
何だか、どうでも良い疑問ではある。
白と黒のサイコロがある。
どっちが男でどっちが女、だろう。
どうでもいい。
…とは言え、自分の精神状態、理解、立場?それから来る疑問、だろうか。今まで”ここ”には、白いサイコロが二つあった、のだ。ある意味で、「紛争解決機構」そのイメージ、だろうか。二つの等価な意見、その先に有る物とは何か?しかし。イメージとして民主主義を重視する時、”ここ”に有るのが「等価な二択」と言うそれは、どうも余計な絵をチラつかせる。
良くも悪くも、王の前に有る”二つの等価な意見”である。
それよりは、明確に「男女の主張」その帰結を聞いている、様の方が安定はする。
…しかし、その先にどうも、あの「飯塚幸三氏」或いは夫妻、その存在がチラついたりして。
そしてそれが、だろうか。「どっちが男?」それも訳の解らない疑問には成る。感情論的には男性が黒、女性が白、というニュアンスはある…しかし。理解としては「女性は個、男性は多」その視点や、「女性は意識が現実の外にあるが、男性は中にある」という設定?からすると、「見えない」と言う点で女性は黒、男性は白、には成る。どっちにしろ不満は出る訳で?安定しない。
しかし、等価な二択、それだと、民主主義的には「許容しかねる絵」でもある訳だ。だから、どうも余計なストレスが発生してしまう。
大変、どうでも良い。
「大賀さん」その決定次第だ。
というと、民主主義は”それ”を否定してしまい、騒乱が始まる。
自分は?ある時期からその、「等価な二択」”同じ存在”の意見の折衷案、自分の意見よりも”それ”を重視するし?それがそのまま「紛争解決機構」そのイメージであり、そして”それ”で上手く行ってきた、気もする、が。とは言え、自分の状況がどういう?と言うと、それで正解だったとは…どうも言いにくい。が、民主主義のスタンス、「男女の」それを見る時、そこに居るのは飯塚幸三氏とその妻?と言う、妙なストレスだったりする、訳だ。
「男女の」には、まだ不明瞭はある、どっちが白か黒か、ハッキリしない。
「等価な二つ」なら?そこには明確さはある。民主主義が”そこ”に邪を見る以外は。
”その二人”は、王とどういう関係?
「男女の」が、混沌を抱えているから?だろうか。どうも、否定的なそれが残る。
飯塚幸三氏は、事故を起こして、このままだと紫綬褒章も返上、という事には成るらしい。逆説的に、”ここ”がそれに陥ってしまった理由それが、”この”混沌だったかもしれない訳だ、「最後の決定権を握る夫婦」であり。自分の感覚は、結局は或いは、”この”夫婦に対して衝突していた可能性も無い事も無く。”それ”をただ、サイコロで代用すれば良いのか?それとも、根本的に「紛争解決機構」それを重視する、そこに意識を置くべきか。
どうも、剣呑な夫婦ではある。
自身らが特別でない事に、異様とも言える不満があり。
”それ”が何故か、周囲に面倒を起こすのだ。
とは言え、意識し始めると、それは何だか、グロテスクなサイコロではある。
必要なのだろうか?
使用イメージ
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