統合失調症ライフ

闘病生活8年目にして寛解を目指すあじーのブログ

ウチのセンセイ

2011-08-22 | 日記
10年以上たつし、もう時効だろうと言うことで、
学生時代の担当教官、D先生の話をします。
私は一応4年大学を出ておりまして、
出た以上は卒業論文というものも書いたのです。
ブログがメジャーになった今の時代からは想像もつかないでしょうが、
当時は自分の文章を書いて人に見ていただくというのは
本当にお好きな方だけがやる道楽で、
私はほとんど作文というものをしたことがなく、苦手で、
おまけに字がめっぽう汚かった。
だから、D先生から

「君は見かけに反してポキポキした文章を書くね。汁気が全くない。」

と言われた時は、腹を立てるよりも、
(やっぱ関西の人はうまいこと言うな!)
なんて感心したものです。

提出が終わった後で分かったのですが、
私が選んだ卒論テーマに対するD先生と私の解釈は真反対でした。
でも、D先生はそれをストレートにはおっしゃらない。

「君の論証、AとBが矛盾するから成り立たないよ。
一から考え直しなさい。」

というのを11月くらいまでやって、
どんなアプローチも効かない、どうしようどうしよう、
というかAとBは矛盾しないぞ、なのにどうしてこんな言いがかりを?
などと苦しんでるうちに提出が迫り、結局D先生に一切見せずに提出したら、
返却していただく時に、
「まぁ、君は……!」
と言いながら卒論で頭をぶん殴られましたけれどそれは別の話。

残暑厳しい9月。
とある論文指導の朝でした。
論文指導の日は10時に研究室前という決まりになっておりました。
私たちの研究室は3年生が3人で、
3人娘(と、D先生は言われていた。昭和だなぁ。)は9時50分に集まり、
先生をお待ちしておりました。

「Eちゃん、院に誘われたんでしょう?行かないの?」
「この大学でM(修士)まで行ってもD(博士)まで行っても知れてるよ。
私の卒論の評価が高いのは、Dさん好みの展開にしているからであって、
こんなのはずっとやりたくないし。」
「Fちゃんはどうするの?」
「私は実家に帰らなきゃなぁ。
ちょっと障害のある兄弟を母一人が看てるから。あじーちゃんは?」
「私は……未定。」

4年生の女子大生には話すことがたくさんあります。
スルッと11時を過ぎました。
D先生は、時間に厳格な方です。
学部玄関に移動してお待ちすることにしました。

「北村薫の「六の宮の姫君」読んでたらさ~、
自分の卒論のくだらなさが身にしみるんだよね。」
「Eちゃんにそう言われたら、私なんかどうしたらいいの。」
「あじーちゃんの論、私嫌いじゃないよ。
あ、「夜の蝉」読んでどう思った?」
「寄席に行ってみたくなったなぁ。落語って面白そうだよね。」
「Fちゃんにも貸そうか?」
「いいの?嬉しいな。」

9月といってもまだ暑い日で、私たちは汗だくで玄関に立っていました。
大学は夏休みです。
誰もいないキャンパスに、私たちだけが立っていました。
突然玄関脇の事務室から事務員さんが出てきて、私たちに言いました。

「一時間くらい立っていらっしゃるけれど、何かあるんですか?」

私たちを代表してEちゃんが答えました。

「10時から卒論指導のD先生をお待ちしております。」

事務員さんは、ぎょっとした顔をしました。

「今は12時ですけれど。
D先生は単身赴任の一人暮らしでらっしゃいますよね。
そして心臓がお悪い。誰か電話は?」

Eちゃんが再び答えます。

「私たちはD先生の電話を知らないので、電話もかけられません。」

事務員さんの顔色がさっと変わりました。
D先生が時間に厳格な方だというのは、皆が知っているのです。
事務室に飛び込み、名簿をくって電話をかけているのが外から見えました。
そして、電話はつながり、話し終えて、
戻ってきた事務員さんの言った言葉が。

「D先生は寝坊してらっしゃいました!30分でいらっしゃいます!」

……えー!

本当に、30分でD先生はいらっしゃいました。
で、開口一番おっしゃったのです。

「女性というのは、
なぜ午前二時に泣きながら電話してくるのでしょうねぇ。」

……はい、私たちの負け!
今の私であれば、

「それは男性がそうさせるのです、先生。」

くらい言いますけれども、当時は二十歳そこらの小娘ですからねぇ。
ずっと後で当時のD先生のすったもんだを知ったのですが、
それは別の話なので割愛。

そんなこんなで、私はD先生に色んな事を学びました。
授業の内容は実生活では全然使えませんけれど、
先生の台詞まわし、未だに思いだしては苦笑いしております。