駄作を創ったら、罪人なのか。
同意と否定と疑問と不満が、ここには相変わらず渦巻いている。
現状の理解で、「庵野秀明氏が、”黄昏の狩人”をパクった訳では無い」としても。彼の作品はその殆どが皇帝創作、「評価作品を土台にしつつ実はDisってる」と言うモノで、「それが数値的には殆ど評価されなかった」と言う物理的事象は、今の理解では”道理”でしかない、「神の認証を否定した」訳だから。自分も、スマートフォンにこれ以上の否定を向けるのは”それ”に成りかねない。現状、問題は無い、単に「あげちうが」求めたハードじゃ無かっただけだ。お前は神様か?違うならひっこめ。
私は神だ。
と言うのが、要するに「中華思想の皇帝」な訳だが。当時の自分も王を、「昭和の様なそれ」を求めた現実はあり、そこに彼が居て、そこにかつての”それ”を見たりした訳だけど。経緯で罪は問えない、しかし昭和天皇の理解と同じく、自分が彼を当時支持した事で、平成の間、「エヴァンゲリオン」”これ”が正義に成ってしまった、それは理由としてはある。
その汚染だったとしたら、全くの無関係、と言う訳でもないのだろうけど。
「売れた存在を否定しちゃいけない」のだ、今もってなお。それが結論で、自分は救ってくれてなくても、だ。彼らの不満はそこにある、演出として死んでいくモブ、それは我々である。彼らは助けられないのか?それで正義の味方なのか。だから、昭和天皇の死後、紆余曲折により”彼ら”に王の権力は渡ったが。上皇陛下は頑張ったと言うべきなのだろうか、膨大な借金は発生し、国を傾かせるような数多の大災害を経ても、一応、日本は「平和」な世界を続けた。
ともかくそんな環境の中で、彼らは結論で今も、最強の権力を手にした上で、自分で自分を救えていないのだけど。
この無能。
妥当だろうか、評価は。
結果は、罪人的だ。損失がただ、拡大する。要求は有っても、応える事は出来ない。自分の主義主張が原因で、それは或いは、小さな子供を焼き殺す様な事件さえ起きる。「この無能」物理的に責められる”それ”に応えるモノを創らねばならないのだが、結果は大きな損失しかそこに産まない。作り方の問題だ、「自分がやった訳じゃない」それは全部、土台にした作品が悪い。そして、そんな無能に対し、世間は今も、要求と期待を向けている。そして、「その期待をする場所へ」多分、神の厄災は襲って行くのだ。
彼らもまた当時、”そこ”に居たのだ。
そして、”神”への不満を蓄積したのだけど。
その理解で言えば、厄災により損害が出る度に、皇帝への支持、”それ”は「物理的に消えていく」と言う事には成る。それでも、彼らの肯定それは「命懸け」だ。劣った人々、そう言うべきなのだろうか、「テレビが認めているから」その愚直な信仰に対し、神の反応は苛烈だ。
平成の間、蓄積してしまった物ではある、現実否定、そして、現実はまた、今も、それほど魅力的とは言えない。
それでも、”これ”を選ぶしかないのだけど。
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