「牛」・「羊」という字
中国ではいま、牛肉と羊肉の価格が高騰しているそうだ。上昇の要因は需要の急上昇に生産が追いつかないため。少数民族エリア、漢民族エリアともに肉牛と肉羊の飼育量が減っているのが一因で、飼育農家が目先の金策のため母牛まで売ってしまっているかららしい。いかにも中国らしいお粗末なお話。
そんなわけで消費者は高い牛肉や羊肉を皮肉をこめて「牛魔王」「羊貴妃」と呼んでいるそうだが、古代中国では「肉食者」は「金持ち」の代名詞だったというから、日本とはかなり事情が異なる。
経済の急成長で中国人は懐が暖かくなった。富裕層は松坂肉や神戸肉をべらぼうなおカネをはらって食べている。つい最近の話だが、上海市当局が日本料理店を抜き打ち調査したところ、「本物の神戸肉」と称した肉が中国産牛肉であったり、日本以外の国からの輸入牛肉だったりで、本物の神戸肉ともなればほとんどが密輸品だとか。
金持ちが肉を自慢そうに食べれば低所得者だって食指が動き、せめて安い肉でもいいから食べたい。そこを目に付けた悪徳肉業者はとんでもないことをする。国の公安当局はつい最近、狐や鼠の肉を羊肉と偽って売り捌いていた悪徳業者63人を逮捕したという話だ。
まさか日本は中国から牛肉や羊肉を輸入していないだろうが、一事が万事こういうことを平気でするお国柄だから、用心するに越したことはない。
ところで、「牛」とか「羊」という字は象形文字だそうだ。牛と羊では図体こそ大きくちがうが、そのちがいを文字で表現するのはむつかしい。ということで図体ではなくツラ(顔)に注目。「牛」「羊」という字は、角の特徴をデフォルメしたものだそうだ。
GG
「青」という字
光の三原色は、赤・緑・青。テレビは光として目に映り、この三原色の組み合わせでいろいろな色になる。一方、色の三原色は、赤・黄・青。絵具や印刷インキは、この三原色を組み合わせる(混ぜる)ことによっていろいろな色になる。
きょうは「青」について。青といっても幅がひろい。水色・空色から藍色・群青色までひっくるめて青ということが多いし、緑色や紫色さえ青ということがある。『枕草子』には、「狩衣は、香染めの淡き。・・・松の葉色。青葉。桜。柳。また青き藤。」(264段)とあり、当時は緑なんて概念がなかったのかと思えば、「扇の骨は朴。(紙の)色は、赤き。紫。緑。」(267段)とある。
日本では大昔から青色も緑色も紫色も丼(どんぶり)で青といっていたのではないかと思うが、こういうあいまいな使い方をするのは日本人だけかと思ったら、中国でも緑色を青ということがあるそうだ。
あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉
そもそも「青」という字は「生」と「丼」を組み合わせてできた字。「生」は植物の芽生えを表し、「丼」は井戸の中に清水が溜っている状態を表すそうだ。植物の芽生えは緑色であり、井戸の水は水色。もともとそういう性格の字だから、「青」に緑色や水色が含まれていても不思議ではないのかもしれない。
ラフアディオ・ハーン(小泉八雲)は来日したときの街の印象をこんな風にいっているそうだ。
「青い屋根をのせた小さな家並、青いのれんを下げた小さな店屋、青い着物を着て、しじゅうにこにこしている小さな人たち・・・一般の人が着て入る着物の地色は、紺色が大部分を占めている・・・」
当時の日本では藍色が青の主流だったようだ。
GG
「旅」という字
4月も半ばになって、ようやく新緑がきれいになってきた。旅行シーズンの始まりだ。
そこで「旅」という字について。「旅」という字の首部「方イ」は「旗」を意味する。「吹き流しのついた旗」のことで、その旗を先頭にして人人が従っている様を表す象形文字(上掲右の画像)。一昔前、ツアーガイド嬢が農協の旗を先頭に農家のじいさんばあさんを従えて観光案内した、そんな様子を想像すればわかりやすい。
とはいってもこの字が誕生した大昔の中国には農協ツアーなんてなかった。
中国数千年の歴史を振り返ればわかるが、春秋・戦国時代から清朝に至るまで戦ばかりだった。
じつは「旅」という字は、旗を先頭に兵隊さんたちが行進する姿を表す。中国最古の漢字辞典『説文解字』には「軍の五百人を“旅”となす」と書かれており、これつまり軍隊用語の“旅団”のこと。
「旅客」―― これだってボーイング787に詰めこまれた客のことではない。本来は「氏族的共同体が分解し、本貫の地を離れて他に仕官するための旅をすること」(字統)を意味した。なんとなく日本の戦国時代にもありそうな光景だ。
それはそうとして、「旅」は和語(大和ことば)では「たび」。手許の『例解古語辞典』(三省堂)には「自分の家を離れて、一時他の場所に行くこと。必ずしも遠方とは限らない」とある。大昔の田んぼには、ちょっとした休憩小屋があってそれを「伏屋」といったが、田にある伏屋だから「田廬(たぶせ)」といい、これが「たび」の語源であるという古典学者もいる。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉
芭蕉の「奥の細道」だけでなく、「ちょっと柏の高島屋へで行ってくるわ」も「たび」なのだ。
GG
「鯛」という字
先日、漢字小話<「鰯」という字>で、「鰯」は和製漢字(国字)だけど、「鯛」という字はむかしから中国にある、と書いた。
中国では「鯛」を「チョウ」と読む。調、彫と同じように。ただ、「鯛」は日本でいう鯛のことではないよ。、魚の周りのやわらかい鰭(背びれ・尾ひれなど)を意味する字だそうだ。
さて、日本。「鯛」は古来、魚の王様。形が端正で色も鮮やかで美しい。古くから宗教儀式や宮廷の宴席に供され、貴族が食べる魚とされた。いまは養殖鯛が普段の家庭の食卓にも登場するけど、GGの子どものころは、よほどに祝事でもない限り食卓に登場することはなかった。
「鯛」という字は万葉集にも登場している。
醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の煮物 (巻十六・3829)
(酢醤油に蒜(にんにく)を混ぜて鯛を食べたい。水葱の煮物なんて見たくもない)
でも不思議だ。そもそも中国では魚の尾ひれや背びれを意味する字が、日本にやってきたらどうして高級魚に化けたのか。ちょっと調べてみたが分からなかい。GGが想像するに、「鯛」という字は「魚」と「周」からなっている。この「周」は魚の周辺という意味だろうけど、古代中国には「周」という大王朝があった。中国には魚編の字が120くらいあるけど、魚の王様である「たい」に相応しい字はこれしかなかった。だからそれを「たい」に借用した、というではないなか。
日本では、魚の部位をあらわす言葉が多いが中国ではほとんどない。だから魚をあらわす漢字もきわめて少ない。「鯛」などという字は例外中の例外だったにちがいない。もっとも「鯛」という字は、あるにはあっても、中国の古典にも見あたらないようだ。現代中国人にすれば日本にでも来ない限り、目にすることがない字だと思われる。
GG
「鰯」という字
「いわし」は最も庶民的な魚。ニシン科のマイワシとウルメイワシ、カタクチイワシ科のカタクチイワシの3種を総称して「イワシ」というそうだ。
「いわし」の語源は、陸に揚げるとすぐに弱って腐りやすい魚だから「よわし」。これが訛って「いわし」になった。だから漢字では「鰯」と書くが、中国にはこんな字はなく、これは和製漢字(国字)。そもそも漢字は大体が海からはるか離れた中華(中原)でつくられた字。中原の人々は海の魚なんて見たこともないし食べたこともなかったから、「イワシ」を意味する漢字があるわけがない。
もっとも最近は別。日本人みたいに煮たり焼いたりして食べはしないが、輸入缶詰として出回るようにいなり、イワシを意味する漢字が必要になった。日本に「鰯」という字があるのだからそれを輸入すれば簡単と思うのだが、彼らはそんなけったくそ悪いことはしたくないから、「沙丁」と書くことにした。英語の“sardine”の音訳で「サーディン」と読む。
さて日本。かつて高貴の人々はイワシ(鰯)を食べなかった。いまと違ってその昔は、イワシなんていくらでも漁れたから庶民といえども食べきれず、大半は日に干して肥料にした。そもそもイワシということばがよくない。イワシは“卑し”に通ずる。卑民の食べるものであって貴人は見向きもしなかった。
ところが好奇心旺盛な紫式部はイワシを食べたのである。それを見た夫の宣孝が“何ということをしてくれる!貴族にもあるまじきこと!”となじったという話もある。しかし、イワシを見下したのは高貴な人々に限ったことではない。「鰯の頭も信心から」なんて諺はイワシを完全に見下している。「腐ってもタイ(鯛)」「めでタイ(鯛)」とは月とスッポンだ。念のためいうと、「鯛」という字は中国にも昔からある。
GG
「猫」という字
きょう2月22日は「竹島の日」だそうだ。テレビのニュースでも「竹島の日」を取り上げていたが、きょうは「猫の日」でもあるのだ。ネコの泣き声「にゃん・にゃん・にゃん」と「2・2・2」と語呂あわせしたもので、ペットフード協会が1987年に制定したそうだ。
マルはネコを飼ったこともないし、ネコという動物は妖怪変化みたいで好きになれないが、「猫の日」ということなのでネコのことをちょっと書いてみよう。
ネコはアフガニスタンからアラビア半島、北アフリカあたりに生息していたリビアネコが家猫化したものらしく、とくに古代エジプトでは神聖化までして可愛がった。紀元前5000年の大昔にはじまっているが、ネコがなぜそんなに大切にされたかというと穀物を食い荒らすネズミを退治してくれるからのようだ。
ネコは神聖な動物だったから門外不出だったが、ローマ帝国時代にヨーロッパに伝わり、やがてシルクロードを伝わって中国にやってきた。中国では穀物だけでなく経蔵・経典を食い荒らすネズミの退治役として重宝され、日本に伝来したのも経典の護衛役としてだった。
さて、「猫」という字。なぜ「犭」に「苗」なのか。猫は鼠を捕るが米や野菜の苗を食べるとは思えない。どうやら猫の泣き声に関係あるように思う。なぜなら「苗」という字は「ミャオ」と発音する。中国に苗族(画像上右)という少数民族があるが、「苗」は「ミャオ」と発音するようだ。ミャオと泣く獣だったから「猫」という字が誕生したのだと思う。ネコは日本人の耳には「ニャン」と聞こえるが、中国人の耳には「ミャオ」と聞こえるのだろう。
ところが英語圏ではネコの泣き声は「ミャウ」だ。ネコは同じように泣いているのだろうが、人間さまの聴く耳がちがうところがニャンともおもしろい。
GG
『ふくしまに生きる ふくしまを守る~警察官と家族の手記』という本が出版されている。
11月30日発行でまだ発売されたばかりだが、東北大震災で警察官やその家族がどのように行動し、また、感じたか。警察官やその家族が綴った手記集だ。
大地震とそれに伴う大津波、福島原発事故に遭遇して活躍したのは、各自治体、警察、自衛隊、消防署、消防団だけではなく、市民や全国からのボランティアを含めてそれぞれ必死に活動し生きた。その中で福島県警が担当した主な仕事は、大津波からの避難誘導、分断された交通網の中での交通整理、行方不明者の捜索、負傷者の救出、死亡者の搬出・検視・身元確認・遺族への引き渡し、全国からの応援部隊への対応、放射線量の測定などで、それらの仕事に携わった警察官やその家族が収められている。
これらの手記に共通しているのは、警察官としての使命感、警察官家族としての心構えがにじみ出ていること。
どの手記も心に響くが、放射能防護服に身をかため死を覚悟しての原発事故現場に出動する話、その途次で見かけた「復興支援、ありがとう」「頑張ってください」と書かれたプラカードに奮い立った話、家族が全滅した住民が行方不明者捜査に協力する姿、救出された老婆が逆に警官を励ます場面、乳児の安らかな死顔に面したときのやるせない心、家も家族も失った消防団員との共同作業でボランティア活動の尊さを知った話、何日も帰宅しない家族の不安と警察官の妻としての心の葛藤などはど。
どの手記にも、ルポルタージュ本にありがちな政府や東電に対する攻撃、恨みつらみはない。ただただ使命感の燃えて黙々と仕事に励んだ警察官らの真摯で貴重な体験に読者は感動すると思う
GG
「美」という字
歴史に残る世界の三大美女といえば、クレオパトラ(左)、楊貴妃(中)、ヘレネ(右)というのが相場。
では日本の三大美女とは? 小野小町は当選確実だが、あとの二人が続かない。
美しいから美女。では「美しい」の基準は何か。そこで「美」という字の生い立ちに遡ってみよう。
「美」という字は、「羊」の下に「大」と書く。「美」は羊と大いに関係しているのだ。
中国では紀元前6千年ごろにはすでに羊を家畜にしていたという。白髪三千丈と同類の話かどうかは別として、羊は生活に欠かせない動物だった。海洋文化の日本は古来、魚を重要な動物性蛋白源としたが、牧畜文化の中国では羊がそれで、神に供える大切な生贄でもあった。
「羊」は大切な資産だから「大」きければ大きいほどいいし、多ければ多い方がいい。羊をたくさん所持していることは金持ちを意味した。古代中国では、金持ちのことを肉食者とも呼んだそうだ。「群」という字を見れば一目瞭然。、決して「君」に「牛」とも書かないし「君」に「豕(ぶた)」とも書かない。あくまで「君」に「羊」だった。「美」という字はそういう背景を持った字であり、当初は「たいせつなもの」「りっぱなもの」という意味だった。それがいつの間にか「すばらしい」とか「うつくしい」という意味に変化して今日に至っている。
ということからすると、美女というのは容貌もさることながら、おカネを湯水のごとく使って贅沢できる女のことではなかったか。そういう意味では、クレオパトラや楊貴妃はよしとしても、ギリシャ神話のヘレネよりはむしろ、マリー・アントワネットやナポレオン皇帝の愛妻ジョセフィーヌの方が至当ではないか。
GG
シャツ(shirt)とスカート(skirt)はまったく同一物だといったら、マサカと笑われるかもしれない。
イギリスは5世紀ごろにアングロ・サクソン人(ゲルマン民族の一派))が住み着いた国だが、8世紀末頃からヴァイキング(デンマーク人)がブリテン島(イギリス本島)を襲撃した。しかし襲ったヴァイキングも襲われたアングロ・サクソン人も故郷のユトランド半島(デンマークがある半島)ではお隣さん同士だったから文化もさほど違わず、ことばも同じゲルマン語系でよく似ていた。
だから両者は比較的容易に同化することができたらしい。いわば京都人と大阪人が250年後に江戸で同居するようになったと思えばわかりやすい。
古英語の scyrte は、「切る」を意味したと考えられるインド・ヨーロッパ祖語に由来し、大きな布を短く(short)裁断して身にまとうものを意味したが、[sk-] と発音していた[ sc-] がヴァイキングが襲来する以前に [∫](シュ) という発音に変化した。そしてあとからやってきたヴァイクングたちは [sc-] を [sk-] のままで発音に変化がなかった。
その結果、両者がブリテン島で同居するようになったとき、同一物を意味することばなのにアングロ・サクソン人は「シャーツ」と発音し、ヴァイキングは「スカート」と発音していた。
どちらも元来は男女の区別なく身につけていたものだったのだが、いつの間にかシャーツは上半身に、スカートは下半身にまとう衣と住み分けて定着したものだという。
GG

頭の体操をひとつ。
君はタイムマシンで古代ギリシャに向かった。ところがどこでチャンネル操作を間違えたのか、古代ローマに到着した。君の目の前にはイタリアとギリシャを結ぶ水道橋があり、この橋を渡ればイタリア側からギリシャ側にたどり着くことができる。
しかし、ローマ兵が水道橋の端にある休憩小屋から10分ごとに出てきて橋を監視しており、イタリアから逃亡する者はだれ構わず弓で射るように命令されている。もちろん弓はコンピュータ制御の最新弓だから距離が離れていても百発百中だ。
また、ローマ兵はギリシャからイタリアへ侵入しようとする者を見つけたら追い返えすことも命令されている。
君は橋のたもとの岩かげでチャンスをうかがっている。何としてもローマ兵の監視を盗んでギリシャへ渡りたいのだが、水道橋を渡り切るには全速力で走っても10分では渡りきれない。もちろん水道橋上には隠れ場所はなく、橋上からは逃げ道がないのだ。
さて、君はローマの水道橋を渡ってギリシャへ脱出できるかな。(回答はコメント欄にあります)。
イジワルGG
韓国咄を折々に書いてきたがこれはその最後。
韓国人はよく「シザキバニダ(始作は半分だ)」というそうだ。考える前に行動せよということらしい。韓国人はせっかち。日本では「急がばまわれ」とか「急いではことを仕損じる」というが、他民族に襲われてばかりいた朝鮮民族は悠長では居られなかった。朝鮮民族には行動してから考えるというパターンがDNAにしみ込んでいるのだろう。
最後にもう1つ。日本ではお盆や年末にはお中元、お歳暮を届ける習慣がある。そればかりか日常的にも、旅行したときには親しい人にお土産を買って帰る。その場合、大切なのは高価なものかどうかではなく、そこに込められたまごころだ。しかも頂戴した方は恐縮し、何かお返ししなくてはと考える。
ところが韓国では事情が違うらしい。韓国人は贈答品やお土産そのものが高価な物か安物かで相手のまごころを計る。安物をもらうと気分が悪くなるし、安っぽい手作りの品をプレゼントされても嬉しい気持ちにならない。手作りでは人を軽視したことになるのだそうだ。そしてもっと大切なことは絶対お返しをしないこと。お返しをすることは好意を受け入れてもらえなかったと捉えらるから。
ことほどさように日本人と韓国人では考えること、やることなすことが違う。ともにバイカル湖周辺をルーツとする民族で顔も体躯もよく似ているが、言語も文化もずい分ちがう。四海に囲まれて他民族に襲われることもほとんどなく、豊かな自然に恵まれた環境の中で生きることができた民族とそうでない民族の違いもひとつの大きな要因ではなかろうか。14回にわたって書いてきた韓国咄、これで終わります。
GG
韓国咄その13。 今回は擬声語(オノマトペ)を紹介します。同じ人間の耳なのに日本人と
韓国人ではこうも違うのか、と呉善花さんはあらためて感じているとのことです。
(擬声語のうしろのコメントはGGの独り言)
風が吹く音 センセン(強い風) “びゅうびゅう”の方が迫力がある?
ソルソル(弱い風) “そよそよ”と似てるね
犬の鳴き声 モンモン 食べられちゃうからモンモン
猫の鳴き声 ヤオンヤオン 日本と似たりよったり
牛の鳴き声 ウンメー 人間に食われるとも知らずか?
豚の鳴き声 クルクル これでは外野席が“ぶーぶー”騒ぐね
寝息 クルクル 日本ではなんて表現するのかな?
いびき トゥルロントゥルロン おとなしい。“ごうごう”でなくっちゃ!
人の泣き声 ウワンウワン 韓国人は大げさだからね。
そっと歩く音 サルグムサルグム どうしてこんな風に聞こえるのかなあ
太鼓の音 ドゥンドゥン まあ、そんなところだ
太陽の光が降り注ぐ チェンチェン 焼け焦げそう “燦々”の方が詩的?
大雨が降る音 ジャックジャック “ざあざあ”と比べドッコイドッコイかな
小雨 サルサル やっぱり“しとしと”がいい
小川の流れ ジュルジュル ♪はーるのおがわはさらさらながる♪
GG
韓国咄その12。 きょうは動物が登場することわざ。
「書堂の犬三年経てば風月を歌う」から始めよう。
書堂とは儒教の学問所のこと。風月を歌うとは「漢詩をつくる」ことを意味するそうだ。犬は獣のなかでも一番頭がいいが、それだけに人間の頭と比較されがち。しかも韓国では犬をとても卑しいものとみる感覚が伝統的にあるから、そういう犬ですら学問所に3年も通えば漢詩が詠めるようになる、ましてや人間の子どもにおいておや・・・、という意味だそうだ。どちらかというと、日本の「門前の小僧習わぬ経を読む」に近いか。
韓国の教育熱は日本人の想像を超える。とくに母親は教育ママなんて通り過ぎて教育オニママ。日本でも越境入学はあるが、せいぜい自宅から通える範囲内。ところが韓国では一家まとめて引っ越し、優秀校と誉れ高い学校へ子どもたちを入学させる。米国への越境入学なんてザラ。米国に引っ越したといっても旦那は韓国内に仕事場があるから置行掘(おいてけぼり)だ。
次は猫。がらんとして動物の気配さえない。危険を察して動物まで消えていく――。お気の毒でまことに言うも憚るが、福島第一原発周辺には「猫の子一匹いない」のではなかろうか。
韓国では犬を飼う習慣は昔からあったが、猫をペットにする習慣は比較的あたらしいことで、元来は猫が大嫌いな民族だそうだ。あるインターネットのサイトには、いまでも「ペットショップには犬や兎は売っているが猫はおいていない。ペットフードといえばドッグフードが大半で、キャットフードなんて隅から隅まで探しても見つからない」と書いてある。もともと猫がいないのだから「猫の子一匹いない」のは当たり前のこと。
では、「猫の子一匹いない」に相当するフレーズは何か。じつは「ネズミの子一匹いない」というそうだ。猫がいないのだからネズミにとって韓国は天国。それでもネズミの子一匹いないというのだから、これはもう異変という他ない。
GG
♪ ウチら陽気なかしまし娘・・・ ♪
その11。 では韓国の格言を3つ。
まず「女三人集まれば」から。「女三人集まれば」といえば“姦(かしま)しい”に決まっていると思うが、韓国では言い回しが違う。「女三人あつまれば皿に穴があく」というそうだ。頭脳明晰な諸兄はすぐ合点がいくだろう。かしましいだけならいいが、韓国の女性は言い方がキツイ。鋭い舌鋒が皿に命中して穴があくのだそうだ。呉善花さんも「日本の女三人より韓国の女三人の方が騒がしいことは確か」と認める。
つぎは「雌鳥が鳴くと家が滅びる」という格言。呉善花さんはいう。時を告げて鳴くのは雄鳥であり、雌鳥は鳴かない。したがって雌鳥が鳴くということは、本来鳴くべき雄鳥をさしおいて雌鳥がしゃしゃり出るということになる。女が強いと男が表に出られない。女が経済力をもってしまうと男がダメになる。だから女は男を表に立たせて自分は一歩退いた位置にいることがよい、ということである。
呉善花さんお知り合いの韓国女性で、自分の給料が夫より高いことを気にして、会社に頼んで夫の給料より安くしてもらった者がいる。そうしないと、夫に悪くて気が済まないのだという。さすが儒教の国はちがうなあと感心するが、そんなことして夫はウンというのか。そこまでしたら夫としてもメンツ丸つぶれにならないのか。
3つ目。日本では「夫婦喧嘩は犬も食わない」というが、人間様が犬を食う韓国では主役が犬から水に変わり、「夫婦げんかは包丁で水を切る」というらしい。水は切っても、切ってもすぐ元に戻るから。
韓国では夫婦喧嘩は日常茶飯事で、しかもかなり激しくやりあう。「もう愛想がつきた」「はっきり分かれてやる」などは当たり前、「殺してやるう!」、「殺すなら殺してみやがれ!」が飛び交う。そんな光景は毎度のことだから、どんなにすさまじくとも他人はいっさいかかわらない。どうせ翌日には二人ともけろっしているから、なかに入った他人がバカをみることになるのだという。
GG
韓国咄 その10。 「鼻」にいく。
日本では「膝をつき合わせて相談(談判)する」という言い回しがある。
明治新政府軍が徳川幕府に江戸城の開城を迫ったとき、新政府軍の大総督府下参謀西郷隆盛と幕府陸軍総裁勝海舟は「膝詰め談判」をした。
鼻突き合わせて
この「膝詰め談判」に相当する韓国の言い回しは、「鼻を突き合わせて相談する」というそうだ。西郷隆盛と勝海舟の場合は、「膝詰め談判」といっても膝と膝の間は畳半畳分はあっただろう。それぐらい離れていないといざというときに抜刀できない。ましてや「鼻詰め談判」ともなれば噛みつかれそうで、談判どころではないのではないか。
日本と韓国の言いまわしの違い対する呉善花さんの見方はこうだ。
日本には昔から正座の習慣があるが、韓国では女は立て膝、男はあぐらと決まっていた。正座は下の者が上の者に畏まるとき、たとえば子供が両親や祖父母に対するとき、あるいは罪人がとる座位であり屈辱的な意味もあったから、「膝詰め談判」はあり得なかった。鼻突き合わせてでは近すぎる感じもするが、韓国の伝統的な居室はたしかに日本のそれよりもかなり狭かった。そのせいかどうかはわからないが、とのこと。
ではぐっと下にさがって「尻」に行こう。韓国には「尻に釘が付く」という言葉があるそうだ。訪ねてきた友だちがおしゃべりに夢中になって帰ろうとしないようはとき、「尻に釘が付く」というそうだ。日本語の「尻に根が生える」と同義らしい。
「尻に火が出る」という言い回しもあるそうだが、日本の「尻に火がつく」とはちょっとニュアンスがちがうらしい。「尻に火がつく」とは切迫した状態をいうが、「尻に火が出る」はあわてて逃げる感じだそうだ。まるでジェット機だ。
GG