本と映画の感想文

本と映画の感想文。ネタバレあり。

『半落ち』

2005年06月03日 | ミステリ
作者:横山秀夫
出版:講談社(2002/9/5)
初出:2001
ジャンル:ミステリ
評価:7/10

 梶警部の澄んだ瞳と非現実的ともいえるその生きる目的。対して、彼の空白の2日間を知ろうとする人間たちは、たとえ純粋な正義感をもっていたとしても、所属する組織の中で生きていくため、あるいは成功を手に入れるため、ゆがんだ行動をとらざるを得ない。犯罪者とそれ以外の人間のどちらが純粋で、どちらが不純なのか?・・・みたいな小説。よくできてるとおもう。

『R.P.G.』

2005年06月02日 | ミステリ
作者:宮部みゆき
出版:集英社文庫(2001/8/25)
初出:2001
ジャンル:ミステリ
評価:5/10

 現在の世相を見事に切り取った小説、ということになるんだろうが、びみょーにどーでもいい感じ。ネット家族の描き方があまりにも類型的で、小利口な解説者がしゃべるところのネットユーザみたいに見える。仮想家族の実年齢が、演じていた家族の年齢とほとんど変わらないのもヒネリがないし。性別だって変えてしまえ!って感じだが、そこまでやると発散して2時間ドラマに収まらない、みたいな計算があったりして。

 ところで、仮想家族“カズミ”のいう「本当の自分」みたいなセリフ、80、90年代の自己開発セミナーやカルトにハマッてたヤツラのセリフとおんなじなんじゃなかろうか。そう考えると、いつの時代もヒトが求めるものは同じというか、道具は替わってもやってることは変わらないというか。ま、どうでもいいか。

『検死官』

2005年06月01日 | ミステリ
作者:パトリシア・コーンウェル
出版:講談社文庫(1992/1/15)
初出:1990
ジャンル:ミステリ
評価:4/10

 連続殺人事件を調べる検屍官の話だが、検屍官という仕事についてはもちろん、これについて回る政治的策謀や、男たちの中で仕事をする女性への風当たりの強さや、コンピュータ/データベースのおもいっきり細かいことや、親に相手にされない子供や・・・、とにかくナンでもカンでもつめ込まれた小説。

 殺人事件の部分だけをひろうと、「アイツがあやしい」と思わせる引っ掛けがポツポツあって、犯人を罠にかけようとして自分が狙われて、最後は危機一髪で助かるという、どことなくハリウッド的ありがちなストーリー。

 これが処女作の作者が書きたいことを思いっきり書きました~、といったところか。しかし、読むほうとしては、これが「重い」。平たくいうと読みづらい。たぶん、2作め以降はよくなってるんだろう。

『心をあやつる男たち』

2005年05月15日 | ノンフィクション
作者:福本博文
出版:文春文庫(1999/6/10)
初出:1993
ジャンル:ノンフィクション
評価:6/10

 社員教育の胡散臭さが良くわかった。結局、教えるほうは教育そのものではなく金儲けが目的である。受けさせるほうをみれば、どんな教育をしたって社員が劇的に変わることはないのだが(ここにあるSTのように一時的には変わっても)、変わらないからといって手をこまねいていては上司にしかられるので、次々新しい商品に飛びついてしまう。さらに悪いことに、この効果がない教育法が「大企業で採用された」という実績のみで中小企業に伝播していく。・・・ということで、営業職につくことがあったら、これを参考に、まずは大企業に、次に中小企業に売り込もう。まぁ、はじめに大企業に売れないとだめなんだけど。

 さらに、この本では自己開発セミナーやカルトの姿を暴いている。こんなものがはやるのも、人間関係が希薄になり、人のぬくもりに飢えた人々が増えたためらしい。
 ところで、とある部署の課長が自分の部下を集めて、ヘンなミーティングをやったらしい。ふたり一組で向き合って、おたがいの目を見て相手のことをほめあったりとか。きっと、自分が受けたセミナーに感動して、「善意で」部下たちにも同じことを試したんだろう。身近にも自己開発セミナーが忍び寄っているのだ。気をつけよう。

 さて、この本の中で気になったところ;
  • アルビン・トフラー『第三の波』にも、能力開発セミナーに関する記述があるらしい。(P.179)
  • 「シャクティパット」「定説」「ミイラ」のライフスペースも自己啓発セミナーから派生したものだった。(P.216)
  • サイエントロジー教団はL・ロン・ハバートが提唱する「ダイアネティックス」という心理療法から出発した。A・E・ヴァン・ヴォークトもこれにハマッてたのか。あ~あ、もったいない。(P.223)

『この世の王国』

2005年05月12日 | 文学
作者:アレホ・カルペンティエル
出版:水声社(1992/7/30)
初出:1949
ジャンル:ラテン・アメリカ文学
評価:6/10

 さて、白人農場主の支配が終り、黒人による政治が始まれば、それまで奴隷として搾取された人々の生活がよくなると単純に考えてしまいがちだが、実際はさらにひどくなってしまうらしい。なぜなら、白人は黒人たちを労働力=財産と考えるから、ある程度、黒人たちを大事にするが、黒人支配者は黒人たちをとにかく働かせ、搾取するだけだからだ。彼らが死のうが生きようが気にもかけない。死ねば次の黒人を連れてくればいいとしか考えていない。作者は「子供が親を、孫が祖母を、嫁が料理を作ってくれる姑を殴りつけるようなものだ」と表現している。お見事。

 なぜ、こんなことになってしまったのか、どうすればこの袋小路から抜け出せるのかわからないが、主人公のひとり黒人奴隷のティ・ノエルは、こんな環境にあっても、しあわせは天国ではなく、この世にあると考える。「一度も顔を合わせたこともない」が「ほかの恵まれない人びとのために苦しみ、希望をつなぎ、せっせと働く」ことに「この世の王国においてこのうえなく偉大なもの」「至高のもの」があるという。そして、最後は圧制者と戦うことを宣言し、自らハリケーンとなってムラートたち新しい支配者の工事現場を襲う。これは、白人的秩序ではなく、その土地のアミニズムなどのルールによる秩序を求める姿ではないだろうか? まぁ、そんな鎖国みたいなことはいまの地球では無理っぽいが、白人のルールだけが唯一でもないだろう。なんか、あたらしい秩序はないもんかね。

『黙示録3174年』

2005年05月08日 | SF
作者:ウォルター・M・ミラー・ジュニア
出版:創元推理文庫(1971/9/25)
初出:1959
ジャンル:SF
評価:8/10

 核戦争による破壊と混迷、科学の復活、そして、再度の戦争と新しい人類への希望を、1つの修道院を通して描いた力作である。飽くことなく過ちを繰り返す人類が冷徹に描かれている。人類の未来に対し、SFが描けることは何か?という命題に真摯に取り組んだ結果ともいえる。

 キリスト教をふくめ宗教には縁が薄く、その活動や教えなどほとんど知らないのだが、この小説でその一端を垣間見た気がする。たとえば第3部で、もはや治療も無理という母娘に対し、科学者(といっても政府のお先棒だが)は「死になさい」といい、修道院長は「祈りなさい」という。祈ることが、怪我・病気の解決になるわけではない。それでも祈るのは「からだがつらいおもいをしているにもかかわらず、魂が信仰と希望と愛を保っていることが神を満足させる」のだそうだ。そして、修道院長は自殺ではなく尊厳ある死を迎えることを説く。ちょこっとだけ宗教の真髄に触れたような気がした。

『巨人頭脳』

2005年04月30日 | SF
作者:ハインリヒ・ハウザー
出版:創元推理文庫(1965/8/20)
初出:1962
ジャンル:SF
評価:5/10

 機械が知性をもち、そして、自我をもつとどうなるかをまじめに描いた小説。当時はそういうことに関心が集まっていたのでしょう。
  • 「シャングリ・ラ」というのは、ヒルトン『失われた地平線』にでてくる桃源郷とのこと。知らなかった。
  • 15世紀、リューベックにカルロスという少年がいた。かれは、錬金術師ヴェデルストレームによって、「赤ん坊のときに脳がどこまでも成長できるよう頭蓋骨の一部を除去された。脳は油の容器の中につけられたので、かれは動くことはできなかったが、その能はふつうの倍の大きさに成長した。そして、数学では5歳にして師をしのぐほどになったが、錬金術師が魔術師として処刑されたとき、ともに殺された。・・・って、ほんとか?!

『ホークスビル収容所』

2005年04月24日 | SF
作者:ドナルド・A・ウォルハイム&テリー・カー編
出版:ハヤカワ文庫(1980/1/10)
初出:1968
ジャンル:SF
評価:7/10

 ニューウェーブもオーソドックスも、型破りのも手堅いのも、とにかく読んで損のない短編がつまったアンソロジー。
 ディレーニイとハーラン・エリスンは文句なしの傑作。R・A・ラファティはひとりだけ2編も収録されているがどちらもよい。アシモフとラリー・ニーヴンはいつもながら華麗な謎解き系。アンドリュウ・J・オファットという作家は知らなかったが、収録された「人口爆縮」は傑作選に選ばれるにふさわしい作品。

見えない男 / リチャード・ウィルソン
 リズの行動に「うーん、なるほど」とうならされる。物語り全体のつくりに職人による精巧さを感じる。子供がおねだりしたとき、大人は「魔法の言葉」をいえない子にはあげない、というらしい。その「魔法の言葉」とは「Please」。覚えておこう。

ドリフトグラス / サミュエル・R・ディレーニイ
 貧しい漁村の子供たちは、よりよい生活を求め、命の危険を顧みず危険な仕事につく。
 舞台となるさびれた漁村・・・シエスタの時間には、漁師ジュアンの娘が「階段の一番下で、拳を枕に眠っている」。ディレーニイはこの一文でものうげな村のようすを見事に描き出す。
 こんな村にも文明の波は確実に押し寄せる。スーパーマーケットには箱を持ち上げると宣伝文句をささやくケーキミックスがあり、ジュアンは思わずたくさん買い込んでしまう。そして、伝統は忘れ去られる。ジュアンは棕櫚縄の結び目文字を覚えなかった。それは、新しい文明の中では古臭いものとして敬遠される。
 コカコーラの空き瓶や工業用シリコンの屑など、文明の残りかすが波に洗われ角が取れ美しいドリフトグラスになる。海溝の火山から噴出したシリコンもやがては波打ち際まで運ばれてドリフトグラスになる。ならば、海溝で死んだトークたちは文明に殺されたんだろうか? 漁村の人々は文明という荒波に翻弄される。しかし、彼らには美しいドリフトグラスに変身するというご褒美があるとは思えない。

ヴァーダムトヘの使節 / コリン・キャップ
 将来、わけのわからない宇宙人が現れたら、赤ん坊を連れてこよう。人類の相互理解を子供たちが成し遂げてくれるんではないだろうかという希望の小説でもある。

いなかった男 / R・A・ラファティ
 ラドーが男を消したのも、町の住民がラドーを消したのも、まったく同じ。特殊な才能なんてなくても、みんなで力を合わせれば、どんな難問も解決できるというありがたい話(ウソ)。

反重力ビリヤード / アイザック・アシモフ
 人間、ここぞというときは勝負に出なきゃイカンという話。

ホークスビル収容所 / ロバート・シルヴァーバーグ
 老人に生きがいのある仕事を見つけてあげた話。とにかく、パレットの居残り宣言にたいする同士ケサダとハーンの微笑が、そして、その微笑を「ちょっぴり恩着せがましいところがありそうだな」と思うパレットのやり取りがいい。人間世界から隔離された政治犯収容所、そして、そこに現れたスパイらしき人間という一触即発の緊張感を盛り上げながら、最後は尊敬と親愛と、もっともらしい理由をつけてわがままを言ってみる老人の気恥ずかしさといった和やかな雰囲気で締めくくる。シルヴァーバーグの手腕がすばらしい。

われらの数字 / トーマス・M・ディッシュ
 人間、超ヒマになると、やることがないからありとあらゆるものを数えるようになる。そして、その強迫観念により殺されてしまうという話。普段の生活でいえば、趣味もほどほどに、というところ。

ファイオリを愛した男 / ロジャー・ゼラズニイ
 ファイオリには生者しか目に入らない。だから、墓場惑星のそこら中に置かれた死体にも気づかない。まっすぐにオーディンを見つめるだけだ。と、考えると、擬似恋愛こみの高級コールガールが、やり逃げされてなげき悲しむ話といったところか。悪魔と契約しても魂をとられなかった男の話のほうがいいかな?

人口爆縮 / アンドリュウ・J・オファット
 人口爆発、年寄りの政治指導者たち、崩壊しそうな年金政策(1967年のアメリカの話だ!)などをみごとに揶揄した話。主人公らは人口爆宿問題を専門家に相談することで「医学的父性イメージの肩に、乗せてしまった」とおもったのに、アメリカ政府の「問題を指摘できるぐらい利口な男なら、それを片付けることだってできる」という思考のため、対策責任者にされてしまうなど、語り口もおもしろい。

おれには口がない、それでもおれは叫ぶ / ハーラン・エリスン
 永遠の責め苦を受けながら、死という安らぎの場へ逃げ込むことさえ許されない男女。たぶん、エリスンがこの作品の着想を得た事件なり状況なりがあったんだろうが、この小説自信がもつ圧倒的な迫力の前に、そんなことを論じるのは無意味だ。読み、そして、押しつぶされるのみ。
 ちなみに、ポール・アンダースンがこの作品に感銘を受け、エリスンの承諾を得たうえで同じ設定で『トラジェディ』を書いたということだが...うーん、そうなの?

カメレオン部隊 / ロン・グーラート
 カメレオンというより、粘土人間?の楽しい活躍。そういえば、最近、カメレオンが話題になることが少なくなった。当時のアメリカではカメレオンがブームだったんだろう。

コランダ / キース・ロバーツ
 かぐや姫の遠未来実写版。

われらかくシャルルマーニュを悩ませり / R・A・ラファティ
 『九百人のお祖母さん』を参照。

恵まれざる者 / ラリー・ニーヴン
 謎が存在し、それを解決するという意味でよくできた小説。しかし、ここで気になるのは、グロッグを人間の経済システムに組み込むことの是非だ(今風にいえばグローバリゼーションといったところか)。
 たしかに、この短編の中のグロッグは、自らのぞんでこのシステムに加わろうとしているが、それが本当に彼らの幸せにつながるかどうかについては、この小説では考えられていない。というか、アメリカ人の作者には、そのことが不幸につながるかもしれないなど思いもよらないのだろう。もちろん、人間がグロッグを搾取するわけではなく、あくまでフェアな商売をしているようだが、その概念を持たなかった民にとって、「ギブ・アンド・テイク」という概念そのものが怪物のようなものなのだ(と、エイモス・チュツオーラ『やし酒飲み』にある)。いかにフェアにみえようとも、そのフェアとはアメリカ人のルールからみてフェアというだけにすぎない。そして、かれらは、かれらのルール以外が存在することを許さないのだ。
 ・・・なんてことは、作者が意図したテーマとはかけ離れていることおびただしいので、考えないことにしよう!
 それにしても、グロッグって、『鼻行類』にでてきそうだなぁ。

白夜 / ブライアン・W・オールディス
 かんがえてみれば、小便をした人が離れれば自動的に水が流れ、洗面台で手をのばせば勝手に水が出て、ぬれた手はジェットタオルで乾かすような生活をしている。そんな生活をしていると、いつかは小便器や洗面台やジェットタオルと戦うことになるんだろう。

イギリスに住むということは / D・G・コンプトン
 わけわからない機械がつぎつぎと出てくる世の中にゃ、ついていけないよ、という話。

『年間SF傑作選7』

2005年04月23日 | SF
作者:ジュディス・メリル編
出版:創元推理文庫(1976/4/23)
初出:1968
ジャンル:SF
評価:4/10

 邦題は「年間SF傑作選」だが、原題は"SF 12"。それまでついていた"Best"という冠はなくなった。ま、そのほうがいいね。傑作選ではない。
 ウーマンリブ運動や性の開放など、当時の先端の運動に関する小説が目につくが、こういう流行りものは風化も早い。詩のよしあしはよくわからない、というか、だいたいSFなのか? バラード、ラファティ、バロウズ、ボブ・ショウはそれなり。しかし、ディレーニイの「スター・ピット」、これは大傑作だ。

シネ魔術師 / テューリ・カプファーバーグ
 特になし。

浮世離れて / ハーヴィー・ジェイコブズ
 ハリウッドというのは自然の怪物なんかじゃ太刀打ちできないほど恐ろしい世界ということで。
 ところで、「とみこうみ」とは、なんぞや?と思ったら、「左見右見」らしい。・・・て、こんな日本語があったの?

肥育学園 / キット・リード
 金持ちはスタイルがよくなければダメという風潮をストレートに風刺した作品。でもやっぱ、生活習慣病とかになっちゃうから、あまり肥満しないほうがいいんじゃない?

気球 / ドナルド・パーセルミ
 よくあるインスタレーションとかって、こうやって楽しむのねって感じ。

コーラルDの雲の彫刻 / J・G・バラード
 傲慢な性格のために自ら破滅するお金持ちの話を、それなりに技巧を凝らして描いた物語、なのだろう。

ルアナ / ギルバート・トマス
 簡単にいえば、復讐譚だが、よく構成されている。
 主人公が真菌学者だから、なぞのキノコを手に入れることが可能になり、彫刻家であるところがルアナの製作につながり、ピカソのヤギの彫刻は主人公がルアナの性器をつくれないことを暗示し、それをつくれるマンフリードは外科医でなければならず、首筋にかみつく癖があることがマンフリードの死につながる。
年間傑作選に選ばれるほどのものかどうかはわからないが。

W-A-V-E-R / テューリ・カプファーバーグ
 特になし。

フレンチー・シュタイナーの堕落 / ヒラリー・ベイリー
 ひとりの少女の「堕落」により、ドイツ帝国が崩壊する話。
 性の解放、とくに女性の積極性と、その積極性には体制を覆すほどのパワーがあること(ここではそのパワーによって世界が解放される)を象徴しているのかも。
 気になる点;
・「コーニーな曲」の「コーニー」は、ありふれた/陳腐なって意味か?

去りにし日々の光 / ボブ・ショウ
 スロー・ガラスで風景を楽しむというアイデアだけに終わらせず、「逆側の風景」も活用する手際はすばらしいが、いまならビデオやDVDがあるので、わざわざスロー・ガラスを眺めることはないだろう。
 よく家族を撮るお父さん・お母さんがいるが、あれを何度見直すのだろう? もしかしたら、あれは事故があった場合の保険みたいなものなんだろうか?

山リンゴの危機 / ジョージ・マクベス
 特になし。

カミロイ人の初等教育 / R・A・ラファティ
 『九百人のお祖母さん』を参照。

ぼくがミス・ダウであったとき / ソーニャ・ドーマン
 たぶん、少女が始めて恋するときの気持ちを描いているのだろう。

地球見物 / トーマス・M・ディッシュ
 特になし。

コンフルエンス / ブライアン・W・オールディス
 微妙な感情の機微をとらえた単語がいくつかある。SFとして評価していいものかどうか。

せまい谷 / R・A・ラファティ
 『九百人のお祖母さん』を参照。

おぼえていないときもある / ウイリアム・バロウズ
 バロウズらしい「壊れた」短編。

冬の蠅 / フリッツ・ライバー
 現代の生活ではすっかり影の薄くなった神様が、想像の世界からあらわれたからかわれているところ、だろう。

スター・ピット / サミュエル・R・ディレーニイ
 持たざるものの、持てるものへの憎しみとあこがれの物語だ。
 持てるもの=ゴールデンは、物語の中では銀河から銀河へと旅ができる特殊能力を持つ人種だが、あきらかに金持ちを象徴している。かれらは一般人にはいかれない場所にいき、一般人には見ることができないものを見ることができる。法律などの社会的ルールにはいっさいしたがわず、気分次第で人を殺すほど残虐だ。ゴールデン同士で殺し合いをすることもあるが、ゴールデン以外の人間の生死にもまったく関心を示さない。主人公ヴァイムの宇宙船とニアミスした船を操縦していたゴールデンが交信スクリーンにみせた表情は、リムジンにのった金持ちが自分の車が轢きそうになった貧乏人をひややかに見下すシーンそのままだ。また、戦争の道具となる新しいテクノロジーを人類にあたえるが、自分たちは戦争には参加しない。自分たちの行動により、どれほどの人間が死ぬことになろうが、そんなことはお構いなしだ。ディレーニイの筆は唾棄すべき金持ちの性状をあますことなく暴きだす。
 ゴールデンか否かは生まれたときに決まる。ある種の精神的欠陥と、ホルモン平衡失調が条件だ。努力なんかは関係ない。ゴールデン以外として生まれたら、一生ゴールデン以下だ。努力しても得られないからこそ、一般人は、よりゴールデンを憎み、そしてあこがれる。
 おおかたの人間はゴールデンのことを「意地がわるいか、頭がわるいか、だ」と陰口をたたきながら、そのまま暮らすが、そうしない人間もいる。
 ヴァイムの助手サンディは、ゴールデンが進むのとは別の方向で成長すると宣言し、銀河の外縁に位置するスター・ピットから銀河の中心へと帰ることにする。それは内向化の象徴だろうか。ディレーニイは、ここにゴールデンとおなじ性向をみいだす。単純な内向化は残虐な人間を生み出すということか。あるいは、作者が考えていたのは、カルトか、ストリートギャングのような犯罪グループか、犯罪者系ひきこもりのようなものかもしれない。
 ヴァイムのちいさな友人ラトリットは、その能力がないにもかかわらず、ゴールデンのふりをすることを選択肢し、銀河系から飛び出していった。確実に死ぬとわかっていても。
 しかし、作者の願いは、人類すべてがゴールデンになることだ。物語では、ゴールデンの条件を人工的に植え付けることができるようになったのだ。しかも、ゴールデン特有の残虐性なしで。たとえ自分の世代にはムリでも、次世代の人類にはしあわせになってほしい・・・ヴァイムはかれらを笑っておくりだそうとする。
 ここまでが、この物語の核をなす部分(とおもわれる)。作者ディレーニイは、さらに多くのテーマをこの短編に織り込んでいく。
 ラトリットは6つでみなし子になり、7つですでに重罪犯。アレグラは生まれつき麻薬中毒で、8歳のときは麻薬を報酬にそのテレパシーの能力をつかって強制的に働かされていた。まさに、児童搾取。そんな環境でそだった子供が将来どうなるか? 「子供らにかまわずに、ほったらかしにしとくと、ときにはもう子供じゃなくなった怪物ができあがることもある」と作者はヴァイムに語らせる。
 愛の話もある。アレグラはいう。「ほんとうにだれかを愛すること・・・それは、いまあなたの愛している人が、最初に恋におちた相手、最初にいだいたイメージではないことを、すすんで認めるという意味なの」。しかし、作者はここで、残酷にもテレパシスト・アレグラの真の姿をあばきだす。自己の美しい姿を投影していたアレグラと、現実のアレグラとのあまりに激しいギャップ。彼女はほんとうの愛を求めながら、ゴールデンゆえの残酷さのために、みにくく死んでいく。
 ちいさな一文にも作者の観察眼が光る。教科書どおりに答えるアンにむかい、ヴァイムが「子供ってやつは、どうしてこう杓子定規なんだろう」とかんがえるシーン・・・そういえば、自分も子どものころ、なんかで勉強したことを得意になってしゃべることがあったっけ。
 さらに、「生殖過程――それは生命の第一義的な機能か、それとも付随的な機能か」まで問いかけている。ゴールデンのアンがもっていたエコロガリウムに住む、生殖過程を卒業した緑色の虫は、やがておたがいに噛み付きあい、相手をばらばらに食いちぎった。ゴールデンも、かれら同士の婚姻は禁止されており、生殖過程からはずれた種族だ。ここから導きだされる答えは、ゴールデンのもつ残虐さは、生殖過程からはずれた生物の特徴ということ。かんがえてみれば、現代の犯罪のまん延した社会は、人間が子供をうみ、そだてることからはなれてしまった結果、ほんらいもっとも情熱をかたむけるべき仕事を拒否した結果かもしれない。子供への愛情を知らない人間は他人の命などなんとも思わないだろう。
 やっぱり、ディレーニイは深い。
 ところで、この物語にでてくる白いふわふわした毛におおわれたナマケモノはなにを象徴しているのだろう? ゴールデンより、さらに別の世界に旅できる存在。恐怖を感じると別の世界にいってしまう生物。ゴールデンはその生き物のことを考えるだけで気がふれてしまう。まるっきり冷淡か凶暴。すこしの紫外線で死んでしまう、つまり、夜にしか生きられない存在。いつのまにかいたるところに住み着いたナマケモノ。もしかして、麻薬とその販売組織か? だったら、ゴールデン=金持ちが恐怖を感じるのもわかる。そういえば、アンも「やつらにはなにかがあるんだ、ぼくらの現実感覚を変えるようなものが」といっていたし。
 これだけのテーマが100ページ強の短編の中に詰め込まれているのだ。
 ディレーニイの小説はものすごい圧力によって生成されたダイヤモンド。しかも、技巧の粋をあつめたカッティングがほどこされ、すこし角度をかえるだけでつぎつぎと新しい光を見せてくれる。しかし、それはSFでありながら、いまの世界をうつすダイヤモンドなのだ。

個人主義 / テューリ・カプファーバーグ
 特になし。

『九百人のお祖母さん』

2005年04月21日 | SF
作者:R・A・ラファティ
出版:ハヤカワ文庫(1988/2/10)
初出:1970
ジャンル:SF
評価:8/10

 アメリカの法螺吹きおじさん、R・A・ラファティの短編集。どうも、法螺の度合い、というか、法螺に対する作者の自信の強さ順に並んでるような感じで、後半へと読み進めていくにしたがい強烈なドライブがかかった法螺話にどっぷりハマることになる。
 多くのSFが物語の背景を語るためにいろいろな理論を持ち出し、説明を重ねるのだが、ラファティの物語には説明も言い訳もない。当たり前の事実のようにウソが書かれている。まじめに考えれば矛盾だらけだが、そんなことは百も承知で、糊塗するそぶりも見せない。自信満々にウソをつく、それがおもしろいのだ。

九百人のお祖母さん
 ラファティならではの答を期待するのに、結局、答を明かさないので、消化不良。ご先祖が次々登場するところは面目躍如。強そうな調査員の名前は面白い切り口。

巨馬の国
 ロサンゼルスの住民は、27世紀になっても20世紀の自動車を乗っているだろう、という話。最後の『あいつらがきて、われわれのディズを取り上げた』に重要な意味が隠されているんだろうか?

日の当たるジニー
 ザウエン人が、ウエザン猿(ローデシアの暴れ猿)と同じってのがポイントか。4歳の子供がちょーうるさくて、しかも、親がそのわがままをなんでも聞いてやる様を描いたものだろう。

時の六本指
 あまり驚きがないかな。『穴の向こうの種族』はラファティが好きなテーマかもしれない。ホントなのか、ウソなのかわからない挿話がちりばめられていて読者を煙に巻く。

山上の蛙
 種族絶滅と友人殺害の謎解きであり、冒険譚。展開が早く、チャヴォやアランの幽霊はキャラクタがはっきりしている。主人公が怪我をしてボロボロになるさまはブラックユーモアでもある。かなり、この短編集も、この物語あたりからラファティ味がかなり濃厚に出てくる。

一切衆生
 残虐な子供の仕打ち、そして、その子供への無慈悲な仕打ち。それはそれでいいんだろう。機械が人間の中に混じっていても、登場人物たちは当然のことと思っている。ここら辺もラファティ風。

カミロイ人の初等教育
 カミロイ人の教育も奇想天外だが(つまり、それを考え出したラファティが奇想天外ということ)、結論の3番目がすべてを象徴している。

スロー・チューズデー・ナイト
 まず、『アベバイオス障害』と出てくる時点でヤラレテしまう。そして、行動が早くなった人類をサポートする機械もアヤシさ満点。

スナッフルズ
 ラファティ法螺話絶好調である。迷いなく、法螺を突き進んでいる。1960年という早い年代に書かれたとは思えない。

われらかくシャルルマーニュを悩ませり
 ラファティの小説では、単純にコンピュータなどとは言わない。ここでは、エピクティック・マシン。由来は不明。そして、ふざけた性格を持つ。アヤシイ。
 一方、シャルルマーニュの話は、きっと本物の歴史なんだろう。
 胡散臭さと正確さが見事。

蛇の名
 宣教師の何パーセントかはこのような末路を辿るのだろう。送り出す側は、宣教に出発する前にそこら辺の確率をきちんと教えておくべきである、という話(ウソ)。
 アナロス星人も、標準に会わない子供を<賢明な選択>といって殺している。ラファティはこういう<選択>が好きなんだろうか?

せまい谷
 ここでは、魔法を再びかけるために、この谷を調査にきた大科学者ウィリー・マッギリーが協力するのだが、この人、『われらかくシャルルマーニュを悩ませり』の<研究所>のメンバーだった。なるほど、魔法に詳しいのも当たり前か。すがすがしい法螺話。

カミロイ人の行政組織と慣習
 こんなのがホントにあったら、社会全体が「シャカリキ!」になりそうだが、カミロイ人たちは常に自身満々、態度に余裕があって、地球人をゾッとさせるユーモア精神を持っている。げに恐ろしき人たち。

うちの町内
 まさに法螺話。様子をのぞきにきた二人もある程度驚いて、あとは受け入れてしまう。たぶん、世の中なんて、そんなもんなんだろう。

ブタっ腹のかあちゃん
 半分酔っ払ったような主人公の一人称で語られる。所々のユーモアもすごいが、オチにも驚かされる。ラファティが法螺話だけではなく、小説技巧も見せつける。でも、技巧がダメじゃ、こんなに有名にならないはずだな。

七日間の恐怖
 作中の巡査の言葉、「可能性は七つしかない。ウィロビーのとこの七人の子供、あの中のだれかがやったんだ」。が最高。ラファティのほかの物語にも出てきそうな恐ろしい子供たち。
 ちなみに、ここにも『せまい谷』の3人の大科学者たちが出てた。おもしろい事件が起こるところ、必ず現れるらしい。

町かどの穴
 ディオゲネス(<研究所>の準メンバー)の説明がまた胡散臭い説明をしてくれる。ポイントはホーマーの妻レジナが夫に買ってくるよう頼んだコリアンダー。女王毒蜘蛛レジナにいわせると、夫ホーマーを食うときはコリアンダーがいい薬味になるんだそうだ。

その町の名は?
 法螺話も絶好調である。
 エピクトが提示する記憶の消しカスが、はじめはまだなんとなくわかるような気がしていたが、途中からはまったく意味不明、というか、こんなものに意味があるのかと思ったら、最後の種明かしですべてしっくりくる。ラファティの趣味が外国語とあとがきに書いてあったが、言葉好きなところが良くわかる。

他人の目
 そういえば、『われらかくシャルルマーニュを悩ませり』で、ヴァレリーとコグズワースは夫婦と紹介されていた。その馴れ初めの話。ラファティの話ではまともな内容か。

一期一宴
 人生の「愉しみ(!)」を24時間で体験する男の物語。あらすじに列挙したような事項が人生の愉しみと言い切ってしまうところがすごい。『スロー・チューズデー・ナイト』も1日で人生を楽しむ話だったが、まだしも科学的。こちらでは、読者の納得がいくような説明をする、といった努力も放棄、欲望と直感だけで突っ走る本格法螺話。法螺以外何もない傑作。どことなく、『悪魔は死んだ』を思わせる。

千客万来
 ハリイ・ハリスンの『人間がいっぱい』とくらべ、なんとのどかな人口過密。人と人は密着すると、より密接な関係を築くことができるようだ。

『やし酒飲み』

2005年04月19日 | 文学
作者:エイモス・チュツオーラ
出版:晶文社(1998/5/30)
初出:1952
ジャンル:アフリカ文学
評価:9/10

 死んでしまったやし酒作りの名人を連れ戻すため、『ゴースト』(幽霊ではなく、人間以外の生き物)の住む森林を旅する主人公の話。とにかく、恐ろしく奇想天外な『ゴースト』たちが次から次へと出てきて、主人公の行く手を阻む(中には主人公たちを助けてくれる心やさしい『ゴースト』もいる)。これに対し、あるときは本人の呪術により(この主人公、ただの酒飲みかと思ったら、「この世のことならなんでもできる"神々の<父>"」らしい(自称)。その割には、『ゴースト』に追い掛け回されたりしてるけど(笑))、あるいは差し伸べられた援助により、はたまた、様々な「事情」や「条件」により、困難を乗り越えていく。ただ、そういった災難を克服する様より、『ゴースト』たちを描くことそのもののほうに主眼があるようで、そこら辺をサービス精神旺盛な作者が、まるで見てきたように語ってくれるのだ(身振り手振りを加え、話に聞き入る子供たちを驚かそうとする作者の姿が目に浮かぶ)。

 なので、恐ろしい『ゴースト』たちの話を純粋に楽しめばいいのだが、気が付いたことが2点ほどあるので、ここに書いておきたい。

 1つ目は、この物語の中の『ゴースト』たちそれぞれが、それぞれの掟の中で生きているということ。なぜ、そのような掟があるのか、また、その掟の中で生きる生物がどのような生活を送り、何を考えているかなんて、作者はまったく興味なし(たぶん)。あくまで、いろいろな存在があり、それぞれがそれぞれの世界の中で生きていて、よそ者がそういったいろいろな掟が支配するよその土地に入るのは危険だよ、ということが描かれているにすぎない。これは、つまり、人間を取り巻く世界を理解し、そして征服する、という考え方ではなく、世界をありのままに受け入れるという態度ではないだろうか?

 2つ目、ここに出てくる『ゴースト』たちは、アフリカの昔話の影を色濃く残しているように思われる。しかし、それだけではなく、写真を撮られるシーンがあったり、債務取立人が出てきたり、ゴーストを鉄砲で撃ち殺したりしていて、物語の中にどことなく西洋文明が忍び込んでいる。また、「ギブ・アンド・テイク」という名前の男により町中の人間が皆殺しにされてしまったりする場面など、かつてアフリカを蹂躙した帝国主義を髣髴とさせる。これらは、逆に、ここに書かれた物語のような形をとることで、新しい神話・昔話になっていく過程を見ているのかもしれない。

『バベル-17』

2005年04月17日 | SF
作者:サミュエル・R・ディレーニイ
出版:ハヤカワ文庫(1977/7/10)
初出:1966
ジャンル:SF
評価:11/10

 サミュエル・R・ディレーニイの長編の中では、「簡単な」部類に属するに違いない。少なくとも、この本が「むずかしい」と評されるのを聞いたことはないから。でも、やっぱり、この小説も他のディレーニイ作品と同じく、表面的なストーリー展開と、そこに込められた(あまり隠されていない)メッセージと、さらにその奥に何層にもわたってさまざまな象徴/主張/感情が織り込まれているハズなのだ。それがディレーニイなのだから。
 さて、まずは表面的なストーリーなのだが、すでにこのレベルがとてもおもしろい。
 主人公は宇宙的詩人であり、若く美人で暗号解読のエキスパートのリドラ・ウォン。彼女が、インベーダーによる破壊工作のときに必ず交信されるバベル-17という暗号を解読するため、エキセントリックな中間たちと宇宙を旅する。途中、インベーダーにより、自分たちの命も狙われるが、最後にはバベル-17という暗号の解読とともに、破壊工作の全貌も明らかになる。
 波乱万丈の物語にくわえ、でてくるメンバーたちが多種多彩。リドラを助ける宇宙船乗組員=輸送員(トランスポート)は、自分のからだをサーベルタイガーのように整形しているパイロットや、皮膚がすべて透明で筋肉の動きがそのまま見えるように改造している航宙士(このイメージはものすごく強烈で、たぶん、一生忘れないだろう)、モルグで「死んでいる」のもいるし、本当に零体化しているものもいる。リドラがかれらをスカウトしていくシーンは、一般人の税関職員を狂言回しに、目くるめくイメージが次々と繰りだされる。ディレーニイがウキウキしながらペンを走らせるさまが目にうかぶようだ。
 さて、このような楽しい冒険譚に隠されたテーマはなんだろう? それは、この物語の中心となるバベル-17という言語に集約されている。
 バベル-17には、「敵」に対する攻撃欲求が本質的に組み込まれている。これは思想統制などよりよっぽどおそろしいことだ。思想統制ならば、まず体制的思想があり、一方、これに反する思想が存在するからこそ、それを取り締まるという蛮行が成り立つ。しかし、そこには、こころに秘めておくだけだとしても、反体制的なことを考えるという自由がある。だが、バベル-17を用いるかぎり、「敵」と仲良くしようという考えが芽生える可能性はない。言い換えると、反体制的思想をこころに秘める自由さえないということだ。つまり、言葉/イメージの操作&置き換えをうまくやれば、思想統制なんか不要の国を作ることができるのだ。
 はたして、これはディレーニイの想像だけの話か? すでに言語操作はかなりすすんでいて、現実の世界なんか何にも知らず、養鶏場のブロイラーのような生活を送っているのではないだろうか? しかも、いまの言語を使いつづけるかぎり、その「おかしさ」に気づくことは不可能なのだ。
 さらに、バベル-17には<わたし>や<あなた>の概念がない。これはまさに「個」のない世界=全体主義的社会のことである。物語の中で曰く、「<わたし>をはずしておけば、自省作用は起こらない・・・そうすることによって抽象化象徴化意識を完全に除去することができる」(P.294)らしい。つまり、命令されたことを、何の疑いもなく、命令された通りに実行すること、まさに全体主義社会そのものだ。
 ここで、ミミズをエサに、リドラへの挨拶をしゃべるよう仕込まれた九官鳥が、このテーマを象徴する存在として重要な意味を持つことに気付く(こういった心憎い「小道具」の使い方もディレーニイの特徴だ)。九官鳥は、自分の意志で「外ハ天気ガヨクテ、気持ガイイネ」と挨拶しているのではない。九官鳥の頭の中では、挨拶=エサのミミズであり、教えられた通りに声を出すこと以外の選択はない。まさに、バベル-17に操られた人間と状況は同じだ。
 ブッチャーの状況も九官鳥となんら変わりはない。ブッチャーは兵器開発者の息子として、諜報・破壊活動をおこなうために教育され、肉体的にも改造されて、実際に破壊活動をおこなうのだが、ここには彼の意思が入り込む余地はまったくなかった。それはバベル-17による自分の意志のない破壊活動となんら変わりはない。作者はここで、体制のこちら側か向こう側か/その動機が善意かどうか/大義名分があるかどうかなど関係なく、可能性を摘み取り、ある特定の方向へのみすすむよう仕向けることそのものが破壊活動なのだといいたかったのではなかろうか?
 一方、九官鳥やブッチャーといった拘束されたものに対抗するものとして登場するのが、リドラや彼女とともに宇宙を駆ける輸送員たちだ。
 かれらは体制側からみればアンダーグラウンドな存在であり、文字通り、地下の酒場にたむろしている。しかし、特異な才能をもっていて、彼らがいなければ宇宙船を飛ばすことはできない。さらに物語では、体制側を代表する税関員の才能は科学的、かれら輸送員の才能は芸術的なものとされている。つまり、科学者、あるいは、科学の進歩ではなく、芸術家こそ、宇宙への進出に象徴される人類の発展と進歩には欠かせない存在という意味が込められているのだ。
 ただ、物語の最後では、体制側である税関員のひとりが、みずからのからだに美容整形を施し、すこしだけ輸送員の仲間入りをする。作者は体制側の反体制側へ歩み寄りを期待しているのだ。
 この小説が書かれたのは1966年であり、ここに描かれているのは2つの世界の戦争である。主人公リドラは、その戦争の道具となったバベル-17という言語のなぞを解き明かした。しかし、彼女は自分が属する世界に勝利をもたらすわけではなく、自分たちの手で戦争を終わらせることにする。結局、リドラ/ディレーニイにとって、どちらの体制も窮屈なものでしかないのだろう。作者の願いは本文中に書かれているとおり、「いろんな世界を切り開き、それらをつなぎ合わせて――ここが大事なんだが――両方をより大きなものにしよう」(P.283)ということに違いない。そして、それをおこなうのは、リドラや輸送員に象徴される自由な芸術家連中なのだ。

(補足)
 P.136に「エンパイア・スター」を書いたミュールズ・アラインライドの話が出てくる。リドラと3人組を組んでいたが、コールダー病にかかり、治療法が見つかるまで人口冬眠している。

『愛犬ボーイの生活と意見』

2005年03月08日 | エッセイ
作者:ピーター・メイル
出版:河出書房新社(1997/2/25)
初出:1995
ジャンル:愛犬小説
評価:7/10

ときどき、政治家など直接の利害がなさそうな人物をコケにすることもあるが、メインはボーイの家にくるお客や隣近所の人間の「悪口」。
こんなにあからさまに書いてしまって、日常生活に支障がでないのだろうかと心配になるぐらいである。
が、この本の作者はあくまで犬のボーイなので、人間側は本気では怒れない、怒ろうものなら大人気ないと非難される、といったところだろうか。

ここに出てくる人間たち、けっこうエゴむき出し。
ボーイはそんな人間たちに慈悲と寛容の心で接し、「人間がよろこんでくれれば、まぁ、いいか」といった感じで我慢してくれている。
やはり犬はえらい。
犬好きにお奨めの本。

『柳生連也斎 激闘・列堂』

2005年02月19日 | 時代・歴史小説
作者:鳥羽亮
出版:学研M文庫(2002/7/15)
初出:----
ジャンル:時代小説
評価:7/10

江戸柳生は悪そうなヤツらだから、全員切り捨ててくれ~と思っても、歴史が確定してるんだからどうしようもない。
どんなに悪人だろうと、江戸柳生の人間を殺すわけにはいかない。

いきおい、歴史と関係ない宇道又八郎とか、名前が残らない忍者たちが登場し、これがスケープゴートとして血祭りに(笑)。
たとえ、連也 vs. 列堂が対決が実現しても、列堂は死なないし。

と、文句を書いてしまったが、そういった制約がある中で、とてもうまく物語を構成していると思う。
列堂が死なないことも活人剣という柳生新陰流の理念に基づいてのことだし。
それにやはり、鳥羽亮の剣による戦いの描写は迫力満点、ピカ一だと思う。

ところで、田宮流居合の堀田が将軍指南役の候補になったが、阿修羅組にやられたというのも架空の話なのだろうか・・・。
検索してもヒットしなかった。

『小説 上杉鷹山』 〔上下〕

2005年02月16日 | 時代・歴史小説
作者:童門冬二
出版:学陽書房(1995/11/30)
初出:1983
ジャンル:歴史小説
評価:8/10

リストラ界のカリスマ(笑)、上杉鷹山の話であるが、血も涙もない現代のリストラとはまったく正反対の「愛」にあふれたお話。
「日本人の美しい心」に涙が出る。

ただ、その感動の前提が、絶対的身分の差、つまり、思わずひれ伏してしまうくらい偉い人が自分のような身分の低い人のためにそこまでしてくれるなんて、という感激の心なので、現代の日本では同じような体験をしてみたいと思っても無理な相談。
会社の社長が平社員である自分の名前を覚えてくれ声をかけてもらったとしても、かえって迷惑である。
それなりに気を使った返事をしなければならないのだから。

まぁ、そこで「もっとましな経営をしろ!」とかいえば、この小説にでてくる竹俣当綱たちのように「冷や飯組」にまわされて、将来、大改革のときにブレーンとして呼んでもらえるかも。
冷や飯組になるまえにクビになっちゃいそうだけど(笑)。
さらに、自分自身、不平や不満をそぎ落としたときにどれほどの意見が残っているのか(下巻P.309)というと、じつはぜんぜん残っていなかったりするので猛省ものである。

さて、ウチの会社でも「改革改革」と叫ばれているのだが、上のほうで叫んでる「改革」というのがいったいどういうものか、下々の人間にはさっぱりわからない。
悪くいうと、仕事があるように見せかけたいために「改革」という仕事を増やしているように見える。
で、仕事が増えて苦労しているのは末端ばかり。
上のほうはよくわかりもせずにイメージで好き勝手なことを言ってればいいんだから。
下のほうからすれば、ただ単にルールが変わっただけで、仕事が楽になるわけではない。
「改革も単に権力者が交代しただけ」(下巻P.239)と同じである。

しかし、たとえ幻想の改革であっても(本物の改革ならもっといいが)、情熱を持って仕事をしてみたいものだ。
ウチの会社も「灰の国」状態だからね~。

話を鷹山に戻すと、隠居後の鷹山が藩士全員の意見を聞いたとき、鷹山の改革は性急に過ぎたという意見があった(下巻P.320)。
鷹山の初期の改革では、それまで米沢藩を仕切っていた国家老などの反対勢力を切り捨てた(うち二名はホントに切腹)。

一方、幕末の備中松山藩の山田方谷は改革には15年かかるといった。
それは、古い世代が老いて死に、新しい世代が育つのにかかる時間だ。
さらに、方谷は「筋を通す」ことの重要性を説いた。
これはつまり、因習のルールを踏襲し、これを利用しつつも因習に縛られず、改革をすすめることを言うのだろう。
鷹山も筋を通すことを重要視したが、竹俣当綱は因習におぼれて自滅した。
これは改革を手っ取り早く実現しようとしたためだ。
やはり、性急な改革は失敗の原因といえそうだが、いまの世の中、15年も待っていたら会社がつぶれてしまう。
ちょっと強引だが、じゃまな人間は切腹させるのが正解なんだろうか(笑・・・って、わらいごとじゃない)。

ところで、板谷宿には大野九郎兵衛の碑が建っているそうで(下巻P.87)、浅野内匠頭の家老で、城の財宝を持って逐電したといわれる大野九郎兵衛だが、米沢の入り口で吉良上野介を待っていたらしい。
ただ、討ち入りが成功して吉良はこなかったので、この宿場で切腹したという。
もちろん、真偽のほどは確かめようもないが初めて聞く話で勉強になった。