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あげちうのブロマガ

あげちうの日々の色々な事

聖人とされる道の帰結にある聖人の愚痴

2022-06-20 12:17:58 | 日記

それは定番の失望と、定番の徒労感ではある。

ともかく今できる事は、テレビゲームでハイスコア的な物を目指す事だ。

クリア出来ないんですけど。

と、言うつまり、現状の問題とは「これ」だ、という事ではある。クリアしていく人はしていくのだ、彼らはそれだけの投入と努力?かの結果によってその栄光にある。それを求めるのなら?同じくそれを目指さねばならない。出来ないと言うのは努力が足らないだけだ。

あの、今までの自分の面倒は。

その自分の声は、相変わらず画面に薄ら映る”何か”のそれとして消えては行く。


要するに、また、だ。
「自分のシステムが他のシステムと対立した結果、勝利した」のだが。
その結果として得られる物が、ちょっと、失望と言って良いモノでしかない、だけで。

ともかく「大衆は神である」その原理と原則と道理は、他のシステムに対して優位にある。世界は”それ”が今、最終的には支配さえしている。道理それは”ここ”に有るのだ、それが正義、それに逆らうと言う事は何人で有ろうと、何かの問題を抱える事になる。

心配事は無くなりました、もう大丈夫です、という事態に成りつつ、という事なんだろうけども。

それは、語り出しさえする。

後は各自、自身の目指すべき理想へ向けて努力せよ、求めるのはそれだけだ。
視点は様々だが、願う全ては具現化し得る、ただ必要な労苦その他は甚大だが。
一応、この世界は夢を見て良い世界だ、それに束縛は無い。願えればそれは叶う。
あらゆる事は、頑張れば何とかなる。理想と言う意味で、駄目と言うそれは無い。
やればやっただけの事はある、自分の未来は自分で切り開くのだ、それが出来る。

不意に気づくと、それは地雷原に単身突っ込むような理想論ではある。

既存は既存として有る、それはそれとして、昔話、そう言う物としては残る。昔が何故ダメになって行ったか?そう言う物も、実感の様なそれとして解る。当時は本当に、一部の人々にしか達成は出来なかった。今はそうでも無い。それはそれとして価値ある何かとして、残っては居る訳だが。

問題は、その結果として「古いクリア出来なかったゲームが、クリア出来る様になった」という訳でも無い事だ。それは問題なのか?ではある、しかし、それはそれで不満の様なモノとしては、残る。

…それは、自身の後ろにある、しかし自身とは少しずつ異なる意向、”その”声かもしれない訳だが。それだけの労苦を投入した先には、”望むモノ”があって良い筈だ。それは何処だ?に対して、自身の衝動というか執着の先は、結論では求める?物を置いていない。

”それ”は、相手次第ですので。

自由意思の侵害は犯罪です、それは出来ません。

金銭的な話、それは?前にも考えたが「全て貴方のモノなので、貴方がその道理と共に、自身に提供して下さい」それはつまり、自分の財布の中からご褒美は自分に与えろ、そう言う意味ではある。つまり、結果に伴う利益性、それは無い。

この時、一体貴方は、この甚大な労苦と時間を費やし何を得たのですか?に、返答は出来なくなってしまう。相変わらず、だ、評価的な問題は、何かの壁、”それ”が自分が創ったそれである事は解っているがその前で、止まっている。

”普通”に暮らしたいのでは?

結局?「世界を救った勇者は何を得たのか?」と言う、不意にある問題に返答が無い、訳だ。”本人”は納得する部分はある、全て自分が求めた結果でしかない、しかし。”それ”に何かの打開を見ていた人々その多くには何かの疑問は残る、それはやっぱりある。

ゼレンスキー大統領への感覚も、何だか、同情めいて来た変化も有って。

「美鶴さんの長い妄想」これは、面白いのか、或いは。

 


社長と言う椅子の魅惑とその現実

2022-06-19 10:41:56 | 日記

結局、社長とは、或いは創作者で無ければ成らない、のかもしれない。

現場からの「どうすれば?」それへ、社長は返答するのが仕事に成る訳だが。


単刀直入に、「何を創れば良いんでしょう?」へ、返答するのが仕事であり。それに対しての「技術がありません」「人がいません」「コストが掛かりすぎます」等などにも、もちろん返答し、妥当なルートを示す、その必要はある。その為には、ある程度のビジョンは必要だ、「どういう作品を求めるか?」それは、或いはそのまま、自社の製品に現れていく。

結論で言えば、社長の作品が売れないのなら、その会社の製品も売れないのだ。

テレビ番組等に対して、社長はもっと、危機感を持たねばならない、のではあるまいか。


形態にもよるが、「プロ」それは基本、オーダー通りのモノしか創れない。”それ”は或いは宮崎駿監督であっても、だ。要求があって初めて、その先の絵がある。”それ”が無い限りは売り上げも出ず、酷いと干される、という事も有り得る。”それ”に対して何を求めるか?は、スポンサー側の役目?ではあり、その時、社長そのビジョン、そう言うのは色濃く、出る。

という理屈で言えば、今は社長側の「要求」に、多く問題がある、訳だ。現場のプロに対して明確なビジョン、必要性?それを要求出来てない訳だ。そして、”それ”に寄る責任が社長に集中する先で、何かの破綻もそこに起こる、訳だ。


現在、「責任者」が、一般論で多く無能的なそれは、何に理由が有る物か、ではある。


流石に「座っていればいい」とは、言えない状況ではある。とは言え確かに、創作性の無い社長なら、今までの理屈で言えば犬の方が役に立つ、かもしれない、犬の写真ならある程度の利益性は期待出来売るからだ…猫のそれの方が今は良いか。人間のそれでは、ちょっと微妙には成る。もちろんヘタな絵なんか見せられても、苦笑するだけだが。

…しかし、「責任者」を廻り番にしてる現状は、結構重くあって。責任者にビジョンを要求する、その是非は、重くある。出来ないかそんな意識の無い存在に”それ”を要求し、非難ごうごうと言う時、それは誰に責任があるのか、その人も別に、そこに座りたくて座っていないのだ、としたら。

何処に向けたらいいか解らない憤慨、それは渦巻いている、と言うのは少しある。

「大衆は神である」それは、本当に定理化したのだろうか?反論が無くなった、と言っても、「不満」それは言語化しないモノを抱えてそこにあったりもする訳で。「神が求める物を創れば売れる筈だ」その先にある現状とは、果たしてではある。

”それ”を創れない人は、要らない人ですか?

「無能か?」を言われたくない人々は、それを言わずに黙っているだけかもしれないが。そんな”彼ら”が社長に成っている?のは、何故なのか?ではある。

そして、他の人々は何故、社長をしてないのか。

 

 


評価も数値も当てに成らない

2022-06-18 10:17:35 | 日記

評価を求めるべきか、利益を求めるべきか?ではあるが。

どっちにしろ、今はその両方とも得られてない、のが「普通」ではある。

理解として「面白い」それは、「正しい」そう言う事、ではある。

その時、その「正しい」を審判するのに「神」絶対者、それは何?と言う理解が結構重要なそれとして有った、訳だが。その「面白い」を計る神として、「大衆」それは物理的に正しい、そう言う事に成った、と、不意に言って良い感覚は、ある。

大衆が「良い」と言えば、それは「面白い」のだ。

その時、作者でさえ、それに同意が無くても、だ。

だから、”これ”で良い。


と、思ってる先で大概は”なんか違う感じになってる”のが今までではあり…その辺が打開された感じもまだ、無い。反論は出来ないのだが、同意する訳じゃない、という事態はあって、それはそれで自由意識を護る、その帰結ではある。結果の責任は負います、というそれが如何に信用ならないモノでも、ともかく今までは反論がある限りはそれを否定出来なかった、と言うのはあって。今は?それは、少し微妙な認識ではある。

「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」そのラストはあれで良かったのか。

一応「正しい」と言う点では「正しい」作品としても道理的にも、は言えない事も無いしかし。「良い結果か?」は、とても言えないそんなオチではあって。しかし?マクロで見れば「自身らの保身に終始する結末」として、あれも一つの正義ではある。あえて描く必要は有ったか?は、今も謎だが。

とは言う物のもちろん、なんか超常現象で打開されましたってのも、どうなの?だが。

「シン・ウルトラマン」も、同人領域を護る、という視点では、ゾフィが地球を破壊する為にゼットンを送り込む絵も、有り得る、実際にワンダーフェスティバルは運営側の独断で、何度か中止しているのだ。”そこ”を生活圏?にしてる人々にしたら、それはとんでもない暴挙だが、実際には運営には重い負荷が掛かっていて、それに寄る話。意味を問われたら、殆どが利益性を求めてない”それ”は只の遊びに過ぎず…それは会社維持の為に利益を求める運営側の姿勢にさえ、否定を向ける様でさえ有る。正義はどっちにある?そこは、謎だ。

一応、一つの基準は言って良い。

大衆は神である。

神が認めれば、それは正しく、つまり、面白い。

自分としては故に、「鉄血のオルフェンズ」はあれで良い、そう言うしかない。この時、いわゆる「面白い」が、自身の要求とは必ずしも合致してない、という…それである事も、認めるしかない訳だが。

「カウンタ制御」はこの先にある、一つの主張か反発、ではある。

その結果、どうなったか?は、一応、理解されたとは思いたいが。


これは一応、「面白い」だろう。

こんな雰囲気のウルトラマンだったら許せるか?は、少しあるけど。

 


人気があるという苦境の人

2022-06-17 11:13:40 | 日記

「人気」と言うのは、諸刃の剣の様な物は、ある。

その支持を得ていた言動に自身が反する時、支持は敵意へ変わる物で。

どうも、ハッキリは言いにくい。

「今更、売れる方へ軌道修正掛けようとしても、ダメみたいですね」

それは、ほぼ最後通牒だ。


「カウンタ制御」それはやっぱり、面倒で危険な操作だ、とは思う。売れてないのに「売れてます!」と言うし、売れてるのに「全然ダメです」そう言う時。まず、その数値を付けてる側は、その「売れてない」全然ダメ、な方法論を使えなくなる。もちろん民意に反する行為であり、疑念に対して耐えるには、相応のダメージは覚悟せねばならない。

そして、”それ”が原因で実際の人気?が下がり、カウンタ数値だけでは利益が出なくなっていく先で。「利益を」と言い出す時。逆に、「今までのはダメだったのか?」それは、かなり強調されて、そして過失として、露わに成ってしまう。そうなってしまえば?その場はもう、取り返しが付かないのでは。

こうなっていくのは、結局、「実際のカウンタ数値は動いてないから」だ。

そして、「だから?」それは少し、思う。自分の数値が低くされている!としても、「実際の数値は変わってない」のだ、そこに”それ”はある訳で。「大衆は神である」その時、その意向を歪める事は結論で出来てない、訳で。神はただ、行為に対して因果に基づき応報をしてるだけ、だ。実際には、数値を弄った所で、何の変化も起きてなかった、それまでの全ては単なる徒労、或いは妥当な過失、そして妥当な損害として、結果に成っただけで。

全ては、神の掌の上、そんな感じなのかもしれない?


それでも確かに、「売れている」人気がある、そこに疑念があれば?相応の理由、「理不尽だ」それはそこにあった訳だが。社会の理不尽、それに対して抵抗する事こそが正義、そう言う状況も、平成の間はけっこう、発生してしまった。昭和からの蓄積、無理が通れば道理は引っ込む、それによってどれだけの”犠牲”が出ていたか?ではある。その辺を治さない限りは、この問題は打開されない。打開しなくても神にとっては問題無い、”それ”によって大惨事になろうと、それは人間の選択とその結果でしかない。「全く問題ない」と言う時、それは何もしない、ただ、”そこにあるだけ”だ。

「結果が出た」様な、そんな感覚には、成る。

どういう意味で?も、少し混沌とはしている。ウクライナでは既に、特攻隊までも動員し、彼らは連日犠牲に成っている、とも報道。どうしても日本の戦争末期、それしか想像出来ない。日本軍も良く戦ったが、硫黄島それは結局、捨て石でしか無かった。

要求はある。

それは眼前かのゲーム、それとしてあって。
「面白い」には、要求に応えている際に感じるそれだ、しかし。

その壁は、結局は「無理」だろう。

 


「難しい」事を続けている人の呟き

2022-06-16 10:45:05 | 日記

結局「物に成った技術」或いは、と言うモノを持って居れば、何でも意味がある訳で。

その「物に成った技術」が何処にあるか?は、その人それぞれではあるのかも。


多くは、一般論での「難しい」を超えた先に、”それ”は褒賞の様なモノとして、あって。その時、他より先んじる、という事になるのか、「先生」それではあり、「物に成った」それは、それにどうも、シンクロする感覚ではある。

その「難しい」は、しかし、本当に何でもあり、と言うのが面倒なのか違うのか、ではある。難しいゲームを超えた人々は多くそのゲームで「プロ」と呼ばれたりする。そうなってないと、実況動画にもやっぱり意味が無い、面白くない、そう言う事には成るらしい。ただ?”その実況をする”ゲームの難しいを超えている必要は、無い。一般論での「難しい」を超えて先生である、なら。”それ”を付加する先には何やかやの「価値」がある様だ。

いわゆる「賢者の石」と言う奴、だろうか。
錬金術師の、確か一つの到達点ではある。
”それ”を持って居れば、あらゆる物には価値が産まれる、そう言う。

一応、「美鶴さんの長い妄想」これを一人で創った、と言うのは当時にしろ相応にエポックではあり。その点で、「物に成った」部分は、もちろんあるのだろう、”それ”が現状で使えない、そう言う事もまま薄い。「ゲームとは?」この位、である。それはWindows上でか、一人でも創る事は出来る。

とは言え、あくまでも、個人的な主観の世界ではある。

”そこ”で嘘を付かずに「難しい」を乗り越える先に、良くも悪くも物に成る、「自身が価値を持つ」その境目は有る訳だ。

そうなってしまうと、違う分野での低レベル?でも、そこにある価値はそれを補ってしまう、訳で。

前に実況?した奴もそうだが、結局自分も、自身の得意分野?を付加して実況を続ける、という感じには成っていて。実況者として相応の人々?と言うのは多くがそうだろう。一般的には評価されないかもしれない「難しい」を超えた先で身に付けた「物に成った技術」を足場に、彼らはそこで光を放つ、訳だ。そう言うのが無いと、そこに居る必要性が、無い。

同人で有っても、だ。

むしろ同人の方が、直接的にお金を要求しないだけに、そう言うのが色濃いのかもしれない。

単純に「人気が無い」それは、その”物に成ったモノ”が無い、そう言って良い気は、する。先人のトレース、だけでは、やっぱり物に成った事には成らない、のだろうか。

そこを今、カウンタ制御で歪めてしまっているから、”これ”は説明に成らない、感じは少しある、訳だが。

物理的事象、実感?それに屈するべきか、或いは。

不意に、前に道が無い時。