Aino's Dream

職業写真家Aino(日本写真家ユニオン会員)のオフィシャルブログ。写真って夢みたい。。ゆるりゆるりと夢を追い続けて。。

「つるかめ助産院」小川糸

2013年03月20日 | 

 

「ソフィーの世界」のあとにこの本を読んだこと、また近くして「ノルウェーの森」を読んだことは必然のように感じる。

この物語は、心に大きな傷を持ちとても孤独な一人の若い妊婦が、南の島の助産院で赤ちゃんを産むまでの物語だ。傷ついた心がお腹の赤ん坊とともに癒されていく、その様子がとても胸に温もりを与えてくれる。ちょうど島の人たちが彼女にしてあげたように。そして、生と死の神秘。それは、医学的な、あるいは科学的なものを超えていると思わざるを得なかった。


「ソフィーの世界」ヨースタイン・ゴルデル

2013年03月20日 | 

 

この本に出会ったのは20代前半だった。その頃、果たしてこの本の内容を理解していたかどうかは疑わしい。そして、今また読んだ後においても、理解できていないことが多すぎると感じている。だから、何回でも読むつもりだ。

この本を一言で言えば哲学史だ。大昔から、ギリシャ神話の時代から「世界はどこからきた?私は何?」という問いが発しられてきた。哲学者たちは様々な時代背景とともに考え研究してきた。この本を読んだ後になっても、そして今の最先端科学のことに思いめぐらせていても、この問いに対する答えはこの本にはない。それがこの本のいいところだと思う。そういうことは、各々自分で考えるべきことなのだ。

ただ一つ、世界は美しく、それは、宇宙のとてつもなく大きな塊がいわゆるビッグバンで爆発を起こし、散り散りになった一つの星屑が地球であって、たまたま水があり酸素がなかったおかげで単細胞生物ができ、植物へと進化し・・・とてつもなく長い時間をかけて人間が生まれたこと。そしてそれは脈々とバトンされて今の私がいること。それはほとんど奇跡に近いと思った。そしていわば、人間も星屑なのだ。

今まで子供はいらないと思っていた。だけど、そんなに奇跡的に生を受けたのなら、それはバトンしていかなければいけないのではないかと思うようになった。そうして、私はこれから先も「世界はどこから来た?私は誰?私は何?」という問いを自分に問い続けようと思った。答えなんてなくていい、問いを発することに意味があるのだと思う。


「ノルウェーの森」村上春樹

2013年03月20日 | 

 

ノルウェーの森を最初に読んだのは、確か20代半ばだったように思う。

その時は、若さ故にありがちな、性的部分に興味をそそられた記憶がある。実際に村上春樹も処女作ではセックスについては一切書かず、ノルウェーの森ではセックスのことをたくさん書こうと思ったと言っている。

しかし、この作品は、40になった私には生と死の話に感じられた。

生は死を含んでいる、という文章が頭を離れない。確かにそうなのではないかと思う。生きているということは死んでいるということの対極に位置するものではなく、常に一緒にいるものなのだと。そして、生きている者は死を背負って生き抜かなかればならないということを。

この本に対する感想が上記のように短いが、この本は私にとって大切な本になった。保留にしている点もたくさんある。多分これから先も何度か読む本だろう。


「八日目の蝉」角田光代

2013年03月20日 | 

 

この物語は既にドラマで見ていた。

しかし、映像で見るのと本で読むのとはその物語が自分に迫ってくるものに明らかな違いがあるので

いいと思ったドラマの原作は読みたいといつも思う。

 

この物語は、不倫で身籠った子を不倫相手の男が、自分が離婚して自分たちが結婚できるようになるまで待ってくれ、と説得されて堕胎させられ、さらに子供の産めない体になってしまう女が主人公だ。しかし、やがてその男の妻にも子供ができ、主人公はその赤ちゃんを一目見たいと思う。それでも一目見るだけではダメで、結局はその赤ん坊を連れ出して逃げる、つまり誘拐犯として逃げて逃げて逃げて逃げまくるのだ。

この話を半分くらいまで読んだ時には、人の赤ちゃんを誘拐するその女の気持ちが理解できなかったし、びくびくとしていつも逃げまくるその生き方はにホトホト嫌気がさしてくる想いだった。最後まで読むのをやめようとさえ思った。

しかし、逃げ抜いて小豆島まで子供とやってきて、美しい自然の中で伸び伸びと本当の親子のように暮らすようになったあたりで、なんだかホッとした。そして温かいものを感じるようになっていた。

結局、その島で主人公は捕まる。子供と引き離される時に言った彼女の最後の言葉は「待って、その子まだ朝ご飯食べていないの!」だった。

引き離された子供はめちゃくちゃになった家庭で生きる。実の母親より誘拐犯の方が母親にふさわしく感じられるくらいだった。

子供はそれでも成長し、やはりまた妻帯者と交際するが、「あの女」(彼女は誘拐犯のことをそう言う)みたいにあるいは自分のバカな両親みたいにはなりたくないから、赤ちゃんを盗むまでに人を愛しずぎることなんかやめようと思う。

でも、愛ってそういうものだろうか?愛しすぎて赤ちゃんを盗むのは、私から見れば、愛の名を借りたエゴイズムに思える。

私が思う真実の愛は、無償の愛であると思う。愛しているからといって何かを動かすのは、それは愛ではないと思う。

私が自殺未遂をし、助かって退院したとき、口数の少ないオットは、こう言った。

「あの愛乃を発見したとき、そんなに辛かったのか、そんなに辛いのならこのまま死なせてあげた方がいいのではないか」と考えたと言う。その時のオットは自分がひとりぼっちで取り残されていくことやそんな自分のことは考えもしなかったのだ。ただただ、私のことだけを理解し考えてくれた。私が知っている愛はこういうものだ。

 


読書について

2013年03月20日 | 

この頃、ちょっとした暇も惜しんで本を読んでいる。

昔読んだ本もあれば、新しい本も。

思えば、私はオットと結婚するまで、たくさんのたくさんの本を読んだ。

何かの答えを見つけたかった。でも何を見つけたかったのか、問い、がそもそもなかったのかもしれない。

あるいは、弁護士になる夢をあきらめざるを得なくて、私は行き場所を本の中に探そうとしていたのかもしれない。

オットと結婚して、私は行き場所を見つけた。

だから、実家の私の部屋中を埋め尽くしていた本を全部処分した。

しかし、私はまた本を読むようになった。それが何故なのか分からない。ただ、単に面白いからという理由ではないようだ。

考えることが好きなのかもしれない。お風呂の中でも読んでいる。

1冊終わるとまたすぐに1冊・・・それは乱読に近い。

そしてこの頃、1冊と次の1冊の中で間を置きたいと感じるようになった。

1冊1冊が今の私にとってとても意味深いものであり、読み終えてもなかなか本棚にしまえないのだ。

昔読んだ本も、とても新鮮だ。そして昔とは違ったように感じ考える。

だから、今現在の私がどう思ったか書き残そうと思う。

そうすることによって、前へ進めるような気がするのだ。


Hank Jonesのピアノ

2013年03月20日 | 音楽

 

この頃、オットが帰ってくるまでの間に、Hank Jonesの"LAST RECORDING"を聴いていることが多い。

そして、何をしていても、そのアルバムのあるところにくると、目を閉じ、静かに聴き入ってしまう。

"Fly Me To The Moon"-彼の弾くこの曲は私の心の一部を何度でも震わす。

同じ曲を他のアーティストの演奏で何回も聴いてきたはずなのに。

そこには哀しみと優しさが入り交じっている。

最初の方は哀しみという哀しみが静々とひたひたと舞い上がる。

でも、そこには救いがあるのだ。それは、何もかもくるんでしまえるような

優しい音色だ。

 

私が彼の本当のところを知り得るはずもなく、むしろ私の持っている彼の情報は"ミスター スタンダード"と呼ばれ

まるで職人のように、ピアノの練習を晩年まで欠かさなかったというくらいのものだ。

しかし、私は彼がただの”ミスタースタンダード”ではないと、彼の奏でるピアノは訓練だけによって得たものではない、と確信している。

当たり前の考えだとは思うけれど、私はそれをここに書き残したいと思うほどに、彼のピアノには何かがある。

それを少しでも垣間みたいと、今夜もじっと彼のピアノに耳を傾けるだろう。

(画像は幼い頃、祖父に買ってもらった私のピアノです)