Akatsuki庵

後活(アトカツ)中!

三川内焼

2008年07月16日 18時16分18秒 | 美術館・博物館etc.
「みかわち(やき)」と読む。
長崎県佐世保市の特産で国の伝統的工芸品にも指定されている。
今回の佐世保来訪で初めて知った。

三川内焼美術館を訪れ、最初にショップで現代の作家さんによる作品をチラリと見た時、単純に「有田も近いし、伊万里系統の磁器かな」という印象を持った。
ところが、展示室に入って初期の作品を観た時、思わず「これって、あちらから連れてこられた人たちによって焼かれたもの?」と地元の友人に尋ねてしまった。
友人は一瞬驚いて、頷いた。
(前日にパンフレットもらっていたのに、まったく読んでいなかったことがバレちゃった

時代的には初期伊万里とほぼ同じなのに、まったく違う。
初期伊万里や古伊万里は「日本人が中国(明)や朝鮮(李朝)の焼物や作業の工程を模倣して作った」という感じが明確にわかるが、初期の三川内焼からはそれが感じられなかった。

帰宅してから改めてパンフレットを読んだり、新聞記事を検索してみて、やっと理解が及んできた。

秀吉の朝鮮の役の際、平戸藩主の松浦鎮信が連れ帰った陶工によって開かれたのは始まり。
よって、400年以上の伝統を持つ。
江戸時代は藩の御用窯として発展、朝廷や将軍家への献上品をはじめ海外にも輸出されていたらしい。
純白の白磁にかわいらしい唐子の絵柄や美しい透かし彫りが特徴。

明治維新でいわゆる「官窯」から「民窯」に転じたが、地元の人々の努力で御用窯時代の技術は受け継がれて現在に至る。
今でも40近い窯元がある。
※詳細はこちら

美術館では専ら江戸時代前期の作品を観賞した。
九州に来ても、やはり興味は茶陶。
初期は水指が圧倒的に多かった。
ただ、どれも大ぶり。

身から蓋にかけて龍がからみつく細工に感心した。
つまみが頭。
「蓋が割れたら、困るだろうねー」

江戸時代中期以降は皆具や香合、蓋置も出てくるが、だんだん茶陶そのものが減ってくる。
これは伊万里焼にも共通している傾向。

おそらく、秀吉やその前の時代は茶陶は「唐来品」が圧倒的に価値があった。
出兵でその技術を“現地調達”できるチャンスに恵まれたのだから、工人たちはさながら“錬金術師”のような価値があっただろう。
ただ、工人たちは茶陶そのものを知らないから壺をイメージして作らざるをえない。
結果として、大ぶりな水指が多くなったのではないか。

そして、鎖国時代に入り、海外貿易は長崎に限定される。
加えて、本州でも陶芸の技術が発達する。


となると、茶の湯の本場・京都の傾向を収集しながらの茶陶生産よりも、オランダ人や中国人や喜びそうな華麗な大皿や大壺を生産する方が、はるかに儲かったのではないか。
と推理してみる。

もっとも、地味な茶陶は唐津では受け継がれるのだけど、やはり長崎から少し離れた土地だから、茶陶が発展していったのかしら。

で、三川内焼の印象。
現在の作品は伊万里よりも白くて、滑らかで繊細。
食器はとてもいい感じ。
ただ、茶陶としては初期の厚みのある白磁の方が好きかな。

唐子がとてもかわいいので、何か一つ。
菓子器か火入がほしい。。。ナ
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