統合失調症ライフ

闘病生活8年目にして寛解を目指すあじーのブログ

be動詞さんへ <閉鎖のお知らせを受けまして>

2011-08-23 | 日記
とてもびっくりして、これを書いております。
「検証」は、削除いたしました。
私も以前にブログを閉鎖したことがあり、
手塩にかけた大切な空間を手放す悲しさを知っております。
今回は私の書いた記事のせいで
色々な方に色んな事を言われてしまったのではないでしょうか。
私の配慮が足りませんでした。
本当に申し訳ありません。

「何かが足りない」
と書いてらっしゃいましたけれど、それはお若いからだと思います。
若いということは、気づかないことがあるということだと私は思うのです。
それを気づくようになるのは、年を重ねないと難しいです。
逆に、気づかないのはとても大事な才能です。
それは、びっくりするような素敵なことを成し遂げる力になります。
今の「足りない」自分を大切にいとおしんであげてください。
そして、10年先の自分を信じてあげてください。
今、今!とばかり思っているととても苦しいです。

私がこんなことを言うのはおかしいですが、
どうぞ表現なさることを止めないでいて欲しいです。
表現は力です。
誰かを、自分を傷つけますが、
誰かを、自分を癒してくれます。
be動詞さんの言葉に心を動かされる人がいます。
だからこそ、検索で第一候補に上るのだと思います。

be動詞さんは、とても素直な方なんだろうなと思います。
今回はそのbe動詞さんを傷つけてしまう形になってしまいました。
本当に申し訳ありませんでした。
以後気をつけます。

長々と申し訳ありません、それでは失礼いたします。

be動詞さんへ

2011-08-23 | 日記
コメレスありがとうございました。
仕事の都合で遅くなってしまいましたが、
返事をさせていただこうと思いましてページを見ましたらば
記事が削除されてありましたのでこちらに載せたいと思います。
以下コメントに載せる予定だったものです。

お返事ありがとうございます。
かえってお気を使わせてしまって、申し訳ありませんでした。
こちらも、be動詞さんを非難するつもりは全くなく、
ただただ、正しい知識を周りの方にも知っていただきたくて、
あの記事を書きました。
せっかくリンクのお話を頂いたので、
お言葉に甘えてお願いしてもよろしいでしょうか?
どうぞよろしくお願いいたします。

あと、余談になりますが、
今回のことでbe動詞さんだけでなく、
be動詞さんの周囲の方のお心も使わせてしまったのではないでしょうか。
本当に申し訳ありません。
くれぐれもよろしくお伝えくださいませ。

以上です。
元になるbe動詞さんのテキストが削除されたということで、
もし私の「検証」も削除した方がよろしければこちらでおっしゃってください。
そのようにさせていただきます。
ただ、ヤンデレがお好きな方もいらっしゃるでしょうし、
そのような嗜好をお持ちの方にbe動詞さんの解釈がとても魅力的に映るのは
理解しているつもりでおります。
ですので、もしbe動詞さんさえ気が向きましたら、
記事の再掲載などご検討くださいませ。

ではでは失礼いたします。

ウチのセンセイ

2011-08-22 | 日記
10年以上たつし、もう時効だろうと言うことで、
学生時代の担当教官、D先生の話をします。
私は一応4年大学を出ておりまして、
出た以上は卒業論文というものも書いたのです。
ブログがメジャーになった今の時代からは想像もつかないでしょうが、
当時は自分の文章を書いて人に見ていただくというのは
本当にお好きな方だけがやる道楽で、
私はほとんど作文というものをしたことがなく、苦手で、
おまけに字がめっぽう汚かった。
だから、D先生から

「君は見かけに反してポキポキした文章を書くね。汁気が全くない。」

と言われた時は、腹を立てるよりも、
(やっぱ関西の人はうまいこと言うな!)
なんて感心したものです。

提出が終わった後で分かったのですが、
私が選んだ卒論テーマに対するD先生と私の解釈は真反対でした。
でも、D先生はそれをストレートにはおっしゃらない。

「君の論証、AとBが矛盾するから成り立たないよ。
一から考え直しなさい。」

というのを11月くらいまでやって、
どんなアプローチも効かない、どうしようどうしよう、
というかAとBは矛盾しないぞ、なのにどうしてこんな言いがかりを?
などと苦しんでるうちに提出が迫り、結局D先生に一切見せずに提出したら、
返却していただく時に、
「まぁ、君は……!」
と言いながら卒論で頭をぶん殴られましたけれどそれは別の話。

残暑厳しい9月。
とある論文指導の朝でした。
論文指導の日は10時に研究室前という決まりになっておりました。
私たちの研究室は3年生が3人で、
3人娘(と、D先生は言われていた。昭和だなぁ。)は9時50分に集まり、
先生をお待ちしておりました。

「Eちゃん、院に誘われたんでしょう?行かないの?」
「この大学でM(修士)まで行ってもD(博士)まで行っても知れてるよ。
私の卒論の評価が高いのは、Dさん好みの展開にしているからであって、
こんなのはずっとやりたくないし。」
「Fちゃんはどうするの?」
「私は実家に帰らなきゃなぁ。
ちょっと障害のある兄弟を母一人が看てるから。あじーちゃんは?」
「私は……未定。」

4年生の女子大生には話すことがたくさんあります。
スルッと11時を過ぎました。
D先生は、時間に厳格な方です。
学部玄関に移動してお待ちすることにしました。

「北村薫の「六の宮の姫君」読んでたらさ~、
自分の卒論のくだらなさが身にしみるんだよね。」
「Eちゃんにそう言われたら、私なんかどうしたらいいの。」
「あじーちゃんの論、私嫌いじゃないよ。
あ、「夜の蝉」読んでどう思った?」
「寄席に行ってみたくなったなぁ。落語って面白そうだよね。」
「Fちゃんにも貸そうか?」
「いいの?嬉しいな。」

9月といってもまだ暑い日で、私たちは汗だくで玄関に立っていました。
大学は夏休みです。
誰もいないキャンパスに、私たちだけが立っていました。
突然玄関脇の事務室から事務員さんが出てきて、私たちに言いました。

「一時間くらい立っていらっしゃるけれど、何かあるんですか?」

私たちを代表してEちゃんが答えました。

「10時から卒論指導のD先生をお待ちしております。」

事務員さんは、ぎょっとした顔をしました。

「今は12時ですけれど。
D先生は単身赴任の一人暮らしでらっしゃいますよね。
そして心臓がお悪い。誰か電話は?」

Eちゃんが再び答えます。

「私たちはD先生の電話を知らないので、電話もかけられません。」

事務員さんの顔色がさっと変わりました。
D先生が時間に厳格な方だというのは、皆が知っているのです。
事務室に飛び込み、名簿をくって電話をかけているのが外から見えました。
そして、電話はつながり、話し終えて、
戻ってきた事務員さんの言った言葉が。

「D先生は寝坊してらっしゃいました!30分でいらっしゃいます!」

……えー!

本当に、30分でD先生はいらっしゃいました。
で、開口一番おっしゃったのです。

「女性というのは、
なぜ午前二時に泣きながら電話してくるのでしょうねぇ。」

……はい、私たちの負け!
今の私であれば、

「それは男性がそうさせるのです、先生。」

くらい言いますけれども、当時は二十歳そこらの小娘ですからねぇ。
ずっと後で当時のD先生のすったもんだを知ったのですが、
それは別の話なので割愛。

そんなこんなで、私はD先生に色んな事を学びました。
授業の内容は実生活では全然使えませんけれど、
先生の台詞まわし、未だに思いだしては苦笑いしております。

絶対安全剃刀~「凄み」の笑いを立川談志を軸に読み解く~㊦

2011-08-22 | 日記
さて、今度はDVDの話。
私が唯一見たDVDは「笑う超人」です。
「黄金餅」「らくだ」が収録されてありました。
私は「黄金餅」の方が好きなのでその話を。

長屋に住む金兵衛は、病気をした隣の部屋の西念を見舞う。
西念はあんころ餅を食べたいと言い、買ってきてやると
一人だけで食べたいと言う。
いぶかしんだ金兵衛がのぞくと、
西念は貯め込んでいたお金をお餅にくるんで飲みこんでいた。
その無理がたたって西念は死んでしまう。
それを見ていた金兵衛は
西念の死体をわざわざ下谷から麻布の葬儀場まで運び、
亡骸の腹をまさぐってお金を取り出す。
その金を元手に金兵衛は商売をはじめ、店は大店になった。

この感想は以前も書いたので「またかよ」の方もいらっしゃると思いますが
おつきあい下さい。

まず、お金をお餅でくるんで飲み込む時の西念の描写から目が離せない。
そして、無償で隣家のおじいちゃんの看病をするような金兵衛がね、
「(棺桶の樽に入らないから)死体の首折っちまえ。」
みたいに言いだすところから様子が違ってきて、
お金を取り出したいばっかりに火葬場のスタッフの人に無茶苦茶注文したり、
人間が変わってくるんですよ。
そしてクライマックスの、
がつ、がつと西念の腹をまさぐってお金を取り出すシーン!
あの必死な手の動き、何かとりつかれたような目、しとどに流れる汗。
人間とはここまで変わるものなのか、
いや、人間が変わったんじゃなくて元からこうであったか、
というより、全ての人間にはこういう要素があるのではないか……。
これは文字で読んでも分からなかっただろうなと思いました。
DVDもっと見たい。

話は飛びますが、私は鳥居みゆきさんの
「マサコ」が凄いと思えなかったクチです。
(私の周囲には男性のファンが多かったけれどどうしてだろう。美貌か。)
まともに話していたはずの鳥居さんが
イキナリ持っていた熊のぬいぐるみを放り投げ、
すごく離れた意味のことをわめきだすという統失独特の状態を演じ、
「ヒットエンドラーン♪」
というギャグで締める。
あれは統失というタブーを扱っていたけれど、
演じることによって観客にこう思ってほしいという
テーマが私には伝わらなかったのです。
だから、笑うけど統失としてちょっと不快と思っていました。

さて、以上のことから私が感じたことは何か。
「凄み」のある笑いをしようと思ったら、

・対象を(この場合は死・殺)色々な角度から分析しつくすこと。
・お客様が見た瞬間に演者の意図がパンッと伝わる技術を持つこと。
・意図を持ってない笑いには凄みが出ないこと。
(自分の中に常に表現テーマをもって笑わせること。)

……おぉ、すごく普通な結論。
私ごときの話なのでこれくらいでお許し下さいませ。

ちなみに、何で「死・殺」をテーマにした作品ばかり並べたかって言うと、
「障害」と同じくらいタブーなものってこれかと思って(単純短絡)。
もっと明るくて軽くて深くて面白い話いっぱいありますよね、落語。

結論は出たじゃないか、
と言われそうですがもう少しお付き合い下さいませ。

ちょっと家元から離れますが、立川志の輔さんの「高瀬舟」を拝見した時、
私はものすごく良いと思い、泣いてないて、

「この人にも一種の凄みがあるんだな。」

って思いました。
けれど、このブログ記事を考え始めた時、

「でも「高瀬舟」を持ってくるのはちょっとズルじゃないかしら。」

という気持ちが芽生えました。ちょっとだけね!
確かに志の輔さんは凄かった。
でも、それは「高瀬舟」のもつ凄みでもあります。
だから、

「安全な枠の中で勝負しやがって。」

という気持ちになってしまったのです。
でも、それをいうなら家元だって「落語」の枠の中での勝負なんですよね。
もっと言うなら、
マンガも、小説も、テレビも、映画も、演劇も、歌舞伎も、オペラだって
安全な枠の中の勝負。
その枠の中でいかに自分の中にある、時にすごく危険な何かを伝えるか。
それが全ての凄みのある創作物の眼目であるような気がいたします。

以上です。
あぁ、かけらをもらうとか言うレベルじゃなかった。
でも、到底無理というのがわかって良かったです。
お粗末さまでした。

絶対安全剃刀~「凄み」の笑いを立川談志を軸に読み解く~㊤

2011-08-21 | 日記
化粧ポーチの中の安全剃刀のカバーが外れてたのに気づかずに握りしめた
お友達を持つあじーですこんにちは。

前のブログ記事の最後に「凄み」って言う言葉を使いました。
文章を書いていたらスルッとそれが出てきて、
「ああ、これ言いたかったんだな。」
ってそのまま使っちゃったんですけど、
じゃあ「凄み」のある笑いって何だ?
って考えた時、スルッて立川談志さん(以後家元)が出てきたので、
高座は行けたことないし、DVDは一つしか見たことないしと
私の情報量はないに等しいのですが、その中から家元を考えることで
「凄み」のある笑いのかけらでももらえたら思います。

私は家元の全盛期を知りません。
知ってたら大変です。年齢詐称だよ。私本当は何歳だ。
私が家元のことを、
というかお笑い全般を見始めたのは統失になってからです。
つまり八年前。
統失の症状の一つに、
無条件にどうにも死にたくなる希死念慮って言うのがあるんですけど、
それをごまかすために
お笑いのDVDや本を読み始めたのがきっかけなのです。
DVDを見たり読書をしていると、
その時だけでも自分の状況を忘れられたし、
思いっきり笑った後は、なぜだか前向きになれました。
だから統失組合の人にはお笑いをオススメします(これは余談。)。

家元は著書が多くて、私の家の近所の図書館には
その膨大な著書のうちのほんのぽっちりが収蔵してありました。
それを読んだのがはじまり。
家元が古典落語の解説をするという本でしたが(タイトルを失念。)、
その中のお話の一つが特に印象深かった。
以下簡単なあらすじ。

江戸の花火イベントの夜、
人ごみの中で武士と町人の体がぶつかりあって喧嘩がはじまる。
町人はいなせな若者で、武士に臆せず向かっていく。
花火を見ていた観衆はその若者の味方をしてたきつける。
どんどんと上がる花火の下、二人の喧嘩はエスカレートしていき、
ついに一番大きな花火がどんと上がった瞬間に、
武士は町人の首をはねる。
見事な花火と飛んだ首に向かって観衆から
「ヨッ、三国一!」
と声がかかる。

……以上です。
私はこれを、
「いきがったチンピラが自滅する話」
だと思っていたんですよ(映画の「スカーフェイス」みたいな。)。
でも、解説を読むと全然違って、

「武士の暴力性に目が行きがちだけれど、むしろそれよりも
観衆の冷酷さに重点を置くべきだろう。」

というようなことが書いてあって。
あっ!て思った。
判官びいきの観衆は、確かに若者の味方だったはずなんですよ。
でも、首をはねられた瞬間、
「ヨッ、三国一!」
と声をかける。
つまり、花火と若者の死は観衆にとって同等の娯楽であると気づけと。
そんなの今まで考えもしなかった。
というか、芸能という世界の第一線でやってきた家元だからこそ、
その考えに至れたと思って。
このおじいちゃんは凄い人なのね、追いかける価値があるって思った。



……長くなりそうなので今日はこれで失礼します。
おやすみなさいませ。