「商店街が総じて流行ってる光景」を理想、とする時、別の視点はある。
ネズミのような「個体差が解らない」小動物が、箱の中で犇めいてる光景。
任天堂の「ピクミン」にも本質的には通じるが、「管理する側と管理される側」と言う、人間の格差が家畜と飼育者に見える、というそれは、深刻な現実の一部としてはあって。ただ多く、この時「作者」の視点は管理側、ではある。飼育者はその中から上位にとって有用を残し、不要を否定し廃棄するのだ。そうやって創られる社会の、何が理想なのか?
基本的に社会は「法」によって統治され、個々の権利は護られつつも、それを侵害、或いは逸脱した存在は「犯罪者」として排除される。物理も、最終的には同じではある、生命維持に”適当”な事をしなければ命に関わる。その時、社会に対して反発するというのは多く、得策ではない。ただ、その統治に問題がある、と。現状の様にか、経済的な問題その他が発生する訳で、それは管理側の法、そこに責任がある。それを指摘し打開する、と言う方向性の作品は、もちろんか需要は、ある。
問題がない場合は?
それは、単に反社会性の発露でしかない。
ともかく現状の「創作の価値」は、規定となる理想、”それ”に社会を補正する、という方向性に多くの要求が有る、事には成っている。”それ”が「商店街が総じて流行ってる光景」で、基本的には”それ”を護り、問題を打開する、方向に需要は発生し価値が出て、作品は換金される事が多い。ただ、その「理想」その物が否定されると、売れる売れない以前の話に成っていく。「これでは箱の中で飼われた鼠だ」と、そう言えば、そこに”仕事”を求める事は出来ない訳だが。
そんな感じで自意識を肥大化させていく”それ”が、やがて大問題の原因となり、それを最終的には「餓鬼が」と撃ち殺す、それをここは多く「正義」として描いている…それが「”あまり”評価されない」事の是非ではある訳だが。
反社会性が忌避される場合も、管理側にとっての批判である場合も、「売れない」と言うそれは、同じかもしれない。
思想的には「大衆は神である」その”神”が求めるモノを否定する時、その社会は衰退していく、とは思うが。
ここから先は結果でしか解らない、そう言う話だろうか。
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