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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

初めての道を行く ~親たちと同じように~

2022-05-26 15:35:21 | 日記

 宗祖降誕会のご案内を郵送しました。
電話で問い合わせがあり、降誕会のことをコウタンカイと
一般的な読み方をされる方がありました。

常識的な読み方だと、降誕会の降の字は、降下するの降ですから、コウ、
会の字を エではなく カイと発音されていました。
仏教が日本に伝わったのは、中国の漢の時代より古い呉の時代でした。
そこで、発音は漢音ではなく、呉音で読むことが多いものです。

世間の常識は、知っていても、仏教のことについては
聞き確かめないと、読み方も内容も分からないことが
たくさんあるものです。

 ところで。 宗教は 吊り革と同じ効果があると、
教えていただいた先生があります。
電車やバスで、座席に座れずに立っていて、カーブや急停車で
車体が揺れても、吊り革につかまれば安心です。
もしものときに ちゃんと吊り革につかまることができれば、
大抵の危険は 避けられるものです。

 ただ その吊り革と同じはたらきをする宗教の場合には、
本当に頼りになるものと、そうでないものとがあります。
老病死を迎え、どんな時でも頼りになる宗教を 
ちゃんと確かめ持っておくことが、生きていくには、
重要なことだと言えましょう。

 バスや電車でも よく知っている慣れた道ですと、危ない場所は
だいたい予測出来ますが、初めての道の場合は、予想がつきません。
車内アナウンスで「この先 大きく揺れます」と教えてもらえば
準備できますが、 たまたま揺れが予想より小さければ、
次も大丈夫と油断して、対応していないと事故につながります。

 ゆうまでもなく、私たちは、今、初めての人生を歩んでいます。
経験したことのない 初事ばかりが 次々に起こってきます。
考えてみると、親たちも、私と同じように初めての人生を送り
悩み、苦しみ、反省し、私と同じように 初めての人生を送った人です。

自分が経験したその苦労や悩みを、自分の子どもや孫が、
早めに気づいて大きなショックを受けなくてすむように
困難を避けることが出来るように 教えておきたい、そうした思いを 
宗教を通して、伝え残してくれたのではないでしょうか。

 バスや電車の車内アナウンスと同じように、先輩たちの
呼びかけを聞く努力をすれば、 私の人生は どんな悪路であっても
乗り越えていける力を受け取ることができるのでしょう。

 宗教は先輩たちが 経験して気づいた問題を 後輩に伝えて
同じ過ちを犯さないようにとの思いやりではないかと 味わいます。
親や先祖の願いを確かに聞き取る力を、お聴聞することで育てていき
苦難多い中でも喜び多い、 豊かな人生を 送らせていただきたいものです。
それが先立った親たちが もっとも喜んでくれることではないでしょうか。







仏縁を結ぶ ~真実へ導いていく~

2022-05-26 15:29:40 | 日記

 ユーチューブには お念仏の教えの法話が数多くアップされています。
直近のご法話ばかりではなく、数十年前の懐かしいご講師のお話も
聞くことが出来ます。

 そうした中に、こんなお話が、残念ながら、どなたのお話だったか、
思い出せませんが・・・、


 浄土真宗は 祈らない宗教と言われます。
これは、一般の仏教常識からすれば、特異なことであり、
なかなか受け入れてもらえないものである。

 この度の新型コロナウイルスの流行で、疫病退散 
鎮静祈願とか 終息祈願など、仏教 神道が一緒になって
お勤めされているとのニュースを聞きます。

 ところが、浄土真宗だけは、祈らない宗教ということで、
そうした祈願をしないのはどうしてなのかと、質問されることがある。
病気で苦しむ人々の悩み苦しみを解決するのが、
宗教であるはずなのに 何もしないのはどうしてなのか。

 浄土真宗の僧侶が、護摩を焚き祈願なさる僧侶の方に、
「お祈りの効果があると信じて祈られているのですか」と、
ぶしつけな質問したのに対して、
「浄土真宗では、祈祷など、おやりにならないようだが、
  祈願にお見えになるのは、浄土真宗の方が多いですよ。」
との答えが返ってきたそうです。

「自分たちが祈祷するのは、仏縁を結ぶため、
  ご依頼があれば、お祈りします。
  それで、こころが落ち着けば、それもご縁ですし、
 いくら祈っても 思い通りにならないと、また、
 お見えになる、そうしたご縁を繰り返すことで、
 仏縁を得ていただく方が出てくるものです。」

 悩みを持って訪ねてきた人を、門前払いをせずに、
相手の立場になって、悩み苦しみに真摯に向き合って
いるのですよとの、お答だったといいます。

比叡山の千日回峰行の最後は、京都の町中に出て、
待ち受けている人々に行者が念珠を一人ひとりの頭に
かざしていく、あれは仏縁を結ぶため、いつか、
教えに出会っていただく、そのご縁を作っているのだ
というのです。

 仏さまの願いに叶わないことをいくら願っても、
実現することはない。
それでも、悩みを解決して欲しいと訪れた人に、最初から
真実の教えを説いても、理解出来るものではない。
まずは、悩める人と向き合い、共に苦しみ悩み、
解決できるよう対座する。

そうした関係を繰り返しながら 真実の教えへと導いていく、
それを 方便、真実に導くための手立てだといいます。

お釈迦様の教えの大半は、なかなか理解出来ない真実の教えへ
誘導するための 方便の教えであると、おっしゃっていた
先生もありました。

 まずは、仏縁を結ぶためには 相手の悩み苦しみと 
素直に向き合っていき 真実の教えへと導いていくことが、
今大事なことではないか、という、お話がありました。