
女性とは、男性に比べて融通の利かない部分は、ある。
「ゲームセンターはもう続かないのでしょうか」
そういう面倒さ、だ。方法論を変えたら?それはもう、ゲームセンターのそれじゃないのだ。多少の融通は利くにしろ、それでも、そこに残ってしまうモノが、妙な執着を呼ぶ事は多い。
少なくとも、対戦格闘ゲームがある、時。「絶対に優勝できる方法」それは、無い。今の自分の理解か感覚もある、「最後には”必ず”自分と同じパワーが出てくる」のだ。その時の勝率それは?常に50%である。昔の「ブレイクした」という感覚それは、”相手”を破壊した、というそれである。その時、向こうで一人、女性は奈落に墜ちているのだ。
”それ”を理解した上で、そのゲームをクリアすると言う事は、自分がその過失をする、に等しくなる。
「漫画だから」も、結構限度のある逃げ方、ではある。漫画なら漫画として描いてないと、それは最後、言えなくなる部分が出てくる。抽象的に書く時、その裏には”現実”がどうしても、投影されてしまう。なのに、その先は虚構だ、未来は不確定であるしかし、作者は大概は、そうは描いてない。
「ストリード」ともかく”雅”市場その土台には、その辺に関して「漫画だから」その大前提は置いている、だから、”そこ”を足場にする限りは、ある程度の無理は効くのだがしかし。それは、投影されたその願いを否定する物で有る事もまた、現実ではある。
「このゲームをクリア出来れば売れるゲームは創れます」
それは出来ません、物理的に無理です。
今の「売れる」システムは、そう言うのだ。昔の様に、自社で企画したモノがヒットする、と言うそれは?かなり難しくなっている…ほぼ無理。
昔は知らなかっただけで、「昭和天皇」その認証が、背後に有ったのだ。それを失ったらどうなった?平成の、それは重い記憶として残ってる。
ヒットラーの存在も、重くある。昔はどうも、ユダヤ教の王と、昭和天皇には結構繋がりがあった、様だ。そして?アーケードゲームの領域、それはユダヤ教の王、その支配領域だった感じは、今考えると重くある。ユダヤ教にとってヒットラーの存在は重い後悔だ、それの再来を防ぐ時、「似た様なアーティスト」それについ、金を出してしまった。
昭和の頃は、「身を捨てる様な覚悟で執着すれば通ってしまった」のだが。
今は、その辺も打開?された部分がある、「アートスケールで適当なスコアじゃないと払えません」それで投資は止まる、結果、30点以下の作品では?その先は無い。
一時的に有った理想?強く願えば叶わない夢は無い、”それ”は今はもう、無い。
男性の多くは、この時、いやもっと前に、変化に対応する事にそんなに抵抗はない。利益性を前に、膝を折る事くらいは容易だ、不同意でも負けは負けである。が、女性の場合、「それが出来ない」と言う事は、その先の利益性を無視したかの願い、その具現も無い、と言う事だ。第三者から見たらどうでもよい話は、その時、絶対に避けたい何かではある、勝手だろうと、夫に設定した存在と別れるそれは嫌だ。
ともかく男性上位社会で、負けを捨てる先で捨てられるのは当然か、女性である。最終的には存在そのモノを否定され、それは重い呪詛を残していく、それは?「パワーレンジャー」とか、古い特撮作品でも「V」とか、そう言う領域に良く出てくる、怪しい女性幹部が、最終的には黒幕である。
このイメージだけでも、当事者にとっては理不尽だ。
単にただ、仲間の勝利を願っただけなのに?
根深い話すぎて、自分も今も、打開は見えない、解っている事は、「そのゲームは難しい」自分と同じ存在を前に、絶対に勝てる”それ”は言えない、それだけだ。”それ”に挑むのは意味がない。その無意味に挑む理由とは、何か。
何にせよ、アメリカももしかしたら、かなり窮地だ。
必要なのは、何か。
意味がある事、だろうか?
使用イメージ
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