本と映画の感想文

本と映画の感想文。ネタバレあり。

『バベル-17』

2005年04月17日 | SF
作者:サミュエル・R・ディレーニイ
出版:ハヤカワ文庫(1977/7/10)
初出:1966
ジャンル:SF
評価:11/10

 サミュエル・R・ディレーニイの長編の中では、「簡単な」部類に属するに違いない。少なくとも、この本が「むずかしい」と評されるのを聞いたことはないから。でも、やっぱり、この小説も他のディレーニイ作品と同じく、表面的なストーリー展開と、そこに込められた(あまり隠されていない)メッセージと、さらにその奥に何層にもわたってさまざまな象徴/主張/感情が織り込まれているハズなのだ。それがディレーニイなのだから。
 さて、まずは表面的なストーリーなのだが、すでにこのレベルがとてもおもしろい。
 主人公は宇宙的詩人であり、若く美人で暗号解読のエキスパートのリドラ・ウォン。彼女が、インベーダーによる破壊工作のときに必ず交信されるバベル-17という暗号を解読するため、エキセントリックな中間たちと宇宙を旅する。途中、インベーダーにより、自分たちの命も狙われるが、最後にはバベル-17という暗号の解読とともに、破壊工作の全貌も明らかになる。
 波乱万丈の物語にくわえ、でてくるメンバーたちが多種多彩。リドラを助ける宇宙船乗組員=輸送員(トランスポート)は、自分のからだをサーベルタイガーのように整形しているパイロットや、皮膚がすべて透明で筋肉の動きがそのまま見えるように改造している航宙士(このイメージはものすごく強烈で、たぶん、一生忘れないだろう)、モルグで「死んでいる」のもいるし、本当に零体化しているものもいる。リドラがかれらをスカウトしていくシーンは、一般人の税関職員を狂言回しに、目くるめくイメージが次々と繰りだされる。ディレーニイがウキウキしながらペンを走らせるさまが目にうかぶようだ。
 さて、このような楽しい冒険譚に隠されたテーマはなんだろう? それは、この物語の中心となるバベル-17という言語に集約されている。
 バベル-17には、「敵」に対する攻撃欲求が本質的に組み込まれている。これは思想統制などよりよっぽどおそろしいことだ。思想統制ならば、まず体制的思想があり、一方、これに反する思想が存在するからこそ、それを取り締まるという蛮行が成り立つ。しかし、そこには、こころに秘めておくだけだとしても、反体制的なことを考えるという自由がある。だが、バベル-17を用いるかぎり、「敵」と仲良くしようという考えが芽生える可能性はない。言い換えると、反体制的思想をこころに秘める自由さえないということだ。つまり、言葉/イメージの操作&置き換えをうまくやれば、思想統制なんか不要の国を作ることができるのだ。
 はたして、これはディレーニイの想像だけの話か? すでに言語操作はかなりすすんでいて、現実の世界なんか何にも知らず、養鶏場のブロイラーのような生活を送っているのではないだろうか? しかも、いまの言語を使いつづけるかぎり、その「おかしさ」に気づくことは不可能なのだ。
 さらに、バベル-17には<わたし>や<あなた>の概念がない。これはまさに「個」のない世界=全体主義的社会のことである。物語の中で曰く、「<わたし>をはずしておけば、自省作用は起こらない・・・そうすることによって抽象化象徴化意識を完全に除去することができる」(P.294)らしい。つまり、命令されたことを、何の疑いもなく、命令された通りに実行すること、まさに全体主義社会そのものだ。
 ここで、ミミズをエサに、リドラへの挨拶をしゃべるよう仕込まれた九官鳥が、このテーマを象徴する存在として重要な意味を持つことに気付く(こういった心憎い「小道具」の使い方もディレーニイの特徴だ)。九官鳥は、自分の意志で「外ハ天気ガヨクテ、気持ガイイネ」と挨拶しているのではない。九官鳥の頭の中では、挨拶=エサのミミズであり、教えられた通りに声を出すこと以外の選択はない。まさに、バベル-17に操られた人間と状況は同じだ。
 ブッチャーの状況も九官鳥となんら変わりはない。ブッチャーは兵器開発者の息子として、諜報・破壊活動をおこなうために教育され、肉体的にも改造されて、実際に破壊活動をおこなうのだが、ここには彼の意思が入り込む余地はまったくなかった。それはバベル-17による自分の意志のない破壊活動となんら変わりはない。作者はここで、体制のこちら側か向こう側か/その動機が善意かどうか/大義名分があるかどうかなど関係なく、可能性を摘み取り、ある特定の方向へのみすすむよう仕向けることそのものが破壊活動なのだといいたかったのではなかろうか?
 一方、九官鳥やブッチャーといった拘束されたものに対抗するものとして登場するのが、リドラや彼女とともに宇宙を駆ける輸送員たちだ。
 かれらは体制側からみればアンダーグラウンドな存在であり、文字通り、地下の酒場にたむろしている。しかし、特異な才能をもっていて、彼らがいなければ宇宙船を飛ばすことはできない。さらに物語では、体制側を代表する税関員の才能は科学的、かれら輸送員の才能は芸術的なものとされている。つまり、科学者、あるいは、科学の進歩ではなく、芸術家こそ、宇宙への進出に象徴される人類の発展と進歩には欠かせない存在という意味が込められているのだ。
 ただ、物語の最後では、体制側である税関員のひとりが、みずからのからだに美容整形を施し、すこしだけ輸送員の仲間入りをする。作者は体制側の反体制側へ歩み寄りを期待しているのだ。
 この小説が書かれたのは1966年であり、ここに描かれているのは2つの世界の戦争である。主人公リドラは、その戦争の道具となったバベル-17という言語のなぞを解き明かした。しかし、彼女は自分が属する世界に勝利をもたらすわけではなく、自分たちの手で戦争を終わらせることにする。結局、リドラ/ディレーニイにとって、どちらの体制も窮屈なものでしかないのだろう。作者の願いは本文中に書かれているとおり、「いろんな世界を切り開き、それらをつなぎ合わせて――ここが大事なんだが――両方をより大きなものにしよう」(P.283)ということに違いない。そして、それをおこなうのは、リドラや輸送員に象徴される自由な芸術家連中なのだ。

(補足)
 P.136に「エンパイア・スター」を書いたミュールズ・アラインライドの話が出てくる。リドラと3人組を組んでいたが、コールダー病にかかり、治療法が見つかるまで人口冬眠している。