Aino's Dream

職業写真家Aino(日本写真家ユニオン会員)のオフィシャルブログ。写真って夢みたい。。ゆるりゆるりと夢を追い続けて。。

生なる意味

2013年12月26日 | Leica M3

私は「物」にも命が宿るように思う時がある。

先日、7月に買ったばかりの愛車を派手にぶつけてしまった(人 物損なし)。そして10日ほど入院させてしまった。この時に受けた衝撃は大きかった。手足をもぎとられたような、10日間悶々とした日々を送った。
思えば、7月に買って以来、愛車に乗らなかった日はなかったし、どこへでも一緒だった。それは私の秘密の部屋であり、相棒であり、肉体の一部だった。
そうしてまた、こうも考えた。人や物に危害を加える前の私の愛車からのメッセージでもあったのではないかと。

また、命が宿ると思ったのは車だけではない。私はこの写真を撮ったノクチルックスというレンズを愛している。詳しいことを言ったらきりがないが、言ってみればじゃじゃ馬なこのレンズで撮る時、私はこのレンズと共同作業をしているのだと感じる。
持っているレンズやカメラはみんなそれぞれに個性があり、やはり生きている感じがするのである。

神様でもない一人の人間にすぎない私が、物に息吹を与えているなどとはおこがましいが、物を活かすと言う意味で生命を宿らせることができるのかもしれないと思っている。

私の写真が一人でも多くの方にそれぞれに生なる意味を持って頂けたなら、そんなに嬉しいことはない。 


焦ってはいけない

2013年12月17日 | 独り言

焦ってはいけない

どんなに焦ろうと状況は変わらない

時は平等に過ぎていく

焦ってはいけない

心の疲弊はいかほどのものか

真に疲れさせ自分を見失い

それがどれほど大きいことか

焦らなければいけない場面にあっても

心の均衡を保ちながら

また自分と向き合いながら

ただ 歩を進めるだけなり

 


オットの真実

2013年12月16日 | 独り言

私は昨年、大きな人生上のミスを犯した。それによって大切なオットを真に傷つけ孤独へと追いやってしまった。

今、寒さの中、オットの帰りを待っている。そうして、こんな日は、私が入院した5日間、オットがどれだけ孤独だっただろうと想像せずにはいられない。暗い玄関のドアを開け、出来合いのものを食べ、猫に食事をさせたりしたのだろう。それでもオットは何一つ責めたりはしなかった。自分が辛かったことも言ったことはない。とにかく「助かってよかった」とだけだ。

以前、オットとお相撲をとろうということになったことがあった(笑)
私が倒れ込んだところにテレビがありそのテレビに頭を少しぶつけてしまった。私はからかおうと思って眼をつぶったままじっとしていた。オットが最初は「はいはい、起きよう」と悠長に構えていたが、だんだん声色が変わってきた。私の脈をとったり「愛乃 愛乃」と泣きそうな声で連呼し始め「悪い冗談はやめてくれよ~」とほとんど泣いているのでつい笑ってしまって眼を開けた。こっぴどく怒られるものと思っていたのに、「あ~よかった よかった」と一言も怒りもせずただただ私を抱きしめて泣いているのである。オットが涙を見せたのはリュウの時とこの時だけである。

そういう人だ。自分では いい人なんて言われたくない なんて嘯いているけれど、毒舌と言ってくれ などとそぐわないことをいっているけれど、これがオットはこういう人なのである。

 


これ以上何を

2013年12月15日 | 独り言

傍に 静かに見守っていてくれる人のいること

傍に 静かに励ましてくれる人のいること

傍に 私の辛い気持ちをその笑顔で温めてくれる人のいること

傍に 平凡そうに見えて真を突いている人のいること

嗚呼 これ以上に何を望もうか


違う 違う

2013年12月13日 | 独り言

違う 違う

私は何かして欲しいわけではない

違う 違う

まして謝ってほしくて言っているのではない

違う 違う

大切な貴方をできれば困らせたくはない

私は必死だ

私の気持ちを分かって欲しくて

私の悔しい想い

悲しい気持ち

こういう過程を辿って こうこうこうなって

そうして今 とても悲しい気持ち

貴方にだけはわかってほしい素直な気持ちを吐露しているだけだということを


静かな夜に

2013年12月12日 | 独り言

今日はオットはクライアントからの接待で遅くなるという

そうして降りてきた静かな淋しい夜

でも私はこの孤独の夜も、このありのままに淋しい夜も愛する

そうして、こんな夜も、ありのままの自分でいたいと願う

沸き上がる静かな静かな情熱で

紡ぐ糸

少しずつ少しずつ


理解すること 認めること 受け入れること

2013年12月11日 | 独り言

昨日、久しぶりの友達に会った。彼女は非常に聡明な人で、私が真に尊敬する友である。最近、いろいろあったので、仕事以外に人と会うことを避けていた私だが、なぜか、彼女にだけは会いたいと思って私から誘った。意識にはそんなに上らなかったが彼女に救いを求めていたのかもしれない。

いつものことだ、彼女との待ち合わせ場所で彼女をみつけると、名前を大声で呼び「久しぶり~!!」から始まった。
しかし、その後が、予想外だった。いつものようにガハハ!と賑々しくランチが始まるところだったが、彼女が席に着くなり言った言葉は「愛乃ちゃん、大丈夫?リュウちゃん・・・」不意打ちだった。目の前にいる友の真に心配し、慈愛に満ちた顔をとっさにみて、笑顔から一変、溢れる涙が止まらなくなった。リュウの顔がフラッシュバックする。そして私は今、本当に心許せる友に甘えているのだと感じた。

思えばリュウが亡くなってから、私は一回も泣かなかった。私にはリュウを失ったことが理解できなかったし、そのようなことを認めたくもなかった。だから、新しい仔猫を迎え入れ、その子を必要以上に溺愛していた。

でも、私にはこうやって泣くこと嘆くこと、真のリュウの面影に頭巡らすこと、そうしてリュウはもういないことを理解することが必要だった。私はこのとき初めて、リュウの死を受け入れたのである。

泣きながら、友に二言三言想い出を語り、また友に会えたことの喜びへと戻って、楽しいランチタイムを過ごした。 


自分が自分である事の非常に微かな誇り

2013年12月09日 | 独り言

 

私は10年以上前、まだ20代だった頃、とても辛い恋をしていた。

彼は同じ司法試験受験仲間だった。帰国子女で大学も体育会系の倶楽部に所属していたが、人当たりは至って温和。時を同じくして二人惹かれ合った。

昔の事だ、彼を批判する事などはしたくない。まして、私は今、この上とない伴侶を得ているのだから。

ただ、私が私である事の重要性を書くには、彼の存在が不可欠なのだ。そこには具体性も必要かもしれない。

彼は、私には要求と正当性の主張が多すぎた。しかし、当時の私は彼の要求を受け入れたい、彼に少しでも近づきたいと半ば妄信的になっていたように思う。

例えばこういうことだ。一緒に手を繋いで歩いている時に、彼が障害物に当たろうとしていたので繋いでいた手を少し引っ張った時の彼の怒りよう。言葉で言えよ、ということだった。私はそれがマナーなのかどうかも分からなかったが、彼がいう事は正しいのだから、私が悪かったんだ、と心底納得していた。

もちろん、私も随分反抗した。でもその中で彼の考えは怯む事を知らなかった。結局最期は、自分の考えは変わらない、僕と別れてもっと気に入ったヤツとつき合え、ということだった。

私は精一杯努力したつもりだ。彼が帰国子女であったことから、欧米の考え方を学ぼうと本も読んだ。

しかし、何もかもがダメだったのだ。そもそも一人の人を妄信することから間違っていたのだ。

私は彼に別れの手紙を書いた。最後に書いたフレーズを今でも覚えている。

「私は、本来の私から、随分と遠くに来てしまった気がします」

父が亡くなった事もありこの失恋は大きかった。でも私がそこに気付いた事も大きかった。些細な事でも自分の尺度を持ち一人で判断する事を覚えた。もちろん、それは私にとって至難の業で、長い時間を要した。

それでも今は、自分が自分であることに喜びを感じている。それは本当に本当に微かな微かな私の誇りでもある。


ポジティブ思考について

2013年12月08日 | 独り言

 

ポジティブ思考が随分と賞賛されている世の中であるように思う。
ポジティブは即ち善であり、ネガティブは即ち悪であるかのようである。

私は父が亡くなるまでポジティブの塊の様な考え方だった。

でもそれは、間違っていた。

私は父が亡くなった後の母や母の幼き頃の苦労や、同じくポジティブと言われていた祖母の関東大震災、太平洋戦争を乗り越えてきた苦労を思う時、ポジティブとはネガティブに裏打ちされたものでなければならないと考えるに至った。
それなくして、真の自分とはいえないのではないかと思う。

私は周りから、豪傑でポジティブだと言われる。それはそれでいい。
ただ、例え自分が暗いとネガティブだと思われようと言われようと私は私のままでいるだろう。
それが私が私である事の、微かな誇りなのだから。 


嗚呼 愉しいかな

2013年12月07日 | 独り言

 

嗚呼 愉しいかな

一週間の営みを終えて

貴方と夜更かしをし 朝寝坊をし

ぐだぐだと果てしなくダラダラとたわいもない話をし

ふたりで猫達と戯れ

嗚呼 愉しいかな

一週間に一回の食材の買い物と称して

実に実に 遠回りをして 果てしなくだらだらとドライブする

あれが食べたい これが食べたいと

貴方にせっつき

貴方は嫌な顔一つせずに買ってくれる

嗚呼 愉しいかな

その帰りも 果てしなくたわいもなく遠回りして

ケーキなど買ってしまう

そうしてお腹が必要以上に満たされて また必要以上に惰眠をとる

嗚呼 愉しいかな

貴方が存在していてくれる事が

私は天に感謝せざるを得ない 貴方の存在してくれる事を


The Sun and The Moon

2013年12月06日 | 独り言

貴方は太陽

暖かく明るく私を照らし

この世界を美しく見せてくれる人

私は月 鋭利に細くなった月

その光はネオンに消えてしまう

それでも貴方は こういう光だっていいじゃないか と夜道を危なげなく通ってみせる

そうして また貴方は天空へと昇り

私を照らし 私の道標を示し 彼方を見せてくれる

その喜び 滾々と湧きいずる泉のように絶え間なく 清く 心地よく冷たい

そこには刺もなく ただただ平穏の海原が広がり

私を自然の道理へと導く

月もまた満ち、その輝きを放てる日がくるのだろう


キティー そんなに泣かないで

2013年12月05日 | 独り言

キティー、ママのキティー

そんなに泣かないで キティー

その大きな眼(まなこ)から溢れ出る涙 その想い

ママは分かっているよ

キティーは「僕は死んだお兄ちゃんの身代わりなんかじゃない。ママ、ママ」そう言っているんだね

そう、キティーはお兄ちゃんとは違う。ママは分かっているよ

キティーはお兄ちゃんと違うエメラルドグリーンの瞳を持っていて、お兄ちゃんよりも毛足も尻尾も長いね

そして夜は布団に一緒にもぐって寝、一日辛かったママのことを慰めてくれるね

でも、キティー 分かってほしいんだ

お兄ちゃんもキティーも等しく、ママの子だってことを

ただただ、ママはお兄ちゃんには出来なかった事をキティーにはしてあげたいとだけ思っているだけなんだよ

だから、キティー、そんなに泣かないで 気弱になっちゃダメだよ 健康でいなければいけない

気をしっかりもって ママがいるのだから


母の古希に寄せて

2013年12月04日 | 独り言

今年の1月に、母が古希を迎えた。母の好きなレストランでささやかにお祝いをした。

しかし、当の母は「古希なんて言われたくない。私はまだまだ若いのだから」などと、言ってみればダダをこねる。ただ、これはあながち嘘や強がりではないのである。本当に娘の私よりも元気で、忙しい仕事の合間をぬって、週3回は体操のクラブに通い、先日などは、大学のOBのひとりとして女一人で伊豆へ行きトレッキングまで参加している始末。考え方などはいたってシンプルでポジティブ。誠に勇ましい人だ。

そんな、母が古希を迎えて間もなく私に漏らした事がある。
「今は嫌な事は考えられないし考えたくもないの。外で働いているとそりゃいろいろあるけどね、嫌な事があったときは人を責めるとかそういう気になれなくなったの。もっと楽しい事考えようって思うの。それはその人の問題で私は関係のない事だと考えるようになったの。それが不思議な事に70を境に思い至った事なの」 

確かに母の言う通り、最近の母は何かの階段を上って踊り場に出て心安らかに心柔らかく外の景色を見ているような、そんな気がする。

このように、母を高見に昇らせたのは、母の生い立ちにも関係しているように思う。
母は戦後5歳の時に満州からやかん一つでひきあげてきた。母の母(祖母)が荷物や財産は全部取られても、子供だけは必ず連れて帰る、という強い信念のもと母は無事に帰還できた。
それから何一つないゼロからの出発。祖母が津田塾大で英語の教員免許を持っていたおかげで、祖母が死にものぐるいで働いて二人の子供を食べさせ、シベリア抑留になった夫を待つ生活。運良く、祖父はその5年後に帰る事ができた。祖父は紆余曲折を経て早稲田大学の教授になった。共働きでけっして裕福とは言えない中でも、娘の教育には心血を注いだ。

母はそういう両親を見て育ち、独立心も旺盛になったのだろう。子供の手が離れた時、社会保険労務士となって今では生涯現役を宣言している。母は強い。それは撓るように強い。父が亡くなったときも、突然と一家の家長になったにも関わらず、毎日泣いている私たち姉妹にそれぞれの道添えを作ってくれた。

今でも私は母離れができない情けない有様だが、母は私の最も尊敬する人の一人である。

【略歴】

女子学院中学・高等学校を経て慶應義塾大学法学部卒
都庁に就職
私が生まれ保育園がなかったことから都庁を退職
私が高校の時に社会保険労務士の資格を取得
年金問題の時には、社労士会からの要請により相談員二人のうち一人としてコールセンターに呼ばれNHKの取材を受ける 


溢れる想い

2013年12月03日 | 独り言

 

 

 私は実に弱い人間だ。他人に顔をさらすのが恥ずかしいほどに愚かでその精神は見窄らしくさえある。

うちの7匹の猫のうち、末っ子のリュウが、3歳という若さで逝ったことに、私は耐えられなかった。それ故、間もなくリュウの面影を探し求めて、同じ種類の ソマリの仔猫を迎え入れた。名前はリュウとオットのスケをとって「リュウノスケ」。私は今、この子にリュウの面影を見ている。この子は、私にとって、キラキラと光る天使のようだ。

リュウが亡くなった時、うちの6匹は、それとは知らずに私を随分慰めてくれた。みんなは私に、この愚かな母親に、変わらず朝は替わり番こに挨拶に来てくれてゴロゴロと喉をならし、2階の書斎に行けば、さりげなくついてくる。私が何かしているときにも私から眼を離さず見守ってくれる、この安心感。

それでも、その中にリュウはいなかった。冷たい骨壺に入ったまま身じろぎしなかった。私にとっては(オットも同じだろうが)リュウがいなければ、うちは完結できなかった。

私はまだ小さくて痩せっぽっちのリュウノスケのことをキティーと呼び、一日の終わりに、寝室に迎え入れる。そして、「キティー、キティー、ママの子」と言いながら、頬ずりしたり抱っこしたり大変な騒ぎだ。そうこうしているうちに一緒に布団にもぐって二人で寝る。そうして、私は心の中で吹き出してくる溢れる想いを感じるのである。この溢れる想いを文字で表現することが非常に難しい。すべての私の血と肉と精神がこの可愛らしい天使に捧げられているというべきか。


言葉紡ぎ

2013年12月02日 | 独り言

私は文章を書くのが好きだと以前述べた。そしてそれは、私自身に文章を書くことによって清算することが多いからだと述べた。

その文章をどうやって書いているか。同じく文章好きの母は鉛筆と紙を持って構成してから書くと言う。確かに、司法試験の勉強をしていた時には非常に緻密な論理性が問われたため、私も書く前に構成をしていた。しかし、今は、書きたい時には、頭の中で言葉の断片、次に文章の断片が浮かんでくる。書かなければならないという衝動にかられる。そして書きたくない時には何も浮かんでこない。

そうして、PCを開き、そこに無限の紙があるかのように一気にドバッと書く。溢れる想いで言葉を紡ぐ。この書く時間が非常に短いようだ。周りから言われる。

この言葉紡ぎは、私の清算であり、セラピーであり、足元をを照らす標しであり、生きた証である。