作者:ジュディス・メリル編
出版:創元推理文庫(1976/4/23)
初出:1968
ジャンル:SF
評価:4/10
邦題は「年間SF傑作選」だが、原題は"SF 12"。それまでついていた"Best"という冠はなくなった。ま、そのほうがいいね。傑作選ではない。
ウーマンリブ運動や性の開放など、当時の先端の運動に関する小説が目につくが、こういう流行りものは風化も早い。詩のよしあしはよくわからない、というか、だいたいSFなのか? バラード、ラファティ、バロウズ、ボブ・ショウはそれなり。しかし、ディレーニイの「スター・ピット」、これは大傑作だ。
シネ魔術師 / テューリ・カプファーバーグ
特になし。
浮世離れて / ハーヴィー・ジェイコブズ
ハリウッドというのは自然の怪物なんかじゃ太刀打ちできないほど恐ろしい世界ということで。
ところで、「とみこうみ」とは、なんぞや?と思ったら、「左見右見」らしい。・・・て、こんな日本語があったの?
肥育学園 / キット・リード
金持ちはスタイルがよくなければダメという風潮をストレートに風刺した作品。でもやっぱ、生活習慣病とかになっちゃうから、あまり肥満しないほうがいいんじゃない?
気球 / ドナルド・パーセルミ
よくあるインスタレーションとかって、こうやって楽しむのねって感じ。
コーラルDの雲の彫刻 / J・G・バラード
傲慢な性格のために自ら破滅するお金持ちの話を、それなりに技巧を凝らして描いた物語、なのだろう。
ルアナ / ギルバート・トマス
簡単にいえば、復讐譚だが、よく構成されている。
主人公が真菌学者だから、なぞのキノコを手に入れることが可能になり、彫刻家であるところがルアナの製作につながり、ピカソのヤギの彫刻は主人公がルアナの性器をつくれないことを暗示し、それをつくれるマンフリードは外科医でなければならず、首筋にかみつく癖があることがマンフリードの死につながる。
年間傑作選に選ばれるほどのものかどうかはわからないが。
W-A-V-E-R / テューリ・カプファーバーグ
特になし。
フレンチー・シュタイナーの堕落 / ヒラリー・ベイリー
ひとりの少女の「堕落」により、ドイツ帝国が崩壊する話。
性の解放、とくに女性の積極性と、その積極性には体制を覆すほどのパワーがあること(ここではそのパワーによって世界が解放される)を象徴しているのかも。
気になる点;
・「コーニーな曲」の「コーニー」は、ありふれた/陳腐なって意味か?
去りにし日々の光 / ボブ・ショウ
スロー・ガラスで風景を楽しむというアイデアだけに終わらせず、「逆側の風景」も活用する手際はすばらしいが、いまならビデオやDVDがあるので、わざわざスロー・ガラスを眺めることはないだろう。
よく家族を撮るお父さん・お母さんがいるが、あれを何度見直すのだろう? もしかしたら、あれは事故があった場合の保険みたいなものなんだろうか?
山リンゴの危機 / ジョージ・マクベス
特になし。
カミロイ人の初等教育 / R・A・ラファティ
『
九百人のお祖母さん』を参照。
ぼくがミス・ダウであったとき / ソーニャ・ドーマン
たぶん、少女が始めて恋するときの気持ちを描いているのだろう。
地球見物 / トーマス・M・ディッシュ
特になし。
コンフルエンス / ブライアン・W・オールディス
微妙な感情の機微をとらえた単語がいくつかある。SFとして評価していいものかどうか。
せまい谷 / R・A・ラファティ
『
九百人のお祖母さん』を参照。
おぼえていないときもある / ウイリアム・バロウズ
バロウズらしい「壊れた」短編。
冬の蠅 / フリッツ・ライバー
現代の生活ではすっかり影の薄くなった神様が、想像の世界からあらわれたからかわれているところ、だろう。
スター・ピット / サミュエル・R・ディレーニイ
持たざるものの、持てるものへの憎しみとあこがれの物語だ。
持てるもの=ゴールデンは、物語の中では銀河から銀河へと旅ができる特殊能力を持つ人種だが、あきらかに金持ちを象徴している。かれらは一般人にはいかれない場所にいき、一般人には見ることができないものを見ることができる。法律などの社会的ルールにはいっさいしたがわず、気分次第で人を殺すほど残虐だ。ゴールデン同士で殺し合いをすることもあるが、ゴールデン以外の人間の生死にもまったく関心を示さない。主人公ヴァイムの宇宙船とニアミスした船を操縦していたゴールデンが交信スクリーンにみせた表情は、リムジンにのった金持ちが自分の車が轢きそうになった貧乏人をひややかに見下すシーンそのままだ。また、戦争の道具となる新しいテクノロジーを人類にあたえるが、自分たちは戦争には参加しない。自分たちの行動により、どれほどの人間が死ぬことになろうが、そんなことはお構いなしだ。ディレーニイの筆は唾棄すべき金持ちの性状をあますことなく暴きだす。
ゴールデンか否かは生まれたときに決まる。ある種の精神的欠陥と、ホルモン平衡失調が条件だ。努力なんかは関係ない。ゴールデン以外として生まれたら、一生ゴールデン以下だ。努力しても得られないからこそ、一般人は、よりゴールデンを憎み、そしてあこがれる。
おおかたの人間はゴールデンのことを「意地がわるいか、頭がわるいか、だ」と陰口をたたきながら、そのまま暮らすが、そうしない人間もいる。
ヴァイムの助手サンディは、ゴールデンが進むのとは別の方向で成長すると宣言し、銀河の外縁に位置するスター・ピットから銀河の中心へと帰ることにする。それは内向化の象徴だろうか。ディレーニイは、ここにゴールデンとおなじ性向をみいだす。単純な内向化は残虐な人間を生み出すということか。あるいは、作者が考えていたのは、カルトか、ストリートギャングのような犯罪グループか、犯罪者系ひきこもりのようなものかもしれない。
ヴァイムのちいさな友人ラトリットは、その能力がないにもかかわらず、ゴールデンのふりをすることを選択肢し、銀河系から飛び出していった。確実に死ぬとわかっていても。
しかし、作者の願いは、人類すべてがゴールデンになることだ。物語では、ゴールデンの条件を人工的に植え付けることができるようになったのだ。しかも、ゴールデン特有の残虐性なしで。たとえ自分の世代にはムリでも、次世代の人類にはしあわせになってほしい・・・ヴァイムはかれらを笑っておくりだそうとする。
ここまでが、この物語の核をなす部分(とおもわれる)。作者ディレーニイは、さらに多くのテーマをこの短編に織り込んでいく。
ラトリットは6つでみなし子になり、7つですでに重罪犯。アレグラは生まれつき麻薬中毒で、8歳のときは麻薬を報酬にそのテレパシーの能力をつかって強制的に働かされていた。まさに、児童搾取。そんな環境でそだった子供が将来どうなるか? 「子供らにかまわずに、ほったらかしにしとくと、ときにはもう子供じゃなくなった怪物ができあがることもある」と作者はヴァイムに語らせる。
愛の話もある。アレグラはいう。「ほんとうにだれかを愛すること・・・それは、いまあなたの愛している人が、最初に恋におちた相手、最初にいだいたイメージではないことを、すすんで認めるという意味なの」。しかし、作者はここで、残酷にもテレパシスト・アレグラの真の姿をあばきだす。自己の美しい姿を投影していたアレグラと、現実のアレグラとのあまりに激しいギャップ。彼女はほんとうの愛を求めながら、ゴールデンゆえの残酷さのために、みにくく死んでいく。
ちいさな一文にも作者の観察眼が光る。教科書どおりに答えるアンにむかい、ヴァイムが「子供ってやつは、どうしてこう杓子定規なんだろう」とかんがえるシーン・・・そういえば、自分も子どものころ、なんかで勉強したことを得意になってしゃべることがあったっけ。
さらに、「生殖過程――それは生命の第一義的な機能か、それとも付随的な機能か」まで問いかけている。ゴールデンのアンがもっていたエコロガリウムに住む、生殖過程を卒業した緑色の虫は、やがておたがいに噛み付きあい、相手をばらばらに食いちぎった。ゴールデンも、かれら同士の婚姻は禁止されており、生殖過程からはずれた種族だ。ここから導きだされる答えは、ゴールデンのもつ残虐さは、生殖過程からはずれた生物の特徴ということ。かんがえてみれば、現代の犯罪のまん延した社会は、人間が子供をうみ、そだてることからはなれてしまった結果、ほんらいもっとも情熱をかたむけるべき仕事を拒否した結果かもしれない。子供への愛情を知らない人間は他人の命などなんとも思わないだろう。
やっぱり、ディレーニイは深い。
ところで、この物語にでてくる白いふわふわした毛におおわれたナマケモノはなにを象徴しているのだろう? ゴールデンより、さらに別の世界に旅できる存在。恐怖を感じると別の世界にいってしまう生物。ゴールデンはその生き物のことを考えるだけで気がふれてしまう。まるっきり冷淡か凶暴。すこしの紫外線で死んでしまう、つまり、夜にしか生きられない存在。いつのまにかいたるところに住み着いたナマケモノ。もしかして、麻薬とその販売組織か? だったら、ゴールデン=金持ちが恐怖を感じるのもわかる。そういえば、アンも「やつらにはなにかがあるんだ、ぼくらの現実感覚を変えるようなものが」といっていたし。
これだけのテーマが100ページ強の短編の中に詰め込まれているのだ。
ディレーニイの小説はものすごい圧力によって生成されたダイヤモンド。しかも、技巧の粋をあつめたカッティングがほどこされ、すこし角度をかえるだけでつぎつぎと新しい光を見せてくれる。しかし、それはSFでありながら、いまの世界をうつすダイヤモンドなのだ。
個人主義 / テューリ・カプファーバーグ
特になし。