東京猫暮らし

東京在住の40代自由業男と2匹の猫とののどかな日常

疲れたら、猫の本でも。

2007-11-08 14:51:24 | 書評
先月は、結構忙殺された。いつも疲れたときは、音楽を聴くか、仕事とまったく関係ない本を近くのカフェに行って、だらだらと読む。あんまり現実ばなれした本は、戻ってこれなくなるので、ちょっとだけ現実ずれしたものがいい。僕にとって、猫は人類と同じぐらい大事な生き物なので、今回は数多ある猫本から、ご推薦を。
エッセイものは、ほんとにたくさんあるが、村松友視 『アブサン物語』シリーズ、保坂和志『猫に時間の流れる』、町田康『猫にかまけて』中島らも『とらちゃん的日常』等、いずれも猫好き作家ならではの猫との距離感が絶妙。どうも同じ猫好きでも、男性作家と女性作家は、猫との距離感が微妙に違うようだ。ちょっと古くは金井美恵子『迷い猫あずかってます』、稲葉真弓『ミーのいない朝』、藤堂志津子『秋の猫』などは、猫が作家自身のキャラクターと重なり心に残る作品。萩原朔太郎の『猫町』も、幻想的で結構すきだ。写真では、やはり岩合光昭『海ちゃん』。うちの猫はこいつにちょっと似てる。でも僕にとって、猫に関する座右の書といえば、ポール・ギャリコ『猫語の教科書』。こんなに猫を通じて人間を見つめた文章はなかなかない。おすすめです。

20年来のサックス

2007-11-08 14:47:30 | 音楽


昨月、ソプラノサックスを買った。キャノンボールのブラックニッケルのやつ。深い光沢を放ち、存在感がある。学生時代から吹いていたものは、すでに押入れの中でさびていた。まだ、音色を取り戻す段階。それにしても、指が動かない。頭の中では、山のようにフレーズがなっているのに、リズムと速度を乗せることができない。しかし、楽器と自分の息を合わせていくだけで、とても一体感がある。キャノンボールの管は少し太いようで、厚みがありちょっと粗い音が出る。よく、鳴る。あの不安定でざらついたソプラノ独特の中音域の音色が、どんどん自分の身体にフィードバックして、心地よい。40代を過ぎると、時々時間の軸がいったり来たりする。これのせいで、意味もないことに熱中し続けていた大学時代を、思い起こしたりすることが増えた。ジャズは、やはり一生モノだ。


留学生たちのつぶやき

2007-11-08 03:14:50 | エッセイ
 大学で学生と向き合うようになって、もう6年が過ぎた。仕事の延長として引き受けたことが、その後こんなに自分の人生に影響を及ぼすとは、思っても見なかった。
 多くの留学生、特にアジアからの留学生を受け入れている学部なので、近年のアジアの隆盛が訪れる彼らの変化に刻々と現れる。最初の頃は、見るからにみんなまだ貧乏で、一家の希望を背負ってやってきました、という学生たちが、食い入るように真剣なまなざしで、授業を受けていた。私は、教室の中に生まれる日本の大学生とアジアの大学生のはっきりとした空間的な分裂の中、粛々と講義をするほかなかった。
 経済的な背景が違いすぎるのだ。ぎりぎりの生活費の中、日中はすべての授業に出て、終わると深夜までアルバイト。遊ぶこと、話すことでつながっていく日本の大学生とは、まったく交流する時間がない。彼らにとっては東京での大学生活は、日々が闘いなのだ。
 やがて彼らは、各国ごとにグループ化され、大学側の意図に反してディスコミュニケーション化していく。「国際的で豊かな交流」ではなく、「静かに分断」されたムードが醸成されていた。
 しかし、ここ5年ほどの中で、更に続々と入学してくるアジアからの新入生に徐々に変化が現れてくる。少しずつ経済的に豊かになってきているのだ。そして、これはあくまでも主観かもしれないが、彼らの中に「個人」が芽生えてきているように思う。極めて大衆的なこの大学にやってくる留学生は、おそらく向こうでも生まれつつある「大衆層」の師弟たちなのだろう。
最近相談に乗った留学生たちは、こう言った。
「日本に来て、学生たちが自分のやりたいことを探しているのに驚いた。中国では、何ができてどこに就職できるかが大事で、自分の好きなことを仕事にしたいと言うのは、一部の人だけだ。彼らを見ていて、私は自分のことをもう一度振り返ろうと思った」
「僕は、向こうではずっと変わっていると言われ、辛かった。こちらへこれば新しい世界が見つかると思った。日本は格差社会だと言うが、こんなに恵まれた格差社会はない。がんばれば、評価してもらえるんだから。個人の嗜好を大事にできるんだから」
彼らは現在、大学院に進み、「自分探し」をしている。

 アジアの高度経済成長の中、留学生たちは世界中に増殖し、先進国の懐で「自分探し」を始める。かたや格差社会の真っ只中、日本の底辺をさまようフリーターたちは、「自由でゆとりある教育」の結果生まれた、「何をしていいかわからなくなった」人たちの群れである。いかなる「壁」も越えず、いやいかなる「壁」の存在も知らないまま、人生を歩いてきてしまった一群がいる。

大学は、いつまでその「生産工場」であり続けるのだろうか。