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大善人へ身魂磨き

タケミナカタ神とイチイの木

昨日の続きです。


もう一度ヤマトタケルと出雲タケルの戦い、騙し討ちについてです。出雲タケルは、タケミナカタ神?かもと思った理由をその後で書いてみます。

………


倭建命は出雲国に入られて、そこの出雲建を殺すことにと思い到られて、すぐに出雲建と友だちとなられました。そして、ひそかにイチイの木で偽の刀を作り、ご自分の佩刀として腰につけ、肥の河で水浴されました。そこで倭建命は河から先に岸に上がり、出雲建が解いて置いていた刀を腰につけ、「刀を取り換えっこしないか。」といわれました。それで、出雲建も河から上がって、倭建命の刀を腰につけました。

その時倭建命は「さあ、手合わせしてみよう。」と誘われましたが、刀を抜き合わせる段になって、出雲建の太刀はにせものですから抜くことができませんでした。たちまち倭建命は自分が差した出雲建の刀を抜いて出雲建を打ち殺してしまわれました。


…….


以上。ここの、イチイの木に、注目しました。


このイチイの木、諏訪大社の下社秋宮の御神木。下社の最奥中央にあるのが「御神木」である「イチイ(一位)」の木です。


ここで「神体とは、神木とは」について、三輪磐根著『諏訪大社』から〔下社秋宮〕の一部を転載します。


当社は本殿をもたない社として知られているが、上社が山であるのに対して、下社では春宮は杉、秋宮は一位(いちい)の木を神木としている。


とのこと。


また、御柱は全部で4本あるのですが、第三、第四の御柱は進入禁止の森の中にあり、見ることはできません。つまり、ご神木のイチイは、それほど大切な存在なのです。


秋宮を作る逸話に下記のものがあります。


下社に住まうヤサカトメヒメ(タケミナカタ神の妻)が、

『ここからはタケル様のおられる神殿(ごうどの=前宮)が見えませぬ。』

『どこか。タケル様のおわす宮山(みやま=神体山)のみえる場所にも宮居を構えとうございます』

『承知。では、モレヤに適地を探して貰おう』そういうとタケルはモレヤと相談してもう一つの宮居を探しました。


すると、モレヤの家臣でヤサカの執事として一緒に湖北に来ることとなっていたタケイが、『八丁先の丘の上に(いちい)の湛木があります。そこが良いかと』と進言。

 

そこにもう一つの宮居が造営されたのです。 いまの、『秋宮』です。


これらのお話から、


イチイの御神木は、まるでタケミナカタ神の御神体のような大切な木のように思えました。


しかも、もし、ヤマトタケルと出雲タケル(タケミナカタ神?)の騙し討ちの木、イチイの木が結局敗北の原因となったのであれば、イチイの木はタケミナカタ神にとっては忘れられない木、信濃に骨を埋めるきっかけとなった木なのかもしれないとさえ思いました。


イチイの木は霊木である逸話が他にもあります。


全国に4700社以上あります熊野本宮大社にのこるイチイの木に纏わる話しは次の通りです。


第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟いちいの巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。

すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。


この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。





熊野大社斎原


また、別の話しによりますと、


イチイの木は、闘いにもつかわれ、古代ケルト人は「いちい」から弓を作り、さらに、矢には「いちい」の 樹液から採った毒を塗っていたとも言われています。アイヌ人も「いちい」の弓を最高としていたようです。


また、

    

朝廷では、飛騨の位山で採ったいちい材で「笏(しゃく)」を作っていた。 笏とは高位な身分の持ち物で、聖徳太子が胸の前に抱えているものです。




「正一位」という階級から、木の呼び名が「いちい」となったようですし、また、現在でも天皇即位に際して位山イチイの笏が献上されているようです。飛騨の一位一刀彫は今でも伝統工芸品として貴重ですね。




山の仕事をされている方はいちいは木の王様のように言う方もいらっしゃるようです。

    

イチイの木が御神木であり、御神体ともされる諏訪大社秋宮。また、タケミナカタ神の祖父にあたります、素戔嗚尊をお祀りします、熊野大社の斎原にあります御神木イチイの逸話なんかは、非常に興味深いのと、


以前からなんだか違和感があったヤマトタケルと出雲タケルの騙し討ちの逸話 は、もしかして純粋で人を信じた故に負けてしまったタケミナカタ神のこと?なのかも!?、


古事記ではぐっと年代を神代の時代にしていますが、もしかしたら、実際はタケミナカタ神が出雲から幼い頃母や伯父と過ごした諏訪に戻る原因となった話し?なのかもと勝手に空想してしまいました。


つづく

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