見出し画像

大善人へ身魂磨き

三国志時代の日本


昨日のつづきです。

卑弥呼の時代の、「南の方に従わない国あり」、の南の方は気になるキーワードでもあります。


南方(ミナカタ、ムナカタ)。大国主命の息子タケミナカタ神は、天津神に最後まで抵抗した国津神であり、諏訪の神となりました。福岡県に宗像大社があり、素戔嗚尊の娘、三女神を祀って海の神です。


海に囲まれた倭国が栄えるには、様々な海を渡ってくる渡来人からもたらされるもの、養蚕や機織り、窯業、文字なんかもありました。外からのものを取り入れて発展させていく力が日本には備わっているように思います。


南九州へは、太平洋諸島の海の彼方から南方人の渡来があったと思われる痕跡もあります。混血・融合を繰り返し、その民がまた、国内を移動し定着させたように思います。


渡来して来た民族と土着の純日本人部族との対立だったり、土地をめぐる闘いもあったと想像します。


中国の三国志の魏・呉・蜀の時代は、中国も、倭国を自分のいいなりにしようと利用したかったのかもしれません。






邪馬台国卑弥呼は大帯郡を通じ「魏」と交渉を持っていて、

対立する「呉」は狗奴国、卑弥弓呼と通じており、直接狗奴国を援助していたという説もあるようです。


国取合戦は、自国の都合により他国も巻きこみながらなされました。


三国志の時代も、倭国で「魏」と「呉」をバックにつけた邪馬台国と狗奴国の対立は、三国志の代理戦争が倭国で行われていたという説もあるようです。


戦争は、火種が広がり後ろ盾を国と国がつけ戦うと大きくなります。その前に和せば良いですが。

人の悪い思惑は、権力闘争でも味方をつけ他者を攻撃する。いじめもしかり。大きくなるかどうかの違いでまずは誰かの一念から始まる。


ひとつの思惑が、波のように広がる構図は、世界戦争にさえしてしまう。歴史の痛みがそれを証明しています。


卑弥呼が亡くなったという記載は、247年の倭人伝にあるようです。


その後中国の史書に倭国が登場するのは421年で、史書に記されなかった空白の約150年間の間に、日本全土に大和の大きな王朝が出現していたようです。


狗奴国はいったいどうなったのかは、色んな説があり何が本当かは、わかりません。


狗奴国はそのまま存続し、やがて後世「熊襲」と呼ばれる勢力に発展し「隼人」と呼ばれる人達とも融合したというものがあります。


隼人は、神話の海幸彦かもとも言われており、神話では山幸彦(昔話の浦島太郎)と敵対するもやがては神話では従うことになりますが、


しかし、神話の中で隼人と名前をかえただけだとしたら、日本記紀にも登場し、ヤマト大王にまつろわぬ民族としてたびたび登場しています。


熊襲は頭をイサオとよび、その下に多くの小集団の頭たるタケルがいたと記しています。タケルは沢山いたんですね。


タケル同士の争いも、神武天皇即位紀後に出てきます。


日本記紀では、ヤマトタケルがクマソタケルやら、出雲タケルを抵抗勢力として討伐します。まるで、江戸時代の幕藩体制の藩のように、タケルは色んな地に沢山いて、タケル内の権力争いのよう?にも思います。空想ですが。


卑弥呼のような武器をもたない女王を擁立し、それで国中が平和に収まるというような生やさしい社会は、もはや、不可能かもしれません。


しかし、勝ち負けのたたかいは遺恨をうみます。


因縁が深ければ深いほど、何世もやったりやられたりを繰り返します。


悲しき連鎖を断ち切り、因果の輪廻を終わらせるようになるのが理想ですね。


日本は、太古から渡来人を受け入れ、古代縄文時代の信仰である道祖神(交わりの神)、塞の神は、磐座を男女にみたて、交わりを主とする信仰です。


海をこえて辿りついた民は、土着の民と交わります。友好な交わりか、征服かの違いはあります。


友好なら、お互いの良さを引き出し発展します。そうしてまた、村をつくり縄張りを作ります。そう考えると渡ってきた民と、土着の民の様々な歴史の中、

日本は、単一民族のように言われがちですが、


実は太古から異国の民と混血したDNAが、戦いを嫌というほど知り、海外からは異様に見える様々な宗教に寛容かつ排除しない、和を尊しとする国民性を作り上げてきたのかもですね。





名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「神話・物語・本から」カテゴリーもっと見る