そう考えると、重い後悔はある。
「誰かが世界を救わなければならないんだ!」
その時、”それ”に反応して頑張ってしまったのが、或いは中村哲医師ではある。医者としての使命を全うし、しかし凶弾に倒れた彼は、中東で何を目指したのか。それを考えた時、彼の中に何かの野心が無かったか?と言うと、そこには疑問もある。
ともかく、「古い」感覚には、「戦争をテレビゲームで代用しよう」その理解は無い。
これを「古い」と言う程、概念その物は新しくも無い。そして同時に、それを否定する理解を「古い」と言える程、それは忘れられた感覚でも無い。「あの戦争が、遊びだったと言いたいのか」極論と歪みの反論として、しかし。実際に有るのはやたらと悲惨や悲痛を強調する”だけ”の戦争物の作品だったりする。「それが素晴らしいと言いたいのか?」その反論はまあ、多数決で負け続けては居る。
「戦争を無くす」その方法論は二つあって、一つは紛争解決機構での決着、もう一つが強力な独裁者による恐怖支配だ。中村哲医師は、結論としては後者を目指してしまった。そして、彼を支援した何かも、結論では”この”方法論を目指している。
かもしれない。
世界は、「救世主を求めている」のだ、そしてその帰結として戦争が発生する。
本来、理解としては、中村哲医師を支援した上皇様やら、平成を支配した歪みの多くは「解任」と言う形には成って、色々と実際には変化している、のだが。天皇の歴史上、「生前退位」はほぼ異例な事態だ、ある意味では「その職務を全う出来なかった」そう言う意味でさえ有る。残る物はあっても、平成という時代に多く問題があった、それはまあ、確かな話ではあり。
と言う感じで、日本においても今だ、道理はともかく感情論は、何かのしこりを残しては居る訳だが。
「戦争をテレビゲームで決着にする」と言う手段への否定感は、今も相変わらず重い。「不可能だ」それは昭和であっても常識ではあったが、「ガンダム」それが、一応は”それ”を具現化していた?と言う事実もある。それを事実と見るか否か、視点は様々で、理屈と実感と、今も何かの溝は残っている。
新型コロナウイルス、その問題は何か。
結局はそんな、旧と新の狭間にある、認識の異常かもしれない。古い方は、その偉大なる何かが「邪悪だ!」と言えば、物理的には問題が無くてもそれは邪悪に成ってしまう、古くから有る差別等々は今も、根本的には解決の糸口が無く。
頂点に居る”何か”の思惑、それは今、正義か悪か。