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大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

烏食い神事

2024-08-23 10:17:00 | 神仏について
昨日のつづきです。


展示場で撮影した写真が、八咫烏の一枚だけ残った不思議。



烏食い神事を調べました。イザナギ流の祭りのある高知だけかなぁ、と調べていると、宮島にあります厳島神社にあるようですね。厳島神社では、神の使者である「腹の白いカラス」に団子を食べていってもらう神事のようで同じです。


山口の、岩国市美和町の阿賀の明神様でも、「烏喰い神事」が行われており、これも、厳島神社から伝わったとありました。


また、美和町という地名の由来は、活玉依姫を身ごもらせた若者の素性を探ろうとした父母が、麻糸を通した針を男の裾に刺しておいたところ、その糸は鍵穴を通って神の社の前まで続いていた。 

その麻糸が糸巻きに3巻だけの残っていたことから、この地は美和(三輪)と名づけられたとあり、このお祭りは、三輪山の大物主とも関係があるかも、なんて地名から思いました。


カササギは、カラス科だし腹の「白い」カラスとは、カササギみたいですが、腹の白いカラスはカササギの他にもいるようですね。




あいつは、腹黒い、とか、見た目だけで判断出来ない中味について腹黒は使いますが、腹白のは、真逆ですね。オセロみたいに、黒は白に。白は黒に。色んなことは、トキがたつまでわからないものですね。😌


七夕で織姫と彦星に橋をかける鳥がカササギ(鵲)です。昔は、このお話、男女の和合、陰陽、黒白の統合の話のように思っていましたが、2者の恋愛話だけでなく、坐をする私には、自ら自然に坐して身体の器が内鳴るものに和することだと感じています。


人の身体の腹側の任脈と背側の督脈を繋ぐために、坐中に舌を上顎につけることを鵲(カササギ)橋とも呼びます。


本当に大切なものを守るためには、他の何かを犠牲にしてもやむを得ないことを意味することわざが「背に腹はかえられぬ」です。ただ、「お腹が空いては戦さはできぬ。」わけです。


人は、食(腹が満つ)があるからこそ生きていける。その食への感謝、食を生み出す大地や海、国土に感謝する、そうして、腹は背に、背は腹にかえしながら、感謝の渦で身魂を満たすこととも感じます。


陰は、陽に。陽は、陰に。人の気が周り、大地のキとも和する。先ずは自ら和する。人の身体は、実は感謝により陰陽を中和させるための器なんだと、感じます。落とすなら感謝の気を。なるだけ気はあげる⤴️。


腹の白い、背は黒いカラスに団子や餅を食べてもらう神事は、人が生きる根源である食を生み出す大地や海への感謝に繋がります。


土佐神社で祀られる、加茂族の祖神アジスキタカヒコネ神は、八咫烏であり、アジスキタカヒコネは、ニギハヤヒと同一神かなぁ、なんて、昨日書きました。


ニギハヤヒは、日の出の神であり、事代主であり、また、恵比寿様。

また、三輪山は、日の出の神に感謝を捧げる、何モノかが御坐す大地。大物主神を祀ります。


日本には、八百万の神がおられ、沢山のご神名がありますが、名前は人がつけるもので、大元は名前などなく一つに統合される大地の運行かな。当たり前ではなく、何モノかが御坐さなければありえない。


その大地の鎮まる中で命が生かされていることに、今を生きる人が、ただ感謝する。

日本に残る奇祭といわれる烏食い神事は、そんな神事のひとつなのだと感じました。




真珠の夜光

2024-08-15 10:24:00 | 神仏について

フランス人の女の子は、我が家を離れた後も

沢山の質問をしてきます。今は涼しい北海道を楽しんでいます。

その中で、たちねぶたに登場する様々な張り子の意味を、これは何?これは何?と聞いてきました。


素戔嗚尊や、閻魔大王、不動明王と龍、歌舞伎の隈取り、などの張り子について聞いてきます。私は翻訳機能を駆使しなが、知っている情報をつたえました。









その中の質問のひとつに

真珠の夜光というのがありました。




この話は知らなくて調べると、日本昔話にありました。長崎の話です。あらすじはこちらです。真珠の夜光動画を興味ある方はご覧下さい😉。


長崎の大村の浜の沖、久原(くばら)の大流れは、急で危険な海域として漁師たちから恐れられていました。


ある夏の夜、災いを呼ぶといわれる「真珠の夜光」という不思議な光が海底から現れました。

十年前にこの光が現れた時、漁村は大津波に飲み込まれたので、人々たちは大津波が再びやってくるのかと驚き慌てました。

漁師の親方は、海底の真珠をえぐり取ろうと考えましたが、誰も危険な大流れに潜ろうとはしませんでした。

そこへ、親方の娘トセと密かに恋仲だった里に住む若者のヒコが、名乗りをあげました。里人との付き合いを禁じていた親方は、若者と娘の結婚を許せませんでしたが、ヒコとトセは沖へ向かって漕ぎ出しました。

大流れの近くまでくると、ヒコは躊躇せず海の中へ飛び込みました。が、華奢な体のヒコはなかなか潜る事ができず、それどころか波にさらわれてしまいました。

この様子を見ていた親方は、すばやく腰の刀をヒコに向かって投げました。以前に殿様からもらったという大切な刀はずっしりと重く、ヒコは刀の重みでぐいぐい海中へ潜っていきました。

海底の大きなあこや貝を刀でこじ開けたヒコは、まばゆい光を放つ大真珠を抱えて海面に顔を出しました。こうして、ヒコは大きな真珠とトセを同時に手に入れることができました。

その後、この大真珠は、久原を照らす灯台として長く人々の役に立ったということです。

以上


また、九州、四国の地震、南海の地震について下記にしるしたものをみました。


1792年の島原半島の地震は雲仙普賢岳の噴火活動に伴って発生しました。1792年4月頃より島原半島周辺で有感地震が頻発し、5月21日にはM6.4の最大の地震が発生しました。この地震が引き金となって古い溶岩ドームである眉山(当時前山)の一部が大崩壊しました。崩壊した山体は有明海に流れこんで津波を発生させ、有明海沿岸に甚大な被害を及ぼしました。


 周辺地域の浅いところで発生した規模の大きな地震によって被害を受けることもあります。例えば、1889年の熊本の地震(M6.3)では、島原半島の眉山に山崩れがありました。
 長崎県では、南海トラフ沿いの巨大地震のなかで、四国沖から紀伊半島沖が震源域となった場合、津波による浸水や地震の揺れなどによる被害を受けることがあります。例えば、1707年の宝永地震(M8.6)では津波による浸水被害が長崎市で生じました。また、1854年の安政南海地震(M8.4)や1946年の南海地震(M8.0)でも、家屋への被害が生じました。
 長崎県の主要な活断層は、島原湾から島原半島を経て橘湾まで延びる雲仙断層群があります。短い活断層としては多良岳南西麓断層帯があります。
 また、長崎県周辺に震源域のある海溝型地震はありませんが、南海トラフ沿いの巨大地震で被害を受ける可能性もあります。諫早湾の干拓地周辺はやや弱い地盤であるため、地震が発生した場合には他の地域より揺れが大きくなる可能性があります。


  今日、フォローさせていただいている方のブログに、徳島の眉山天神社が紹介されていました。地名縁起を感じます。

   暗黒の海へ飛び込み、幾トセも平和が続くように、真珠は🦪永い年月をかけて真の光を形づくり、何もない空間に少しずつ少しずつ丸くなります。長崎は真珠で有名です。


   その光得て、津波を鎮め、幾トセも暗闇を照らした話が、真珠の夜光。

   天命を持って過酷な状況に身を投じ、地球を愛し、魂を磨き五感を研ぎ、誠心で日本を愛する者の祈りが、国難を救えるのかな..

祈りは届く🙏と信じています。


日本の神々は、今、聖なる国、日本を踏ん張って、昼も夜守ってくださっているのだと、私はそんなふうに感じました。大難は小難となりますように。


孔子のお言葉

2024-05-19 09:58:00 | 神仏について

孔子の論語のお言葉に


「とも遠方より来たる」というのがあります。

どんな文脈ででてくるか?というと、こんな感じです。↓


子曰く:学んで時にこれを復習する、学んだことが身につく。喜ばしいことではないか。

心からの友人が遠方より訪ねてくる。楽しいことではないか。

人に認められなくても憂えない。君子と言えるだろう。


その部分の、日本語訳は、


反復して学び続け、友と会得し合う行為はなんと楽しいことか。かつてその学びとこころざしを共有した友はせっかく知り合えたと思ったとき、いろいろな事情で遠隔の地に移り住むようになってしまったが、あるときふとやってきてくれた。近況を報告したり、意見を交わしたりしてときを共有できるのは大きな楽しみだなぁ。でも話の矛先は、やっぱり学びとこころざしに向かっていく。友との時間が 、生きていることをいっそう豊かなものにしてくれる


とか、ありました。



解釈は自由なので、私も感じたままに書いてみます。


孔子のお言葉で、生涯を語るものがあります。15にして学を志しり、

30にして立ち、

40にして惑わず、

50にして、天命をしり、

60にして耳に順い、

70にして七十にして心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こ)えず、

です。

私はこれらも踏まえて、とも遠方より来たるの朋(友)は、他人ではなく、自分自神だと思いました。


人生はあっという間。10代に、わけもわからず学んでいたことが、やっと腑に落ちるようになるまで、何度も何度も人生において、経験させられるなぁ。学びは尽きないなぁ。学んだことは、友達のように自分を助けてくれる。


あー、あの時、一生懸命やってたことは、このためだったんだなあ、学びは裏切らないなぁ、ずっとこの身体(月🟰にくづき)と共にいてくれたんだなあ(🟰朋)。朋友だったんだなぁ。


この自分の内にいる、見えない朋こそ、私の血や肉と繋がりながら、心の君主(髄)にいたんだなあ。なかなか気づかなかったなぁ。ずっと、共にいてくれたんだなぁ。


君が心にずっといる限り、他者からの評価なんて関係ない事がわかったよ。😉

君は、私の内なる心君だし、ずっと君と共にいたことをわかったから(真髄に気づいたから)、今はっきりと私は心君の子(🟰君子)だと、いえるよ。ありがとう😊。




他人と仲良くする、友達が多い、素晴らしいことですが、それ以上に、自分の内にある、ほんとうに尊い、貴い存在。どんな、弱くて、情けなくて、仕方ない、そういう自分をずっと支え、励まして続け、共にいる存在。それが朋であり、内なる神さま。心君。それ以上に素晴らしい存在は、いないのかも。皆の中にも、必ず朋友はいて、皆も、その心君の子。


なんて、私はこの孔子のお言葉から感じました。



猿猴捉月 白隠禅師の禅画

2024-05-17 07:53:00 | 神仏について

小さい頃は、夏休みになると高知市内から2時間以上かけて、母の実家にいきます。くねくね道で、必ず車に酔ってました。今は道が本当に良くなりました。

そんな山奥ですが、目の前に川幅も小さな四万十川が流れ、その川で遊ぶのが楽しみでした。水が冷たくて、綺麗です。

しかし、お盆になると、猿猴(えんこう)がでるから、と水遊びを禁止されていました。何もない田舎で、水遊びができないのは嫌だなぁと幼いながら感じていました。

お盆の時期、ご先祖様や故人がかえる時期は水の事故が増える、、彼岸と此岸が重なる時期は、気をつけなさいという戒めに、夏酷暑の土佐では猿猴という妖怪伝説が残るのかなと今は思います。



Wikipediaより

猿猴は水にいる妖怪だから、河童なのかなぁ、と思っていましたが、本来、猿猴とは、猿と猴(マカク)の総称みたいですね。


マカク。笑


ところで、この猿猴は、捉月とあわさり猿が井戸に映った月を取ろうとして水におぼれたという故事、猿猴捉月 (えんこうそくげつ)という話があります。


「身分不相応な大望を抱いて破滅すること」のたとえ、とされています。

白隠禅師の描く禅画をみると、この猿猴捉月の様子が描かれています。



白隠禅師の描く猿猴の絵はとても可愛いです。この絵を見た時に、身分不相応な大望を抱くギラギラした人が自業自得のように破滅するイメージでは全くなく、

本当に可愛い無邪気にみえる赤子のような純粋な心をもったものが一瞬にして、心に映った幻により破滅することはある、そんな事のようにも思いました。


白隠禅師のような、生まれながらに神童のような人も、純粋に仏道を追い求め、修行をして、心を病み「禅」の病になります。座禅修行が落とし穴になりかけてしまうのです。


水に映った月🌕って一体何の事かなぁと考えました。月とは、にくづき。身体かな。

猿猴は、鉛汞(エンコウ)と音が同じです。


鉛汞は、錬丹術の中に出てくる言葉です。

汞は水銀。鉛の中には水銀があり、そこから丹薬をつくり不老不死や身を軽くし空を飛んだり、鬼神を使役し超能力をもつ神仙になるため、昔の中国で盛んに試みられた術が錬丹術です。


「みかけ」の丹薬を本当に作ろうとして、不老不死を願い、水銀中毒になり命(肉体🟰月)を失ってしまった話が残ります。

不老不死の丹薬を求め秦の始皇帝は日本に徐福を送ります。

日本の地下にある水銀鉱脈の「エネルギー」は実際、霊的なものがありそうですが、神社などを朱くする丹(朱)を作るため、日本でも実際に鉛に火をかけ、水銀を抽出していました。命を削る行為だとは知らずに。


鉛汞は、「みかけ」ではなくて、欲心やら、我を削ぎ落とし、肉体(月🟰にくづき)をつかいながらも、肉体をもって生きるこの世を心が幻だと静かに諦観すること、また、身体の中で無為自然に練られるみえない尊い何か(みえない丹)をつかい、水と火、陰陽☯️を交わらせることなのかな、と感じます。それは肉体があるからこそ、できることのようにも思います。


みかけや上部に捉われる「皮肉」を、この猿猴捉月の絵からは感じ、さらに鉛汞の裏の響きに様々なもっと奥の意味も感じます。禅画は観る人により感じ方はそれぞれだとは思いますが、、、。


水に映る月、水は「見ず」、月は「肉体🟰上部」だとしたら、可愛い猿猴の姿で描かれる赤子のような純粋な穢れのなさそうな心の中にも生まれる、一瞬の「欲」を幻と直観できるか、一瞬でも執着が生まれないかどうか、最後まで気をつけ反省し続けること、


もしかしたら、

この無邪気な姿は、「悟りたい」と一心不乱に座禅をして病までなった時の白隠禅師のピュアすぎるかつてのご自身であり、


無理を加えない先天の坐に切り替えて、「悟り」の境地に至った後に、禅の奥義を身体で体得したがゆえに、「皮肉」として描いたものかも、なんて空想しました。


先天坐の深い鎮まり還る静寂の中、月(肉体)は、「一」、ワンネスに返り、「月(身体)」にみえない霊なる線「I」が丹を貫き、ご神仏の「ご用」をする器となるのかなとも思います。その体は、用と同化して、私は公となるイメージです。


白隠禅師の肉体が亡きあとも、その教えの神髄、心髄、真髄は永遠に不滅であるのは、坐と禅を通して「一」となって生きた白隠禅師の命が不滅だからかなと思いました。



皮肉骨髄 達磨仏と白隠禅師の禅画より

2024-05-14 07:50:00 | 神仏について

達磨大師の弟子には、昨日書きました慧可の他、道育、尼総持、道副という四人の弟子がいたようです。


「皮肉骨髄」という訓戒があり、この四人に、修行によって得られた仏教の本質・禅の要旨を達磨が問う話があります。


道副は『私は、文字にとらわれず、また文字をはなれないで、仏道を行じます』と答えます。

『汝はわがを得たり』と達磨はいいます。


 尼総持は、『私の理解では、愛欲も怒りもしずまって、よろこびは、仏国をみるようです』と答えると、

 『汝はわがを得たり』と達磨はいいます。


 道育は、『物を構成する地水火風の四大も、因縁がつきますと空になり、またすべての事物は、色受想行識の五蘊が仮に和合してできているので、もともと有ではなく、一法として得べきものはありません』

 『汝はわがを得たり』と達磨はいいます。


最後に慧可は、ただ黙って達磨に礼拝してもとの位置につきました。


  それをみて、『汝はわがを得たり』と達磨はいいました。

達磨大師は、慧可を後継者とします。


皮肉ということばは、こっからなんですね。

英語で皮肉はirony。ironは鉄。鉄は物質文明の象徴のイメージがあり、皮肉が、英語で鉄の語源とおなじなら、物質文明は皮肉にも、上部重視という感じかな。物質の反対が精神なので、髄は、心を大切にした感じがします。


本当のことは髄まで染み込むし、わかるとはそういうことで、上部、ではない。


それは、経験すること、により一番わかる。染み込む。辛い思いなどは、身体の髄まで染み込む事なので、そう考えると、辛い経験は、実は、自らの心を広げるのかもです。


面の皮が厚いとかいう言葉もありますが、皮が厚く厚くなると、上部の皮をさらに鉄の鎧で固めた感じで、本当のことは何も入ってこなくなる気がします。


この皮や肉を通りこして、固い骨の中の心髄、神髄に染み込んだもの、


それこそが、


その人の真価なのかもしれない、


とこの逸話を知り、思いました。😌


【画像は白隠禅師の描いた慧可の禅画より】