大善人へ身魂磨き

善でありたいと思う。日々精進。感情の渦に呑み込まれそうな時もあるけれど最後には明るく静かな大海原に和合したい。

皮肉骨髄 達磨仏と白隠禅師の禅画より

2024-05-14 07:50:00 | 神仏について

達磨大師の弟子には、昨日書きました慧可の他、道育、尼総持、道副という四人の弟子がいたようです。


「皮肉骨髄」という訓戒があり、この四人に、修行によって得られた仏教の本質・禅の要旨を達磨が問う話があります。


道副は『私は、文字にとらわれず、また文字をはなれないで、仏道を行じます』と答えます。

『汝はわがを得たり』と達磨はいいます。


 尼総持は、『私の理解では、愛欲も怒りもしずまって、よろこびは、仏国をみるようです』と答えると、

 『汝はわがを得たり』と達磨はいいます。


 道育は、『物を構成する地水火風の四大も、因縁がつきますと空になり、またすべての事物は、色受想行識の五蘊が仮に和合してできているので、もともと有ではなく、一法として得べきものはありません』

 『汝はわがを得たり』と達磨はいいます。


最後に慧可は、ただ黙って達磨に礼拝してもとの位置につきました。


  それをみて、『汝はわがを得たり』と達磨はいいました。

達磨大師は、慧可を後継者とします。


皮肉ということばは、こっからなんですね。

英語で皮肉はirony。ironは鉄。鉄は物質文明の象徴のイメージがあり、皮肉が、英語で鉄の語源とおなじなら、物質文明は皮肉にも、上部重視という感じかな。物質の反対が精神なので、髄は、心を大切にした感じがします。


本当のことは髄まで染み込むし、わかるとはそういうことで、上部、ではない。


それは、経験すること、により一番わかる。染み込む。辛い思いなどは、身体の髄まで染み込む事なので、そう考えると、辛い経験は、実は、自らの心を広げるのかもです。


面の皮が厚いとかいう言葉もありますが、皮が厚く厚くなると、上部の皮をさらに鉄の鎧で固めた感じで、本当のことは何も入ってこなくなる気がします。


この皮や肉を通りこして、固い骨の中の心髄、神髄に染み込んだもの、


それこそが、


その人の真価なのかもしれない、


とこの逸話を知り、思いました。😌


【画像は白隠禅師の描いた慧可の禅画より】


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