寝室に入った時、声がした。それはしゃべる様な、泣くような声だった。見ると、小さく暗い寝室の明かりの下で寝ていた雌猫の方が、両手で顔を隠して、ちょっと震えて寝言を言っていた。夢でも見ているのか。なんとも愛らしい。人間の女性でも、こんな愛らしい寝顔、寝言は見せないし、言わないだろう。まあ、かつてはそんな場面も少しはあったが。遠い昔だ。
 自分自身、あまり夢をみなくなった、と思う。そのかわり、今の毎日が夢の中のような気さえする。どこか、現実感のない40代このごろである。