Aino's Dream

職業写真家Aino(日本写真家ユニオン会員)のオフィシャルブログ。写真って夢みたい。。ゆるりゆるりと夢を追い続けて。。

「智恵子抄」高村光太郎

2013年11月28日 | 

 

私の小学生の頃の愛読書はこの「智恵子抄」と「シュバイツアー名言集」だった。

智恵子抄など小学生の私が理解できる代物でもないのに、その言葉の煌めきと何とも言えない優しさをそこに見いだして私を夢中にさせていたように思う。

その煌めきと優しさは、高村の、また智恵子の純粋なる愛の織りなしたものであるから生まれたものなのだと、再びこの本を手に取って痛切に感じた。

すらすらと読み進めていく本ではない。何回も同じところを行きつ戻りつひたすら二人の間を行ったり来たりした。つまりあるときは、高村は私のオットであり、またあるときは私がオットに募らせている想いがそこにあった。その純愛を読み進めるうち、有名な「レモン哀歌」が出てきた時には、独り号泣してしまった。高村から渡された檸檬をかじってその香と逝った智恵子は、誰がなんと言おうと幸せだったのではないかと思っている。そう考えることがせめてもの私の慰めだ。

有名な智恵子が言った「東京には空がない」という言葉。私は生まれも育ちも東京なので理解不足かもしれないが、もちろん、その言葉には東京の空が故郷と違って濁っているということを意味しているとは思う。だけどそれだけではなかったのではないか。東京には純粋さと天空を突き抜ける自然のダイナミズムがない、ということも言いたかったのではいかと私は考えている。そしてそれ故、薄い薄いガラス細工のような智恵子の精神を蝕んだのかもしれないと推測している。

この本を読み終わるのにとても長い時間がかかった。薄い本だがその重みは世の本を遥かに凌駕しているように感じた。


「雪のひとひら」ポール・ギャリコ

2013年03月24日 | 

 

この本は雪のひとひらが地上に舞い降り、そして海で死んでいく物語である。

地上に舞い降りる時の生への喜び、美しさ、生きることの哀しさ、そして静謐な死。世界が、生きることが、とても素晴らしく美しく見えてくる本だった。

私は、原則として、本末尾の訳者あとがきや解説を読まないことにしている。以前、かもめのジョナサンを読んだ時に、訳者である五木寛之がその物語をめちゃくちゃに批判をしていたのを読んで以来だ。

この本の訳者あとがきも読まないつもりでいたのだが、誤ってページをめくってしまった。最初の数行に、この本は女の一生云々、だとか女の一生についてはこれまでも云々、などどという言葉が見えた。そして私はすぐに本を閉じた。

この本を女の一生などとあるいは前例があるなどと決めつけてほしくない。私はこの本の持つ、生と世界の美しさをただただ感じ、静かな感動を覚えた。そして歳をとるにつれ忘れかけていた、現実の世界も美しいものなのだということを本を閉じた後に、ただただ感じた。


「夜と霧」ヴィクトール・E・フランクル

2013年03月23日 | 

 

この本は言わずと知れた、あのアウシュビッツの強制収容所にいた精神科医が語ったものである。

人は極限に立たされた時、過酷な労働、死への恐怖、それを目の当たりにしたときに、どうなるのかが克明に記されている。

彼は体がどんなに蝕まれようが痛めつけられようが、精神は自由であると言った。しかし、自由とはどこの方向にもいけることを意味することが分かった。生きる気力を失ったものはすぐに死に、また下劣でずる賢く生き残ろうとしているものはサディスティックな監督官の手下に成り下がった。一方で精神的な高みに達する人もいた。フランクルは仲間を励ます時に、無意味に死んではいけないと言った。

一番心に残っているのは、何故生きているのか?と問うことではない(実際みんな、この過酷極まる状況の中でどうして?と問わざるを得なかった)、生きるということが私たちに問うているのだ、と。人間としての尊厳を守って生きられるかどうかだ。

私の祖父は、戦争でシベリア抑留となった。祖父はロシア語ができたので、それほどの重労働を課されずに済んだ。祖父はシベリア抑留で何があったのか1回も話したことはなかった。しかし、私は信じている。祖父が捕虜の身であっても、特別扱いされる身になっていても、決して、下劣な人間に成り下がらなかったということを。人間の尊厳を守ったということを。それは、祖父のもとに、もと日本兵から何枚も、年賀状が届いていたからだ。


村上春樹について

2013年03月23日 | 

 

最初に村上春樹の小説に出会ったのは、彼のデビュー作「風の歌を聴け」だった。図書館で借りたものだった。ひどく退屈な小説ではないか、と思いながらも、私はその本を買った。それ以来、彼の本は全て買い、2回以上は読んだ。

誤解を招きたくないのだが、私は村上春樹の盲目的な信奉者ではない。ただ、何かが私に村上を読ませる。

彼の本について感想を書くのはとても難しい。そこには何かがある、感じていてもそれを言葉にするのは困難だ。そして、彼自身も何かの感じ、を言葉にしているのだと思う。その何かの感じを言葉にできるところが彼の異才なのかもしれない。

今も村上春樹の何度目かの読み返しをしている。何も求めてはいない。そして彼自身も読者にそれを期待していないと思っている。


「つるかめ助産院」小川糸

2013年03月20日 | 

 

「ソフィーの世界」のあとにこの本を読んだこと、また近くして「ノルウェーの森」を読んだことは必然のように感じる。

この物語は、心に大きな傷を持ちとても孤独な一人の若い妊婦が、南の島の助産院で赤ちゃんを産むまでの物語だ。傷ついた心がお腹の赤ん坊とともに癒されていく、その様子がとても胸に温もりを与えてくれる。ちょうど島の人たちが彼女にしてあげたように。そして、生と死の神秘。それは、医学的な、あるいは科学的なものを超えていると思わざるを得なかった。


「ソフィーの世界」ヨースタイン・ゴルデル

2013年03月20日 | 

 

この本に出会ったのは20代前半だった。その頃、果たしてこの本の内容を理解していたかどうかは疑わしい。そして、今また読んだ後においても、理解できていないことが多すぎると感じている。だから、何回でも読むつもりだ。

この本を一言で言えば哲学史だ。大昔から、ギリシャ神話の時代から「世界はどこからきた?私は何?」という問いが発しられてきた。哲学者たちは様々な時代背景とともに考え研究してきた。この本を読んだ後になっても、そして今の最先端科学のことに思いめぐらせていても、この問いに対する答えはこの本にはない。それがこの本のいいところだと思う。そういうことは、各々自分で考えるべきことなのだ。

ただ一つ、世界は美しく、それは、宇宙のとてつもなく大きな塊がいわゆるビッグバンで爆発を起こし、散り散りになった一つの星屑が地球であって、たまたま水があり酸素がなかったおかげで単細胞生物ができ、植物へと進化し・・・とてつもなく長い時間をかけて人間が生まれたこと。そしてそれは脈々とバトンされて今の私がいること。それはほとんど奇跡に近いと思った。そしていわば、人間も星屑なのだ。

今まで子供はいらないと思っていた。だけど、そんなに奇跡的に生を受けたのなら、それはバトンしていかなければいけないのではないかと思うようになった。そうして、私はこれから先も「世界はどこから来た?私は誰?私は何?」という問いを自分に問い続けようと思った。答えなんてなくていい、問いを発することに意味があるのだと思う。


「ノルウェーの森」村上春樹

2013年03月20日 | 

 

ノルウェーの森を最初に読んだのは、確か20代半ばだったように思う。

その時は、若さ故にありがちな、性的部分に興味をそそられた記憶がある。実際に村上春樹も処女作ではセックスについては一切書かず、ノルウェーの森ではセックスのことをたくさん書こうと思ったと言っている。

しかし、この作品は、40になった私には生と死の話に感じられた。

生は死を含んでいる、という文章が頭を離れない。確かにそうなのではないかと思う。生きているということは死んでいるということの対極に位置するものではなく、常に一緒にいるものなのだと。そして、生きている者は死を背負って生き抜かなかればならないということを。

この本に対する感想が上記のように短いが、この本は私にとって大切な本になった。保留にしている点もたくさんある。多分これから先も何度か読む本だろう。


「八日目の蝉」角田光代

2013年03月20日 | 

 

この物語は既にドラマで見ていた。

しかし、映像で見るのと本で読むのとはその物語が自分に迫ってくるものに明らかな違いがあるので

いいと思ったドラマの原作は読みたいといつも思う。

 

この物語は、不倫で身籠った子を不倫相手の男が、自分が離婚して自分たちが結婚できるようになるまで待ってくれ、と説得されて堕胎させられ、さらに子供の産めない体になってしまう女が主人公だ。しかし、やがてその男の妻にも子供ができ、主人公はその赤ちゃんを一目見たいと思う。それでも一目見るだけではダメで、結局はその赤ん坊を連れ出して逃げる、つまり誘拐犯として逃げて逃げて逃げて逃げまくるのだ。

この話を半分くらいまで読んだ時には、人の赤ちゃんを誘拐するその女の気持ちが理解できなかったし、びくびくとしていつも逃げまくるその生き方はにホトホト嫌気がさしてくる想いだった。最後まで読むのをやめようとさえ思った。

しかし、逃げ抜いて小豆島まで子供とやってきて、美しい自然の中で伸び伸びと本当の親子のように暮らすようになったあたりで、なんだかホッとした。そして温かいものを感じるようになっていた。

結局、その島で主人公は捕まる。子供と引き離される時に言った彼女の最後の言葉は「待って、その子まだ朝ご飯食べていないの!」だった。

引き離された子供はめちゃくちゃになった家庭で生きる。実の母親より誘拐犯の方が母親にふさわしく感じられるくらいだった。

子供はそれでも成長し、やはりまた妻帯者と交際するが、「あの女」(彼女は誘拐犯のことをそう言う)みたいにあるいは自分のバカな両親みたいにはなりたくないから、赤ちゃんを盗むまでに人を愛しずぎることなんかやめようと思う。

でも、愛ってそういうものだろうか?愛しすぎて赤ちゃんを盗むのは、私から見れば、愛の名を借りたエゴイズムに思える。

私が思う真実の愛は、無償の愛であると思う。愛しているからといって何かを動かすのは、それは愛ではないと思う。

私が自殺未遂をし、助かって退院したとき、口数の少ないオットは、こう言った。

「あの愛乃を発見したとき、そんなに辛かったのか、そんなに辛いのならこのまま死なせてあげた方がいいのではないか」と考えたと言う。その時のオットは自分がひとりぼっちで取り残されていくことやそんな自分のことは考えもしなかったのだ。ただただ、私のことだけを理解し考えてくれた。私が知っている愛はこういうものだ。

 


読書について

2013年03月20日 | 

この頃、ちょっとした暇も惜しんで本を読んでいる。

昔読んだ本もあれば、新しい本も。

思えば、私はオットと結婚するまで、たくさんのたくさんの本を読んだ。

何かの答えを見つけたかった。でも何を見つけたかったのか、問い、がそもそもなかったのかもしれない。

あるいは、弁護士になる夢をあきらめざるを得なくて、私は行き場所を本の中に探そうとしていたのかもしれない。

オットと結婚して、私は行き場所を見つけた。

だから、実家の私の部屋中を埋め尽くしていた本を全部処分した。

しかし、私はまた本を読むようになった。それが何故なのか分からない。ただ、単に面白いからという理由ではないようだ。

考えることが好きなのかもしれない。お風呂の中でも読んでいる。

1冊終わるとまたすぐに1冊・・・それは乱読に近い。

そしてこの頃、1冊と次の1冊の中で間を置きたいと感じるようになった。

1冊1冊が今の私にとってとても意味深いものであり、読み終えてもなかなか本棚にしまえないのだ。

昔読んだ本も、とても新鮮だ。そして昔とは違ったように感じ考える。

だから、今現在の私がどう思ったか書き残そうと思う。

そうすることによって、前へ進めるような気がするのだ。