歩き慣れた舗装道を歩く時は、街灯もあり安心しますが、けもの道は同じ場所にたどり着くのだけれど、蛇がでたら怖いなとか、雨の日は靴がドロドロになるからやめようとか思いながら歩きました。しかし、舗装道を行くより三分の一で同じ場所に辿りつきました。
このけもの道を最初に見つけた時は、こんな時間短縮の道があるんだ!と宝道を見つけた感じでした。
歩き慣れた舗装道を歩くのは発見は少ないけれど、わからない道を歩くのはまるで「けもの道」を歩くような感じです。何処に行くかはじめはわからない。
子供達は持って生まれた気質が本当に違います。子供がけもの道を歩んでいるなぁと感じる時、けもの道の捉え方を私なりに肯定します。
遠回りに見えるような選択や、何が出てくるかわからない道に迷い込んだ時、そこを通ることは実は、なりたい自分、苦しくない自分へのゴールに続く道のことだと信じます。宝道なんだと。
けもの道を歩きながらも、その新しい道を踏み固めて自分の道にすると、街灯があって明るい道では鍛えられない自分をキチンと見つけて生きていける。
辿り着く着地点は、舗装道、けもの道どちらを通っても、一つの「元の道」「変わらぬ道」「自分探しの道」へと辿り着けば良いです。
日月神事では、「元の道」は「初めの道」「神のなれる道」「光の真ん中」「身魂磨き、身魂掃除すればわかる道」のようです。
けもの道を歩く子供を見守るのはハラハラもしますけれど、それでも迷い込んだのもやはりそこを踏み固めなさいというメッセージだと思っています。
子育て中の回り道や違う道を、自分が若い頃歩いて発見した「けもの道」と思います。長い目でみたら、宝道。肯定して生きる道。
グルグルのけもの道を歩きながらも、道の選択に「正解」や「決まり」はないです。現実的か、常識に偏りがないかという自分のその感覚さえも子供とは違うとき、結局は、子供自身が自分を楽に緩めて感じられる道を自分で立ってきちんと歩んで踏み固め、宝道にいつか出来ると良いなぁと思います。
【画像はけもの道検索画像より】